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かざす花  作者: ななえ
第4章
17/68

第3幕

 共に育ってきた。

 受け入れ、受け入れられ、兄妹のように、あるいは姉弟のように。そして六年間を許婚として過ごしてきた。

 どの場面にも巴が隣にいた。かけがえのない、唯一無二の存在であった。

 口にこそ出さなかったが、どんな形であれ――恋愛ではなくとも、確かに愛していた。それは今だって変わらない。

 彼女が自分にとって一番大切な女性であること。それは疑いようのない事実だ。不変とさえ言ってもいい。その確固たる気持ちがあれば、どんな相手が現れようとも心動かされない絶対の自信があった。

 しかし、理屈ではどうにもならなかった。この意志を凌駕する激情を。自らの戒めさえも超越する熱情を。巴を愛する気持ちさえ越えていく感情を。はっきりと知ってしまった。

 芙美花に恋うる感情は、壮司に甘やかな歓びをもたらしはしなかった。それどころか、混迷と苦悩へ引きずり込んだ。

 苦境へ追い込まれ、自らに問答する。このまま、巴を欺き続けるのか、と。心を他者へ奪われたまま、何食わぬ顔で許婚として隣に居続ける――できるはずがない。どうしたって。

 巴が大事だからこそ、そのような姑息な真似はできようもなかった。

 何より自身が許せない。

 芙美花に好意を寄せていること、巴に対して隠し事をしていること、二重の罪を犯し、さらなる深みへとはまっていった。

 このままではいられない。焦りに日毎さいなまれ、やがて思いはひとつに集約していく。

 巴にすべてを話す。苦汁の決断を下したのは、執行委員会の数日前だった。

 しかし、すぐに行動には移せなかった。巴を失う。すべてを話すということはそういうことだ。

 婚約破棄か、あるいは仮面夫婦か。いずれにせよ、巴の心は永遠に離れていく。隣に当たり前のようにいた存在がいなくなる。数日がかりでそれをゆっくりと嚥下した。

 寂しいとなど、口が裂けても言えようか。罰なのだ。甘んじて受けるべき、いや進んででも受けるべき罰なのだから。

「話がある」

 来たるべき別離を無理やり呑み込み、焦るように巴に切り出したのは、執行委員会から週が開けた火曜日のことだった。生徒会室で、活動に使うファイルを準備していた巴の後ろに立つ。芙美花は隣の給湯室で飲み物の準備をしていた。やかんが沸く音がする。

「この後、時間をくれないか」

 ふっ、と一瞬だけ巴の軽やかに動いていた手が止まった。だが、すぐに無駄のない動きでファイルを選定しだした。

「いいだろう。お前の話とやら、聞いてやる」

 巴はこちらに顔を向けはしなかった。だが、壮司のただならぬ様子を悟り、声は冴々としていた。

「お茶入れたよ。紅茶でよかった〜?」

 隣室から芙美花が現れ、薄氷が割れるように、殺伐とした空気が割れる。強ばったまま反応できない壮司と違って、巴は「紅茶でいい」と、如才なく芙美花に答えていた。壮司も、ともすると足を取られそうになる思考を遠ざけ、公人としての役目を果たした。

 幸いなことに、芙美花は仕事が終わると早々と帰っていった。家庭科の課題が終わっていないんだ、と言う彼女は一週間前に比べると随分と平静を取り戻していた。健一郎の『待っていてくれ』という言葉ひとつは、彼女に多大なる安定をもたらしたようだった。

 芙美花が去り、ドアが閉まり、今更ながらに室内の暗さに気づく。邪念を払うように、仕事に没頭していたので、電気を点けることも忘れていたのだ。

「巴」

 背を向けて、先に帰り支度をする彼女に、意を決して呼びかける。今日最後の残照を受けながら、巴がゆっくりとこちらに向いた。夕景の中での巴は凄絶なまでに美しく、見せつけるかのように薄く微笑んですらいる。

