第1幕
自生した女郎花がはらりと散って、花弁が眼前に落ちてきた。
黄色い花はいかにも可憐だ。夏から秋へ移っていく季節に相応しいさわやかさを帯びている。あたりにも女郎花が咲き乱れていて、黄色い花弁を惜しげもなくつけていた。
山を拓いてできた学院だ。学院の敷地を一歩出れば舗装された道路の他は森である。寮から学院までの道も例外でなく、生徒達が行き交う舗装された道の両端には、木々が自然のアーチを作っている。それは良い具合にいまだに凶暴な日射しを遮っていた。
厳しい残暑の中にも少しずつ秋は訪れているようだ。木々の緑の他に、自生した秋の野花が彩りを添えている。女郎花、藤袴、撫子に桔梗。四季折々の花が咲くこの道を、巴は秘かに気にいっていた。
「巴」
背後からかけられた耳慣れた声。彼の気性を表すかのように低くて、少し堅い。
振り向くと、女郎花の可愛いらしさとは天と地ほどかけ離れた男子生徒がいた。使い込んでくすんだ光沢を放つエナメルバックを提げる肩は屈強で、背も並より高い。全身には無駄なく筋肉がついているのが制服の上からでも見てとれた。短髪の下、直線的な輪郭を描く顔は繊細さこそないが、そこそこ端正な造りをしている。
「おはよう、壮司。今日も暑苦しい顔だな」
声で彼だというのはわかっていたので、あいさつの一環で嫌みも投げてやる。
「暑苦しいは余計だ」
向こうも心得たもので、あいさつを返す代わりにすばやく否定してきた。さすがに長年つきあいだけあって絶妙のタイミングである。
「お前はその暑苦しい顔をさらされる私の不快さがわからんのか。ついに暑さで頭が沸いたか」
何も考えなくとも、反射的にさらなる皮肉が口をついた。これも長年の功である。
「……暑苦しい暑苦しい連呼すんな」
あまりに容赦ない巴の物言いに、怒っているのか、あきれているのか、そのふたつをごちゃ混ぜにして壮司は精悍な顔をしかめた。
もちろんここで引き下がるような巴ではない。部活の合宿に参加するため、壮司は一週間ほど早く家から学院に戻ってきていた。久々に会ったのだ。もう少し彼で遊ばない手はない。溢れる加虐心をあらわにして、巴は不敵に微笑んだ。
「己が暑苦しいことは自覚しているのか。いい傾向だ」
「俺が暑苦しいことはもういい! それより選挙だ!!」
「お前が暑苦しいことは重要な問題ではないか」
ついにがなり始めた壮司を意に介さず、しれっと言いのけた巴に「まったく重要じゃねえ!」と壮司のつっこみが入る。
無視をすれはいいものの、いちいち律儀に返してくるのが小気味よくて、楽しくてしかたない。ちなみにこの構図は幼少の頃から変わっていない。 小学校低学年の頃は彼が涙目になるまでからかったものだった。
「それより選挙だ、生徒会だ」
壮司は吐き捨てるように言う。だんだん巴にやりこめられるうちに彼にも知恵がついてきて、完膚なきまでに叩きのめされる前に話題を変えるという手段に出始めた。小憎らしい。黙ってやられてればいいものを。
「……ああ、今日か」
巴にとってはそういえば程度の認識だった。
夏休み前に巴と壮司は生徒会選挙に立候補した。巴は一年生の頃から書記として生徒会入りしており、生徒会経験者が引き続き在籍していた方がいいと、前生徒会メンバーから推薦されて、今回は立場を上げて副会長として立候補した。
一方の壮司は特進クラスである一組に籍を置き、なおかつ剣道部にも所属している。とてもじゃないが生徒会などに入る余裕などなかったはずだが、その真面目さを買われて剣道部で生徒会に所属していた先輩に推薦されてしまったそうだ。しかも会長に。
演説を経て終業式とともに選挙をし、夏休みをはさんだ始業式の今日、当選発表が行われる。
「お前は当選しているだろうな」
いささか確信を持った口調で壮司がつぶやいた。巴も「当然だ」と返す。副会長戦は立候補者が巴一人で不信任投票である。よほどのことがない限り落選しようがないのだ。
