第4幕
あの日から、壮司が電話をかけてくるようになった。毎晩、決まって九時きっかりだ。
一通だけメールも来た。『話がしたい。お前の都合に合わせる』と。
そっけない文面だが、これが壮司にできる精一杯の誠意だと知っていた。
結局、芙美花によって遮られ、壮司との会話は宙吊りになったままだった。
彼は白黒つけないと気が済まない男だ。再び話し合う機会を得たいのだろう。
それだけではない。巴の妊娠できないという件が、壮司を切迫した行動へ駆り立てているのだ。
それがなければ、彼は望み通りきっと巴を放っておいてくれた。壮司は巴との別れを充分に理解していたのだから。
それにしても、あの壮司が携帯を用いる。
意外だと思う一方、やむおえないとも思う。
巴の計算づくの行動によって、壮司との交流は完全に途絶されていた。徹底的に遠ざけられ、あの直接対話を好む壮司が、携帯に頼らざるえなくなったのだ。
だが、非情だと知りつつも、携帯は電源を落として引き出しにしまってしまった。
悲劇の主人公を気取るつもりも、壮司を責める気もない。ただ、あらぬことを口走ってしまいそうで、顔を合わすのが恐ろしかった。
芙美花に対しても同様だ。
彼女からは随分勇気を振りしぼったと思しき着信が一件あった。しかし、彼女はどこまでも運が悪い。彼女に応答したのは留守電のアナウンスであった。
巴は自分が出られないときに、彼女からの電話がかかってきたことにほっとした。
芙美花が憎いわけではない。むしろ巻き込まれてしまったことに同情するほどだ。だからといってすぐに割り切って対応できるほど、度量が広くもない。
憎くない。だからこそ今顔を合わせるわけにいかないのだ。
壮司との別離と芙美花への発覚。
どちらかひとつであれば、せめて時間差で来てくれたなら耐えられた。
顔を合わせたら、彼ら二人ともから謝られる。それはあまりに惨めだった。
巴は朝日の中で制服に着替え、身支度を整える。学生鞄を持ち、部屋を出る寸前に、机の引き出しを開けた。
毎朝、一度だけ携帯の電源を入れる。壮司からの着信を確かめるために。
『不在着信 不動 壮司』
たったこれだけの文字に安堵している自分がいる。どんな形であれ、彼と繋がりを持てることに、とてつもない安心感を覚えた。
だが、壮司を無視し続ければ、遠からずこの着信はなくなるだろう。
そのとき、自分は果たして正気でいられるのか。無様に彼を引き止めやしないか。
それだけが心配だった。
―◆―◆―◆―◆―
健一郎は試合を終え、日常への復帰を果たした。
気がつくと秋は深まり、学院を早い紅葉が包んでいる。もう一ヵ月もしないうちに鄙びたこの地には雪が降り始める。つかの間の短い秋だ。
久々に生徒会室に入って、窓から見える銀杏を、健一郎はまじまじと見た。その黄色さに、記憶内の誤差を感じた。まだまだ落葉は先だと記憶していたのだ。
剣道に没頭している間は、現実に触れていなかったので、健一郎の季節は十月の上旬で止まっていた。
変わっていたのは季節だけではなかった。
生徒会室に流れる空気も如実に変化を物語っていた。今にも破裂しそうな緊迫感が、黙々と仕事をこなす室内を占めていた。
壮司はいつもより段違いにまとう空気が固い。彼が無愛想なのはいつものことだが、今日は少しばかりの冗談すら入る隙はなかった。
健一郎にとって心配なのは芙美花だった。
明らかに沈み込み、気力を削がれている。その鬱々とした様子は、健一郎ともめたときに勝るとも劣らないのだった。
一方、巴はいたって冷静だった。
「壮司、これチェック頼む」
巴が壮司に作成した書類を渡す。
相変わらず仕事は早く、怜悧な頭脳は健在だ。彼らとの接し方にも、別段不審な点はない。
「……ああ」
壮司は彼女をじっと凝視したあと、無骨な手で書類を受け取った。
壮司の相眸に単なる事務的なやりとり以上のものを感じる。逆に芙美花は、巴と極力視線を合わせないようにしていた。
彼らに必要以上に意識されている巴が、この異変に関わっているのは明白なのだった。
それに、と健一郎はパソコンのキーボードを打ちながら思い出す。
もう一週間近く前になる。夜の生徒会室で巴の泣き顔を見たのは。
並大抵のことでは動じなさそうな彼女の、崩れた姿。
健一郎の知るかぎり、巴にそこまでダメージを与えられるのは、一人しかいない。あのやや排他的な巴に、破格なまでの信頼を置かれている、不動 壮司。ヤツしかいない。