 壮司は拳を握った。まるであのときのような心境だ。六年前、身を切るような寒さが記憶に残るあの日、結婚を申し込んだときのようだった。

 彼女に対する申し訳なさと、もう後戻りはできないという覚悟。まさかその覚悟を新たな覚悟で塗り潰すこととなるとは思ってもみなかった。

「巴」

「そんなに何度も呼ばすともわかっている」

 壮司の固い呼びかけに、鬱陶しげに巴が息をついた。そのまま彼女は窓の外へ視線を投げた。夕日を受け、漆黒の瞳が赤く染まる。

「好きな奴がいる」

 自覚し、認めるまで、あんなにも抵抗したというのに、口に出すのは拍子抜けするほど楽だった。やましいことほどさっさと告白して、罪悪感を取り除きたかったのかもしれない。まったく、罪深い。

「すまん」

 いてもたってもいられなくなり、頭を下げた。見えるのは冷たい床だけだ。頭を下げたことで、一見誠実な謝意を見せたようで、実を取れば巴から顔を反らしただけなのかもしれない。

「お前の好きにしてくれ。俺を殴って気が済むのならそうしろ。婚約を破棄するのならそれでもいい」

 どんなに心を尽くして謝ろうとも、これは手酷い裏切りだ。どんなに言葉を極めて罵れ、たとえ殴られようとも、壮司に反論は許されない。巴がいながら他の女性に懸想したのだから。

「顔を上げろ」

 巴の声には怒りはおろか、何の感情もこもっていなかった。顔を上げ、彼女と相対する。その表情からも伺える感情は何ひとつなかった。無表情――だからこそ、戦慄した。

「馬鹿め。私たちは好いた惚れたで結婚するわけじゃないだろう」

 巴はまた、視線を窓の外へ持っていった。他者の利害が付随するこの結婚は、確かに純粋な愛情からではないかもしれない。だからこそ、壮司は巴を邪険には扱えなかった。不幸にはしたくなかった。

「寺は俺が引き受ける」

 許婚ではなくなった彼女を、家から解放すること。それが壮司にできるせめてもの贖罪だった。

 巴はもどかしいほどの時間をかけて、窓から壮司へと双眸を戻す。その瞳の暗さに息を飲んだ。

「……壮司、お前が責任を感じることは何もない」

 破棄されるべきは私の方だからな、とつけ加え、巴は顔を上げた。

 巴の鈍く光る瞳に自分が映り込んでいる。疑問を張りつけた顔をしていた。

 破棄されるべきとは、巴に何の落度かあるというのか。意味を計りかねた壮司の瞳を、理知をたたえた瞳が真っすぐ射ぬいた。壮司と巴の間に、一本の見えない糸が張る。その糸に緊張が走る。

