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かざす花  作者: ななえ
第4章
18/68

幕間

 健一郎はバスの振動に揺られながら、窓の外を眺めていた。

 高速道路を快走し、車窓の景色は息をつく間もなく移り変わる。等間隔の街灯は夕闇の中で光の線になった。

 聞こえてくるバス内の喧騒はどこか遠慮がちだ。皆、健一郎に気を遣っているのだ。

 それでも、もれ聞こえてくる単語は『やっぱり』、その後に続くのは『無理もない』。

 健一郎自身、そう思う。

 今日、すべてを懸けた試合で惨敗を喫した。

 精神統一も何もなく、浮き足立ったまま試合に臨み、一本目二本目ともに同じ取られ方をした。

 目も当てられない。小学生ですらこんな負け方をしないだろう。

 持てる力の三分の一すら出せなかったが、健一郎は納得してこの大敗を受け入れた。

 罰が当たったのだ。

 予選会では相手に怪我させ、不当な勝利を得た。

 相手が健一郎の卑劣さを声高になじらないのをいいことに、ノコノコと選抜選手としてこの大会に出場した。

 この悪業を知っているのは、自身と顧問と相手だけだ。

 それなのに、周りは健一郎の敗北を当然のものとして受け入れている。それほど健一郎は精神の均衡を失って見えたのだ。勝つことなど到底不可能なくらいに。

 健一郎は静かに目を閉じた。

 まぶたの裏に浮かぶのはすべての元凶となった予選会の決勝戦だ。

 現実逃避と知りながらも、思い出したくないそれをかき分けて、芙美花の残像を求めた。

 試合は終わったが、こんな結果でどの面を下げて彼女に会いに行け言うのか。

 犯した過ちを、この試合の勝利で正当化したかったが、かえって己の弱さを突きつけられる結果となった。

 ――芙美花。

 眠りに落ちる前くらいは都合のいいことを思い出したかった。

 卑怯なこの身では、一番会いたい存在にも会いに行けない。

 押し寄せる悔恨の渦が、否応なしに健一郎をあの決勝戦のコートへ引き戻したのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 面を取った瞬間、どっと汗が吹き出てきた。