「……」
健一郎は隣でキーボードを叩く、巴の秀逸な顔に目を向けた。
単なる巴と壮司の痴情のもつれだったら、健一郎にとって話は簡単だった。しかし、あの場には何故か芙美花の学生鞄があり、なおかつ芙美花の様子はおかしい。それは紛れもなく、この変事との関連性を指し示していた。
巴と壮司、またはよくある女同士のささいないざこざとして、巴と芙美花ならまだわかる。が、芙美花と壮司まで険悪になるいわれはないはずだ。健一郎にはまったく事の次第がつかめなかった。
健一郎が印刷をクリックすると、隣のプリンターから藁半紙のプリントが絶え間なく出てくる。ある程度刷り上がったところで、芙美花がそれを持っていき、クラスごとの枚数に分けた。その横顔を健一郎はそっと見つめた。
なぁ、芙美花。どうしたんだよ。
心の中で問いかけても、芙美花の虚ろな表情は、少しも動かない。
――いつまで距離を置けばいいんだよ。
日曜日に試合が終わり、健一郎が何度、芙美花に話に行っても、張りつめた顔で「もう少し待って」と言われるだけだった。
――俺は見てるしかできねえのかよ。
自らの殻に閉じこもっているうちに、健一郎は部外者と化していた。自分が招いた事態とはいえ、歯がゆかった。
健一郎の視線に気づくとはにかんで微笑む。そんな芙美花は吹き飛ばされてしまった。背中を丸め、苦しみに対する他者の立ち入りを拒絶する姿は、少し前の健一郎とかぶって見えた。
誰にも心の内を触れさせなければ、感傷が胸の痛みを純化させるだろうが、それでは何の解決にもならない。ひとりで思いつめていては、余計に絶望に足をとられるだけなのだ。しかし、健一郎には外から働きかける、何の手立てもなかった。
狂おしいほどの焦燥を紛らわすように、健一郎は無心にキーボードを叩いた。
―◆―◆―◆―◆―
「待て」
生徒会の仕事を終え、さっさと立ち去ろうとすると、壮司に手首をつかまれた。
服の上からつかまれているというのに、痛いくらいの力が入っている。抑制のきいていない力加減から、隠しきれない彼の焦りを感じた。
無理もない。壮司は根気強く待った。
あの日から今日まで、何度か生徒会活動はあった。それでも、巴が早々に帰ろうとすれば、彼はこちらの意志を尊重し、引き止めることはしなかった。しかし、メールや電話も一切反応がなく、壮司はついにしびれを切らしたのだろう。
壮司は殺気すらこもった睨みをきかせ、健一郎と芙美花に無言の圧力をかける。健一郎は壮司の意を汲み、反発らしい反発もなく、芙美花とともに出ていった。
斜陽が長い影を作る室内。ひっそりと静まり返った校舎。あの日の残像と重なる。
巴はいらだちのままに、壮司の手を振り払った。
「何の用だ」
冷徹さで声音を固める一方、彼を目の前にすると心が波立つ。心のうろからドロリとした液体が流れだす。
「お前と話がしたい」
壮司はこの期に及んで残酷なほどに率直だった。飾らない必要最低限の言葉は、いかにも壮司らしかった。
愚直な彼は、言い訳を口にし、保身に走らないことが清廉だと思っているのだ。今の巴にはどんな卑怯じみた言い訳でさえ、救いになるというのに。壮司の見苦しい言い訳がそのまま、自らのくすぶり続ける恋心と折り合いをつける手段となるのだ。
「話? する必要がどこにある」
ひとつひとつの言葉が、壮司を切り裂くように鋭さを込める。二度と巴に同情など抱かせないように、彼をズタズタにして遠ざけたかった。
「婚約解消。その他に何がある」
言葉を発するたびに、胸に黒いもやが溜まっていく。恐ろしく凶暴で陰惨な気持ちが、流れ込む。
激情が止められない。
「それとも、子どものひとりも生めない許婚を捨てるのは忍びないか。ざぞや目覚めが悪かろうよ!」
惨めだった。たとえようもなく惨めで、自らを律することができない。本当はこんなことを言う気などなかった。
「……すまん」
巴の理不尽な謗りにもかかわらず、壮司はただただ耐えていた。
昔からそうだった。彼が非難される筋ではないことでさえ、自らの咎であるように受け入れた。その最たるものが寺の継承であり、その副産物が巴との婚姻だ。
「謝るな。うっとうしい」
巴は一刻も早く、この場から逃げたかった。壮司を底なしの憎しみで塗りつぶしたくはなかった。
巴のこの気持ちは高尚なものではない。失恋に起因する、身勝手で幼稚な怒りなのだ。