「お前に……言っていないことがある」

 ドクリと心臓が鳴る。何かしらの決心を固めた巴の表情に胸がさざめく。意味もなく、彼女の口をふさぎたくなる。

「壮司、私は――」

 頭の中で警鐘が鳴る。言わせてはならないと。これは致命傷になる。だが、金縛りをかけられたかのように、体は指一本も動かなかった。

 初めて巴の瞳がほんの一瞬ためらうように揺れ、より強く、迷いなく壮司を見つめ返した。その形の良い唇が、動く。

「私は、子供が生めないんだ」

 思考が白く染まる。子供が、生めない? 目を見開く。理解が追いつかない。今までの彼女とは結びつかない言葉に、意味が咀嚼できない。

 そんな壮司に苦笑して、巴は淡々と語り続けた。

「私の母もそうだった。だから中二のときにお祖母さまに検査に連れていかれた」

 すべてを達観した表情で巴は厳かに目を伏せた。

「遺伝するものではないがな。親子だから体の造りは似ていた。やはりお祖母さまの危惧した通りだった」

 巴の説明は何も頭に入って来ない。子が生めない、そのフレーズだけが頭を巡り、やかましく反響していた。

「だが……お前の母はお前を……」

 生んだじゃないか、その言葉は口の中で溶けて消えた。それでも、巴が文意を察するには充分だった。

「まったく、生めないというわけではない。可能性は限りなく低いが」

 巴は諦観すら漂わせて微笑んだ。これが、同い年の少女のする表情だというのか。壮司は信じられない面持ちで、呆然と巴を眺めた。

「私はあの家で、子供ができないことを責められて暮らすのは御免だ」

 だから、と巴が言葉を継ぐ。悲壮なまでに澄んだ瞳に引き込まれる。

「お前と結婚する気などなかったよ、壮司」

 風の凪いだ水面のように、彼女の表情は落ち着き払っている。かえってそれが、言葉を奥深くまで壮司に突き立てた。

 頭が揺さ振られるような感覚に耐えきれず、壮司は額を押さえる。子供が生めない? 結婚する気はなかった? 事態が把握できない。混乱がさらなる混乱を呼び、脳内を支配する。

「お前が桐原を好きだろうと、何も気に病む必要はない。私に代わる跡継ぎを生む女性があの家には必要だ」

 突如出てきた『桐原』の二文字に意識が急速に覚醒する。勢いよく、顔を上げる。壮司の驚きに満ちた視線を迎える巴は、どこまでも冷静だった。

「お前、知っていたのか……!」

 あえて何も知らないふりをして、ここ数日間壮司と接していたというのか。自らの許婚が、他の女にうつつを抜かしている。決して心穏やかなことではなかったはずた。

「…………」

 答える声はない。

 無言の肯定が、感情が一切抜け落ちた表情が、壮司を断罪しているかのようだった。

 だが、その表情に劇的な変化が訪れる。扉の外、何かしら落下する音がした。巴が目を見開く。

「――っ!」

 瞬時に二人して視線を扉へ向ける。今まで気づけなかった、他人の気配が明確になる。

 誰だ、話を聞かれたか――!?