「さて、会長はどうだろうな?」
巴は意地悪く言って、揶揄めいた笑みをうかべた。
二名の定員すら満たしていない副会長とは対象的に、会長は激戦だった。一人の枠に対し、壮司を含め六人の立候補者がいた。例年立候補者を集めることすら難しいのに、今年は異様な集まりだった。壮司を推薦した先輩も立候補者が集まらないことを予測して、彼を推薦したというのに大誤算である。
「さあな」
当選したいようなしたくないような複雑な口調で壮司は答えた。多忙を極める彼としては、義理で立候補したあげく、当選してしまうことは不本意だし迷惑千万であろう。
だが、一度始めたからには責任を持って完遂するのが彼のポリシーである。落選して終わるのもまた不本意であるのだ。そういう一本気で、巴に言わせれば難儀なのが壮司という男だった。だからこそ推薦されるはめにもなったのだろうが
「不動先輩、はよーございまーす」
「はよーござーす」
壮司と似たようなエナメルバッグを持ち、スポーツ刈りにした男子生徒達が、略したあいさつをして通り過ぎていく。恐らく剣道部の後輩だろう。壮司は「おー」と軽く答えた。
さっきは意地悪くからかってみたものの、巴は彼の落選は視野に入れてなかった。壮司は根がまじめ過ぎるぐらいまじめなので、多少融通が利かないきらいはある。それを差し引いても、誠実で堅実な性格は大半の人には好ましく写るものだったし、面倒見もいい。そこそこ人望もある。
だが、巴が当選を確信しているのはそこではなかった。それらはあくまで要素のひとつでしかない。決定的な理由は彼が一組に在籍していることだった。
この学力至上主義の学院においてトップクラスの一組に在籍しているのは大きい。他の候補者達はどんなによくとも二組、あるいはB組だった。
この学院では成績順に文系が一組から四組。理系がA組からD組というクラス編成だ。なかでも一組とA組は二十名の少数精鋭制度をとっている、いわゆるエリート集団であった。学院内での価値尺度は一に学力、二に学力。とにかく学力である。成績面で優秀であることはすなわち、価値のある人物であることと同義であった。
そういうわけで壮司にははなから選挙を有利に進められる基盤があったのだ。彼自身は学内のそういう風潮とは無縁であるため、当落線上にいると思っている。成績だけが人間のすべてじゃねえ、と言いきる男ゆえだ。
壮司をちょくちょくからかいながら二人で並んで歩いていると、緑がとぎれて『私立立志院学院』とプレートを掲げた優美な門扉が現れる。眼前にはシックな茶色の巨大かつ近代的な校舎がそびえたっていた。地上四階は高校の校舎にしては一般的な階数だが、一階一階の天井が高く取ってあるためか、実際には五階建てくらいに見える。夏休みでしばらく見ていなかったためか、立派過ぎて規格外とも言える校舎は圧倒的だった。
校舎内は一般的な学校にしては珍しく、履き替えなしだ。互いに土足のまま校舎へ入った。贅沢にも校舎は全館冷暖房完備だ。入った瞬間に冷えた空気が露出した首筋や足をなでる。心地よさに息を吐いた。
昇降口は場所を取る下駄箱の存在がないためか、広々としている。ちょっとしたホールぐらいの広さがとられていて、事実ここは通称生徒ホールと呼ばれていた。
何より圧巻なのが四階まで続く吹き抜けと大階段である。入口側はすべてガラス張りであり、残る三方を生徒ホールを囲むように教室が配置されている。その構造が四階まで続いて、吹き抜けを構成している。
加えて幅十メートルもあろうかという大階段が二階へと続いていた。新学期ににぎわう生徒ホールを抜け、大階段を上がった。