「壮司、お前は私に騙されていたんだよ。結婚する気のない私に振り回されて……かわいそうにな」
ベタりと張りつく嫌な物言いに、白々しい憐れみを込めて、壮司を見つめる。
妊娠できないと知ったときから、何度も壮司に言わなくてはと思った。しかし、どうしても決心がつかずに、ずるずると結局ここまで来てしまった。その間、“恋人ごっこ”を楽しみ、許婚としての特権をさも当然のように受け取って――挙げ句の果てに壮司に悪役を押しつけた。
妊娠できないのは自らの責ではない。しかし、巴の行動は高潔な壮司と違い、あまりにやましいところが多すぎた。
「……お前、どうすんだ、これから」
壮司は巴の悪意には触れなかった。怒っても仕方のない場面であったのに、巴の安い挑発には乗らなかった。
「何だっていい。男に頼らずに生きていければ、何にだってなるさ」
巴は投げやりに吐き捨てた。
結婚が女の唯一の生きる道であるかのように考える祖母は、巴をどうにかしてどこかへ嫁がせようとするだろう。壮司のことがなくなった今、むざむざと祖母の思惑通りになる気はなかった。しかし、祖母に背くということは、あの家で存在を抹消されることに等しい。完全なる自由を得るのは難しいことであった。
「俺に……何かできることはあるか?」
同じく祖母の支配下に置かれている壮司には、それがよくわかっているのだった。
そんな壮司の気づかいにも、巴は冷笑で報いた。
「できること? お前が? 笑わせる」
これ以上ないほどの嘲りで、表情を染める。
壮司は嫌になるほど真摯で、実際にその嫌悪感で笑みを深めた。そうして壮司の肩に手を置き、耳元に口を寄せる。
吐息を絡めて、ささやいた。
「お前の顔など見たくもない」
睦言のような甘い余韻で、壮司を残酷に突き放す。
不意に、朝日に照らされた携帯電話のディスプレイが脳裏に閃いた。
不在着信、不動 壮司――。
馬鹿げた幻影を振り切るように、壮司から身を離す。
「私を救おうとなど、考えないことだ」
すれ違いざまに言い放ち、生徒会室を出る。
張りつめた気持ちのまま、歩を進めた。校舎を出て、後ろを振り返る。
壮司が追ってくるはずがない。余計に虚しくなるだけだというのに、確かめずにはいられなかった。
西日に染まる校舎をみながら、そういえば喧嘩などしたことなかったなと、とりとめのないことを思う。
うちとけあい、気の置けない関係であるように見えて、依然として彼とは隔たりがあった。自分は女として不完全なこの体から。壮司は居候という立場から、心底繋がりあうことはできなかった。
壮司のために別れたなどと言うつもりはないが、やはり自分たちの関係はいびつであった。他人によって枠組まれた肩書きの中で、自然な関係を築けるはずはなかったのだ。
銀杏がはらりと目の前を舞い降り、我に返る。
靴底で地面をこすりながら、体の向きを戻し、再び歩きだした。
綺麗に身を引くことはできなかったが、これで巴のすべきことはあらかた片づいた。嬉しいとはもちろん、悲しみすら、もう沸いてこない。恋心の残滓が、ドス黒く変容して、不気味にうごめくだけだった。
倦怠感が体を覆い、銀杏の黄色も、紅葉の赤も、派手な色合いに不快感を覚えるだけだった。
一歩踏み出すたびに足が重くなっていき、寮までの道のりが途方もなく遠く感じた。
―◆―◆―◆―◆―
健一郎がタオルを首にぶらさげて、大浴場から戻ってくると、芙美花が廊下につっ立っていた。
健一郎はとっさに足を止める。
芙美花は巴の部屋の前に立っていた。
彼女は決意したようにインターフォンに手を伸ばし、またためらうように引っ込める。
芙美花と巴の間に何があったかは知らない健一郎でさえ、彼女の葛藤が容易に知れた。その横顔は不安そうで、今にも泣き出しそうで、健一郎をいたたまれない気持ちにさせた。
「芙美花」
彼女を刺激しないように、ごく落ち着いた声で呼びかける。しかし、芙美花は肩を大きく震わせ、驚きの意をあらわにした。
「健さん……」
芙美花の唇が自分の名を紡ぐのを久々に聞いた気がする。ただ、その呟きは困惑と拒絶に満ちていた。
しん、と張りつめた空気が流れる。芙美花の視線は四方に動き、健一郎をやり過ごす方法を探していた。
「古賀とケンカでもしてんの?」
ドア一枚隔てた先に、巴がいることも忘れて、突きつめて尋ねる。問いの矛先を向けられて、芙美花は目を泳がせた。
「それとも、不動のやつに何か言われたのかよ」