 後輩が差し出したペットボトルの中身をすべて飲み干したい衝動にかられるが、注意深く口をつける。

 水分の取りすぎで、動けなくなるような愚を犯したくなかった。

 汗を拭いながら正面を見れば、コートの対岸で相手も同じように汗をふいていた。

 県内予選会、決勝戦は正規の試合時間四分を越え、無制限の延長戦に突入した。

 相手も、無論健一郎も双方一歩も譲らず、激しい攻防を繰り返し、延長戦は長引きに長引いた。

 とはいえ、トーナメントを勝ち抜き、ここまでこれば両者の力は拮抗している。長引く決勝戦は決して珍しくはなかった。

 しかし、今回は数ある決勝戦の中でも類をみない長期戦となった。

 延長戦がニ十三分に及ぶに至って、健一郎も相手も充実した一打が出せなくなっていた。

 だが、相反して負けたくないという気持ちは強まり、攻撃は出せなくとも、攻撃を受けるのは許さなかった。

 決勝戦が剣道の試合から、単なる精神力と意地のぶつかり合いに変化したところで、やっと上層部からストップがかかる。

 協議の結果、剣道の試合では異例ともいえる水分補給の猶予が取られたのであった。

 許された時間は長くはない。

 一息つくと健一郎はすぐに面をつけ始めた。

 ペットボトルを持って下がった後輩と入れ違いに、顧問の教師が健一郎のところへ近寄ってきた。

 慌てて顧問の方へ向き直ろうとするが、手で制せられた。

「そのままでいい。聞け」

「はい」

 面紐を普段よりきつく結びつつ答える。

 そのまま彼は健一郎の背後で、アドバイスや今までの試合を踏まえた注意を落としていく。

 顧問は剣道六段の腕前を持つ玄人だ。助言は十二分に聞くに値する。

 助言が終わったのを見計らい、彼と正対する。

 座礼をしようとして、顧問の強い瞳と面ごしにかち合った。

 武芸者特有の張りつめた空気をまとって彼は重々しく口を開いた。

「……もう少し下を突け。いいな」

 一も二もなく、長年の習性で「はい」と答えていた。

「ありがとうございました」

 頭を下げれば、顧問は「気を抜くなよ」と厳しい訓戒を残し、健一郎の背を向けた。

 その中年ながらも、たくましい背を健一郎は釈然としない気分で見送った。

 顧問が残したのは、何ということはないアドバイスだ。

 突きとは相手の喉元を文字通り突く技である。

 高校生以上が使用できるこの技は、一本にするのが難しい上、他の面、小手、胴に比べると一般的に使用頻度は低かった。

 だからこそ隠し技としての威力を発揮する。現に健一郎も今大会で何回か使っていた。

 しかし、顧問の言に従いこれ以上低く突くと、胸突きといい、本来の打突部位から外れてしまう。威嚇としてしか役に立たないのだ。

 面以外の防具の結び目も点検し、不備がないことを確認する。

 竹刀を持って立ち上がり、体をほぐすようにその場で何回か跳ねた。

 たとえ健一郎が顧問に対し不審を抱こうとも無駄なことだ。

 運動部にとって――その規律が厳しければ厳しいほど、上の者が言うことは絶対だ。

 顧問は神にも等しく、その理非を正すより、鵜呑みにすることが尊ばれた。

 主審の求めに従い、、相手と目礼をしあい、コートに入る。

 開始線で竹刀を構え、その剣先を相手と交わした。

 深呼吸をして心をならす。

 自分の中に芯を持ち、揺るがないこと。だが、凝り固まらずに柔軟に対応すること。

 それが健一郎の“平常心”であった。

「始め!!」

 主審の号令がかかるやいなや、健一郎はいつでも対応できるように細かく足を動かした。

 会場内の無数の視線と声援を感じる。

 試合ではただ相手に集中をしてればいいというものではない。周りを感じる余裕と冷静さを併せ持たなくてはならない。

 じりじりと間合いを詰めながら、相手の動向を探る。

 相手は上背があり、竹刀を頭上でかざした形――攻めの構え、火の構えの別名を持つ上段に構えている。

 対する自分は、すべての原型である中段を対上段向けに変形した平正眼だ。

 相手の姿が同じく上段の使い手である壮司とかぶった。

「くっ!!」

 上段から素早い一撃が放たれる。

 会場内から沸いたような歓声が上がった。

 すんでのところで弾くが、健一郎にとっては苦しい一撃だった。

 息を整えつつ、構えを正す。

 わずかな息遣い、目線ひとつさえ掴まれては、つけこまれる。

 極力内に秘め、外に出すのは気迫のみだ。

 ミリ単位で動いていた相手の足の重心が動く。

 空気が変わった。

 来る――!!