昇降口のあるこの棟は本館であり、ここに普通学級はない。あるのは会議室や食堂、職員室などだ。大階段を上がった本館二階が各棟への分岐点となっており、大階段正面の渡り通路が芸術科やスポーツクラス、理科室等の各種特別教室のある特別棟へ、右の通路が一組から四組のある文系棟、左がA組からD組のある理系棟へと続いている。A組の巴と一組の壮司はここでお別れだ。
「じゃあな」
壮司が軽く手を上げた。その半身はすでに文系棟へ向いている。巴も「ああ」と答え、理系棟へ歩き出した。
――あっさりだな。
何ともなしに心の中でつぶやいて、顔だけで振りかえる。白いワイシャツ姿の男子やグレーのセーラー服姿の女子にまぎれて、文系棟に向かう広い背中が見える。頭ひとつ分出ばっているのですぐにわかった。そもそも自分が彼の姿を見間違えることなどない。
多くの人たちからつきあっていると思われている自分たちだが、実際は甘さも艶めきもない。幼い頃から一緒にいるのでどうしても身内の様な親愛が先行している。加えて壮司は生粋の堅物だ。恋愛の“れ”の字もない。
完全に壮司の姿が人にまぎれる前に顔を背けた。髪が一拍遅れて動きについてくる。肩にかかったのを払いのけて、再び歩き出した。
この自分が一瞬でも彼を見つめていたなど認めたくない。久しぶりに会ったのに彼のあっさりとした態度も気に喰わない。何とばかばかしいことだろう。この親愛の範疇を越えた感情は。今にも独占欲にかられそうな自分は。そして一秒でも長く見ていたいと思ってしまったこの想いは――滑稽そのものだ。
こみ上げてきた冷えた感情を心中で握り潰して、完全なる無表情で自らの教室へ歩を進めた。
かたわらの壮司がいなくなって、生徒達の雑踏が耳に戻ってきていた。
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九月一日、第二学期開始日の今日は始業式と簡単なHRで下校だ。ここ立志院高校は全寮制である。遠方の実家から昨日寮へ戻ってきた生徒も多いため、その長旅の疲れを慮ってのことであった。
HRが終了するやいなや二十名の生徒はすぐに帰り支度を済まし、次々と教室を出ていく。いつもは教室に残り雑談する生徒も見受けられるが、明日に夏休み明けのテストをひかえてはそんな余裕もない。この文系特進クラスの一組では寮へ直帰し、午後は寸暇を惜しんで試験勉強するのが当たり前だ。壮司もホワイトボードに書かれた明日の日程を確認し、早々に教室を出た。
他のクラスでは、教室で久しぶりの級友との再会を満喫しているのか、生徒ホールの人影はまばらだった。わずかな人影も特進クラスの帰りを行き急ぐ者ばかりで、ホール内はおおむね静かだ。
自らの足音を聞きながら大階段を降りていると、正面昇降口側のガラス張りの壁に設置された巨大な電子掲示板と相対する形となる。オレンジのドットが『新生徒会発足』という文字をテロップさせながら伝えていた。教室の黒板三つ分もあろうかという巨大掲示板に『生徒会長・不動壮司』と表示されるのをやや苦々しい思いで見送る。
まったく思いがけないことであった。先輩に泣きつかれて立候補してみたら、なんと候補者は五人もいるは、それを破って当選してしまうは。
壮司を推薦した先輩は、予想を大きく裏切る結果に、始業式の当選発表後平謝りしてきた。彼も昨年、部活と生徒会と勉強の両立にずいぶん悩んだらしい。壮司にも同じ思いをさせるのが申し訳ないらしかった。
壮司も両立の難しさを考えないわけではない。むしろ考え過ぎるほど考えた。だが、そのような迷いは立候補時に断ち切ったつもりだし、当選したからには全力で努めるのみだ。
ふと掲示板に視線を戻すと生徒副会長と流れていた。もちろん次いで古賀 巴と流れてくる。名前の後に得票数が続く。千百九十一票中、千九十五票。圧倒的信任だ。信任投票など、当選前提の形式的なものだが、それでもこの結果は異常である。普通はもう少し不信任票が出るものでないだろうか。