こちらは当てずっぽうで問うたにもかかわらず、たちまち芙美花は顔色を失った。
「マジかよ……」
健一郎は言葉を失う。
気に食わないヤツだが、壮司は女をどうこうする男ではない。しかし、芙美花の表情は、その認識をくつがえすものだった。
しまった、と芙美花は顔を崩すが、もう遅い。
健一郎は驚きのままに、芙美花をさらに問いつめた。
「不動が何て言いやがった。失敗を責められたのか?」
「ち、ちが――」
健一郎の剣幕に芙美花はたじろぐ。
じゃあ、何だよ、と瞬時に切り返そうとしたとき、唐突にドアが開いた。
「人の部屋の前で騒ぐな」
玲瓏とした声が、健一郎のはやる言葉を押し止めた。
芙美花のことになるとどうしても分別を失いがちだ。壮司のことを巴に聞こえる場所で非難する愚を犯してしまった。
健一郎が巴の出現に気を取られているうちに、芙美花はすばやく身をひるがえした。
「芙美花!」
健一郎の制止の声も振り切って、芙美花は自室へ駆け込んだ。
「毎晩……よくやる」
その姿を冷ややかに見つめ、巴は呆れたため息をつく。
毎晩、という言葉が健一郎の神経にひっかかった。
「芙美花は毎晩古賀を訪ねて……?」
「いや、部屋の前でつっ立ってるだけだ」
巴は何でもないことのように、しれっと言った。
芙美花のことになると公平な見方を失っている自覚はある。
しかし、巴の態度はあまりに冷淡で、薄情に思えた。
芙美花が毎夜、何をしに巴の部屋に来ているか、わかっているはずだ。芙美花のためらいがちな歩み寄りに、巴が少しでも応える姿勢を見せれば、解決はぐっと近づくはずだ。だが、巴の口振りからは、隔てるドアを開いたことも、開く気もまったくなさそうだった。
「……そんなに怒ってんのかよ」
巴のプライドが高いことは知っている。頭を下げることはおろか、譲歩すら難しいだろう。
自分が口を挟むべきことではないと思いつつも、芙美花と巴と壮司。あの三人では一生かかっても解決は望めないかもしれないと、嘆息した。
「怒るも何も、桐原が悪いわけではない。彼女が罪悪感を感じて、勝手にやっていることだ」
それに私がつきあう義理はない、と巴は悪びれもせず、言い放った。
さすがに健一郎はムッと顔をしかめた。
「その言い方はねえだろ」
憮然とした健一郎を見て、巴は怒らすことが目的であったかのように、口端を上げる。嘲り、見下すように睥睨した。
「お前に私の態度を責める権利がどこにある」
容赦のない言葉は、健一郎の非を暴く。健一郎とて、忙しさにかまけて芙美花をないがしろにしたのだ。
「……ごもっとも」
辛辣な言い草に、苦々しく笑うしかなかった。
対する巴は冷笑を納め、剣呑な光を瞳の奥にちらつかせている。
今夜の彼女は、無用とも思える挑発が、あまりに多かった。月下で妖しい輝きを放つ、抜き身の刀のようだ。周りをすべて敵だとみなし、触れる者を傷つける破滅性があった。
その鋭利さを納める鞘が誰であったかは、想像にかたくない。
「何があった?」
気がついたら問いかけていた。
少ない情報の断片を、繋ぎ合わせればば合わせるほど、真実は濃い闇に包まれていく。
健一郎の純粋たる問いかけに、巴は艶然とした笑みで応えた。
「私はすでにヒントを与えたはずだ」
単純な身長差から、巴は下から見上げる形となる。そのなめるような視線は、妙になまめかしい。
挑戦的に笑みを深めたかと思えば、言うことは言ったとばかりに、巴は部屋に引き上げた。
『桐原をしっかりつかまえておけ』
巴からもらった手がかりといえば、痛々しく泣きはらした目を向けてきた、あの夜の別れ際だ。その後、押しつけられた鞄を、芙美花に届けに言ったが、一向に彼女からの反応はなかった。
何かが起こったと考えるなら、その日だろう。
誰もいなくなった廊下で健一郎は思いを巡らす。
らしからぬ、巴の危うさ。
それは依存していた壮司を失ったからだ。あの涙もそこから来たものだとするば、説明がつく。
ではどうして巴と壮司は別れたのか。そこでいつも思考が止まっていた。
一番最初に思いつく“壮司の心変わり”をありえないと、封じてきたからだ。
それを許容し、巴の言葉と合わせれば――。
「あの不動が……?」
巴の芙美花への突き放した態度も、壮司の名に対する、芙美花の動揺も、すべて一筋になる。
雷電が全身を駆けた。
健一郎の知らない間に、季節外れの嵐が到来していたのだった。