 反射的に健一郎の切っ先も動いた。

 牽制の意味合いを込め、向かってくる喉元へ突きを放った。

 あえて一本を取りにいく技ではなく、相手の動きを封じるにとどまる突きを選んだのは、賭けに近い勝負に出たくなかったからだ。

 無理をする必要はない。手堅く一本を取る。

 『下を突け』

 顧問の言葉が頭をよぎり、とっさに竹刀の先端を下げた。

 顧問の意中は解せなかったが、健一郎は盲目的なまでに彼の正しさを信じていた。

 彼が言うからには何か益があるはずだ。突きを打突部位の下限すれすれに狙いを定めた。

 すぐに、剣先から確かな感覚が伝わる。駄目押しとばかりにさらに強く押し突いた。

 相手の体がわずかに傾ぐ。

 その揺らぎは命取りであった。

 しかし、絶好のチャンスを前に、沸き上がったのは純粋な狼狽だった。

 今まで隙らしい隙など見せなかった敵が表した、明らかな崩れ。

 それは奇妙な異変であった。

 だが、健一郎の俊巡をよそに、体は勝利を求めて飛び出していた。

 勝つことに特化した身体が、相手にかりそめの“死”を与えようと腕を振り上げる。

 それからはスローモーションのようだった。

 歯を食いしばり、苦痛に耐えるかのような相手の表情が網膜に焼きついた。

 その脳天に健一郎は無慈悲に一撃を食らわす。鮮やかな一撃に竹刀が鞭のようにしなった。

 視界の端で審判の旗が自分に上がるのをとらえる。

 一本を確実なものにしようと、勢いを殺さずに相手に体当たる。

 だが、相手と体が触れ合った瞬間、ぐにゃりと床が歪んだ。

「――っ!!」

 健一郎を受けとめると思っていた相手が崩おれる。

 疲労がピークに達していた健一郎は、自分の体を律せずに相手に体を預けてしまっていた。

 一蓮托生。健一郎もろとも体勢を崩す。

 かかとが床から離れる。耐え難い浮遊感に襲われる。

 互いの防具が触れ合うやかましい音がしたのを最後に意識が暗転した。

 音も感覚もない状態から脱したのは「大丈夫か!?」と審判に声をかけられてからだった。

 ほんのわずかな時間だが、気絶していたようだ。

「大丈夫です」

 受け身を取れなかったので、そこここに痛みを感じる。

 顔をしかめながら、おそるおそる上体を起こした。

 意識が覚醒するにつれて、相手のことがまっさきに頭をもたげる。

 思えば、突きを受けたときから様子がおかしかった。

 あんなにもいとも簡単に体勢を崩すなど、決勝戦進出者としては考えられない失態だ。

 どこか怪我をしていたのかもしれない、と思うと血の気が引いた。

「大丈夫か!?」「担架持ってこい!!」

 すぐ側で、こちらの比ではないほどのざわめきが起こった。すぐさま顔をそちらへ向ける。

「しっかしろ!!」

 拳で胸を叩かれたかのような衝撃を受けた。

 相手が右手を押さえ、床に倒れこんでいる光景が目に飛び込んできた。

 体温がサッと下がる気がした。

 彼の姿は間もなく人垣に埋もれて見えなくなる。

 健一郎の周りにいた審判や、大会関係者も次々に向こうへ行き、側にいるのは顧問だけとなった。

 それでも健一郎は、目はくぎづけになったまま、その場から動けなかった。

 その後、騒然とした観衆に見送られながら、対戦相手は病院に運ばれていった。

 茫然自失に陥った健一郎を顧問は上手く導いた。

 相手方の戦闘不能によって優勝を得た自分を、略式の表彰式に出席させ、帰り支度をさせて早々にバスへ放り込んだ。

 学校へ不本意な凱旋を果たした健一郎がしたことといえば、風呂に入って寝ることだけだった。

 相手への謝罪など事後処理はすべて顧問がやってくれたようだった。

 いつもより随分早い時刻にベッドに入ってやっと、自分の放ったあの突きが、相手に変調を与えたのかもしれない、と思った。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 数日後、複雑骨折で入院した相手の見舞いに出かけた。