「生徒会長」
大階段を下るリズミカルな音とともに、凛とした声が聞き慣れない呼称で壮司を呼んだ。今朝とは逆のシチュエーションだ。
「巴」
新メンバーを発表し続ける掲示板から視線を外して振り向く。規則的な足音を響かせながら、彼女が階段を下り続けていた。艶やかな黒髪が動きにあわせて揺れている。
「ギリギリで当選だったな」
壮司と同じ段に巴が並び立つ。その秀麗な顔は苦笑していた。巴の方が十五センチほど低いが、その不遜な態度のせいか見下げている気にならないのが不思議だ。
「俺なんかに入れてくれる奴が意外と多いことに驚きだ」
自分を卑下するつもりはないが、いつわらざる本音だった。ちなみに次点との票差はたった十九票である。
「弱気なことだな」
「お前が自信過剰過ぎるんだ」
もはや彼女の軽口に軽口に返すのも反射的である。
そこでグレーのセーラー服が壮司より先を歩く。追い越しざまに香水の甘い香が鼻腔をくすぐった。
「まあ、とにかく当選おめでとう。壮司」
ちょっと言いづらいことを言うとき、顔を見せないのは意地っ張りな彼女の癖だ。らしくないことをしていると思っているのだろう。
「ご丁寧にどうも。お前もな」
依然として背を向けている華奢な背に礼を言った。ふふっと微かに笑って巴の短いプリーツスカートがひるがえる。
「実権は私のものだぞ」
再び相対した彼女の顔には黒い笑みが浮かんでいる。「やめてくれ」と言ってみるものの、巴は影の支配者然として似合いすぎる。現に支配できるくらいに有能でもあるのだろう。何せ先代生徒会の置き土産だなのだから。
それを裏づけるように「私に従っていれば間違いはないぞ」と悠然と微笑んでいる。頼もしいような、独裁的で恐ろしいような、複雑な思いだ。
「とにかく顔合わせやらねえと」
昇降口を出て、まだ夏の残滓を示す青い空を仰いだ。強い日射しがワイシャツから出た肌を灼く。
「明日は無理だな。すると明後日か?」
答える巴の声は玲瓏としている。声だけでなく歩き姿など、その所作もきびきびとしていて、暑さによるだらけなど微塵も感じさせない。
「そうだな。やっぱり明後日が妥当か」
明日、明後日と第二学期前半考査が行われる。前半もなにも二学期はまだ始まったばかりなのだが、要は夏休み明け確認テストだ。明後日は授業はなくテストだけなので早く終わる。新生徒会の顔見せには最適だ。
早くも今月末には陸上記録会がある。一刻も早く新生徒会の組織力を高め、始動しなくてはならない。例に漏れず今回の生徒会も全四人と少ないのだ。絶対数が少ないのだから何事も早めにとり組んだ方が良い。
しかも今月は部活の試合もひかえている。当然ながら、そちらもおろそかにはできない。これからの忙しさに身が奮い立つ思いだった。何事も手を抜けないことばかりだ。
ガラスに反射する強い日差しに目をすがめる。
壮司の怒涛の一年は今、始まったばかりだった。
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高等部の校舎を出て山道を行くこと徒歩五分。校舎と同じく巨大で、近代的な建物が高等部の生徒、千二百名が住まう立志寮だ。
コの字型の建物であり、右翼が男子寮、左翼が女子寮、そして両寮の接合部に当たる奥まった部分は特別寮と呼ばれる。特別寮は両寮の緩衝地帯として存在し、主に職員寮となっている。職員の他に生徒会役員を始め各部部長、委員長など学院の中枢となる人物が住まい、両寮の秩序を守っている。
だが、住人が特別だから特別寮と呼ばれるわけではない。男女寮ともに一般の学生寮よりは設備は整っているものの、特別寮はその比でないのだ。
まず基本的に一般寮は二人部屋だが、特別寮は一人部屋だ。これが一番の魅力であり、委員長や部長選別に一役買っている。普通は共同で使う洗面所やシャワーも完備されており、あげくの果てにインターフォンまでついている。晴れて生徒会長となり、男子寮から引っ越してきた壮司も噂には聞いていたが、改めて見るこの豪華さには驚かざるえなかった。
今まで男子寮では三階だったので、最上階の七階から見る景色は格別だった。といっても山々しか見えないのだが、それでも良い眺望だと思えた。窓の外に広がる壮大な山並みに、しばし目を奪われながら、ガランとした新しい部屋で意気込んで試験勉強を始めた。
床には必要最低限の物が入っているダンボールが無造作に置いてある。備えつけの勉強机も棚もまだ空っぽだ。おいおい整えていくつもりであるが今月の忙しさを考えると当分ダンボール暮らしであろう。
不得意教科である古典の教科書を開いて机に向かうこと一時間、ポーンという間抜けなインターフォンが集中を破った。
純粋な誰何が沸き上がってくる。男子寮ならいざ知らず、越してきたばかりの特別寮にわざわざ訪ねて来るような知り合いはいないはずだ。自分には少し小さい椅子を引き、頭の中で訪ね人を探しつつ、玄関に向う。インターフォンがあることをすっかり忘れて普通にドアを開けてしまった。
「こんにちは」
うわずった少女の声。そこには廊下に射しこむ気だるげな午後の陽光を背に、女子が立っていた。柔らかそうに波打つ亜麻色の髪が陽に透けてきらきらと光る。垂れ気味の目が緊張を孕んで壮司を見つめている。ふっくらとした唇も今は固く結ばれていた。鋭く高雅な雰囲気を持つ巴とは対照的に、円かなイメージのある女子だった。
「あの、隣に入室した桐原芙美花です。よろしくお願いします」
極度の緊張のためか早口に言いきり、勢いそのままに頭を下げられた。その拍子に開け放たれた鉄製のドアに頭を思いきりぶつけ、ゴンッとやや殺人的な音が鳴る。ついでにポケットから携帯が落ち、くすんだピンクの筺体が廊下を滑った。まさに踏んだり蹴ったりだ。
「〜〜っ!!」
声にならない悶えを漏らしながら、彼女は頭を抱えてしゃがみこんでしまった。目まぐるしい一連の出来事に、壮司はとにかく呆気にとられていた。
「……大丈夫か?」
どう見たって大丈夫そうではないが、我に帰ってもそれくらいしかかける言葉がない。
「……だいじょうぶ、です」
弱った声とともに上げられた瞳にはうっすらと涙がにじんでいる。壮司は玄関から出て、廊下の端へ飛んでいった携帯を拾い、手渡した。
「あ、ありがとう」
醜態を見られたことを恥じいるようにためらいながら、自分より一回りも二回りも小さい手が携帯を受け取った。はにかんだ彼女の微笑はよく言えば柔和な、悪く言えば鈍そうな人格を体現しているように思えた。
気を取り直して壮司があいさつを返そうとしたとき、はたっとある事実に気づく。『隣に入室した桐原芙美花です』彼女はそう言ってはなかったか。
自分のとんでもない憶測を胸に、猛然と隣の部屋を目指して歩く。ぽかんとする芙美花にはお構いなしだ。 数歩離れたところに、己の部屋と同じ鉄製の無骨なドア、インターフォンがある。その上に掲げられたプレートには『桐原 芙美花』の文字。
ふくれ上がる疑念を隠して、さらに数歩ほど歩く。そのまた隣の入居者を確かめるためだ。壮司の唐突な奇行に芙美花はおろおろとしていたが、彼女に構っている場合ではなかった。
プレートの『古賀 巴』の文字が壮司の疑念を確信へ変えた。
特別寮は男女混合寮――。
それは常識的、かつ教育的にどうなのか、PTAから文句は出ないのか、どうして芙美花といい、巴といい平然と暮らしているのか。ぐるぐると渦巻く疑問を消化できず、ただならぬ様子をみせる壮司に、今度は芙美花から大丈夫か、と声をかけられる番だった。
種々の特権がある特別寮の一番の“特別”とはこのことではないかと壮司は思った。これからの自分の前途が限りなく不安になった瞬間であった。