 街行きのバスに揺られながら、同伴した顧問に「大分落ち着いたか?」と問われた。

 やはり反射的に「はい」と答えていた。

 むしろ逆だった。

 あの突きが試合の流れをあらぬ方向へねじ曲げたのだと確信したからだ。

 この数日間、稽古中にあの時と同じ状況を作っては、下めの突きを入れてみた。

 十人が十人と言っていいほど、頭に衝撃が回り、足元がおぼつかなくなった。

 これは剣道の技ではない。相手を陥れるための汚い手段だ。

 顧問がどんな魂胆で健一郎に指示を下したのかと思うと、不信感がつのるのを抑えられなかった。

 同時に正道から外れた自分に嫌悪感と罪悪感が込み上げ、どうしようもなかった。

 予想通り、病室へ入った健一郎を迎えたのは恨みのこもった視線だった。

 ロボットのようにギプスで固定された腕とは反対で花瓶をつかみ、ためらわず健一郎めがけて投げつけられる。

 幸い、重たいそれはここまで届かず、床に落ちて割れた。

 色とりどりの花と水が、真っ白な床に広がった。

 生まれて初めて向けられる強い憎悪に、ただ打ち捨てられた花を見ているしかできなかった。

 この事態を招いたのは本当に自分なのか、と思った。

 顧問のアドバイスを聞かなければ、突きなど打たなかった。

 それなのに、憎悪の矛先が自分なのは、割りに合わない。

 そこまで考えて、自らの浅ましさにハッとする。

 自分は相手に怪我をさせただけでは飽き足らず、顧問に責任転嫁までしようとしていたのか。

 顧問が示した突きに疑問を感じていた。それでも勝ちたくて、わざと蓋をした。

 顧問の言葉の真偽がどうであれ、あのとき安易な勝利に手を伸ばしたのは健一郎自身だったというのに。

 花びんの割れた音を聞きつけ、彼の母親が慌てて病室に飛び込んでくる。

 この惨状に悲鳴を上げた。

 何事かと騒ぎ立てる母親を顧問が適当にこじつけ、上手くあしらう。

 その後は彼らで形式的ななやりとりを交わされ、その付録のように健一郎は頭を下げた。

 母親は何も知らないようだった。

 帰り際に「あなたも何も気にせずに次の試合がんばって」と、いたわりに満ちた笑顔で手を握られた。

 その温かさに、言い様のない感情が込み上げる。

 息苦しさに、堪らず病院を出た途端に、きっちりと締めていたネクタイを乱暴に取り去った。

 帰りのバスで、感情に任せて選抜選手の辞退を申し出たが、顧問は取り合ってくれなかった。

 それどころか、迷いが出るのはお前が弱いからだと諭され、何も言えなかった。

 それからは、あれは事故だった。顧問のせいだ、という思いを沈め、淡々と日々をこなした。

 厳しい練習に身を投じ、体を酷使し、あの憎悪のまなざしをとにかく遠ざけた。

 それは、健一郎に一応の安定をもたらしたかのように見えたが、しょせんその場しのぎであった。

 日常の一場面で、部活で後輩と接しているときに、通学の最中に、ふと気力が切れるときがあった。

 そんなとき、芙美花の顔が思い浮かんだ。

 選抜選手も、先輩としての顔もすべてはぎとって、心のままに吐露してしまえたらどんなに楽だろう。

 しかし、彼女にも“頼れる彼氏”として接してきたがために虚構をまとわずには会えないのだった。

 それが行き違いを生じさせたが、丹念に誤解をほどいていくだけの精神力は抱けなかった。煩雑さを厭い、芙美花のことは後回しにした。

 試合が目の前になった頃、部内に余計なことを吹き込む者がいて、近年の戦績不振について、顧問がOB会で糾弾されていることを教えてくれた。

 そのとき、健一郎は彼を責める気にはならず、同情すら抱いたものだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「先輩、着きましたよ。貢先輩」

 肩を揺すぶられ、意識が現実に戻ってくる。

 重たいまぶたを開いて、ぎょっとした。

 バスの中の部員の視線を一身に集めていたのだ。

 今日の試合を終えた直後から、いろいろなものが見えるようになった。

 部員の心配を含んだ視線。逆に下世話な好奇心を宿す瞳。顧問のギラギラとしたまなざしや、疲れ切った自分の顔。

 改めて、ここ最近のがむしゃらに剣道ばかりしていた期間のことを、思い出そうとしてみても、はっきりとしなかった。

 部員の固唾を飲むような目に、破顔して「あー、疲れた」と伸びをした。

 彼らは久々に見る、健一郎の砕けた態度に呆気にとられていた。

 自分では普通に生活していたつもりでも、ずっと肩肘を張っていたようだ。

 試合を終えて、余分な力が抜けたのだ。

 誰も彼も久しぶりに顔を見た気がした。

 それらは本当に健一郎を案じる顔ばかりで、穏やかな気持ちが胸に満ちていく。

 バスのガラスに移りこむ自分は憑きものが落ちたような顔をしていた。

 何か解決したわけでも、やってしまったことが消えたわけでもない。だが、久方ぶりに充足感を得て、健一郎は心地よかった。

 バスを降りると、もう夜だった。

 光が灯っている、特別寮七階を見上げる。

 あそこが健一郎の帰る場所だ。たとえ“頼れる彼氏”ではなくとも、ただの健一郎でもあそこにしか帰れない。

 健一郎の頭上を月が煌々と輝いていた。

 その光は決して冷たいものではなかった。

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