 壮司は間髪容れず、ドアを開いた。

「あっ……」

 扉の外、取り落としたバックを慌てて抱きしめる人物を認め、壮司は凍りついた。

「……桐原」

 目の前がにわかに暗くなる。

「ごめんね……忘れもの取りにきて……」 

 カバンを形が歪むほど握りしめ、芙美花はうつむいている。薄闇の中でもはっきりとわかるほど青ざめ、細かく震えていた。

 この様子では、すべてを聞かれた。ごまかしは通用しまい。

「ねえ、不動くん」

 ゆるゆると、歪んだ笑顔で、芙美花がぎこちなく壮司に顔を向けた。嵐の前の静けさ。刹那の間が開いて、芙美花が動いた。

「嘘だよねえ! だって不動くんには古賀さんが……!!」

 再び彼女のカバンが床に落ちる。芙美花に胸ぐらを掴まれ、前後に揺すぶられる。視界がぶれた。

「不動くんは古賀さんが好きなんだよねえ……!?」

 芙美花のありったけの哀願が、つぶてとなって壮司に降り注ぐ。嘘だと言って――その必死な懇願に応えられない壮司は、顔を見つめ返すしかなかった。

 顔を背けない。それが壮司のせめてもの誠意だった。

「嘘じゃ……ないの?」

 芙美花の瞳に黒々と絶望が広がっていく。失望に塗り潰され、くすんだ瞳が壮司の背後へ向かったとき、即座に怯えの色が走った。

 取り乱す芙美花を見てもうろたえず、口を挟みもせずに、ただ佇んでいた巴が、芙美花の視線の先にいた。壮司を挟み、芙美花と巴の視線が交差する。

「古賀さん……」

 吐息だけでつぶやく。芙美花の頬を涙がとめどなくすべり落ちていった。

 巴の感情を宿さない表情は、抑圧された怒りであるかのように見えた。芙美花が急激に青ざめ、ガタガタと震え始める。

 壮司が、巴が口を開く前に、芙美花が身をひるがえす。

「桐原っ!」

 走り去る芙美花を捕まえようと、とっさに手を伸ばしていた。

 しかし、芙美花はその手をかいぐぐり、全速力で廊下を一直線に駆けていく。

 日の落ちた廊下に、彼女の足音だけが響いていく。その音は壮司の脳内に頭痛のように響き渡った。

 気がついたときには足が床を蹴っていた。

 暗い部屋に巴を残して――これが取り返しのつかない決裂を与えるとわかっていた。しかし、後ろを向いて、巴のところへ戻ることは壮司に許される選択肢ではなかった。

 芙美花に追いつくために、穏やかな六年間に終止符を打つために、壮司は脇目も振らずに走った。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「桐原っ!」

 壮司が走り去った瞬間、この恋の終わりを知った。

 遠ざかっていく二つの足音を聞きながら、ぼんやりと窓の外を眺める。能面のような顔がガラスに映り込んでいた。先程までの作っていた表情とは違う。虚脱感ですべて感情が抜け落ちた素の顔であった。

 他人事のように、ひどい顔、と嘲笑おうとしてできなかった。代わりに窓ガラスの自分の頬に涙が伝い、あごの先から落ちていく。

「ふふっ……」

 後から後からこぼれてくる涙をぬぐいもせず、小さく笑う。

 血も涙もない祖母に日毎似通ってくるこの顔に、まだ涙が残っていたとは。あまりに無様で、小刻みに笑うと体がよろけた。感覚の赴くままに、壁に背をつける。電気のスイッチに当たり、不意に蛍光灯の透き通った光が瞬いた。

 向こう側半分が人工的な光に照らされ、一方こちらは、ひどく暗かった。

 光源に目を向ければ、急な明るさに、目の奥で赤が明滅する。不意打ちだ。赤の中に壮司の姿が浮かんで、消えた。

 往生際の悪い。この期に及んで壮司のことを引きずるのか。そんな暇はないというのに。自分たちは普通の恋人たちと違って別れたらすべてが終わるわけではない。祖母に婚約破棄を承諾させ、自らの身の振り方も考えなくてはならない。

 古賀家における自分の役割を失った今、巴は壮司の将来にとって邪魔となる最たるものなのだから。

 加えて生徒総会もある。内にも外にもすべきことは山積みだ。

 だが、今だけは。今だけは流れる涙をそのままに。十年来の想いを失った喪失感に身を委ねた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「桐原っ!」

 壮司に腕を掴まれ、芙美花の体が反動で大きく揺れた。

「離してっ!!」

 悲鳴のような声が無人の生徒ホールにこだまする。壮司に固く腕を捕らえられてもなお、芙美花は逃げようともがいていた。

「桐原、落ち着け」

 しかし、壮司も落ち着いているとは言い難かった。巴の重大な告白に、予想外の芙美花の出現。理解するには時間が足りなさすぎる。まだ思考が宙に浮いていたが、己にも落ち着けと言い聞かせる。

「……どうして」

 壮司の思いが伝わったかのように、芙美花の強ばりが抜けていく。弛緩した彼女は、放心状態で床にへたりこんだ。息の切れた早い呼吸だけが、静寂を震わせる。

「……私が二人の仲を壊したの?」

 凍てついた声が、壮司を貫く。熱を伴った反論が即座に沸き上がる。

「違う! 俺の勝手な感情だ。お前には何の責任もない」

 強く断じても、芙美花はただ頑なに首を横に振るだけだ。

 栗色の髪が振り乱れ、涙が左右に飛んだ。

「いいか、桐原」

 これでは埒があかない。芙美花は頑として壮司の言い分など聞かず、自身に責を求め続ける。

 壮司は前に回り込み、芙美花の前に片膝をつく。彼女と目線を合わせた。

「巴とああなったのは俺の至らなさからだ。桐原がいなくとも、いずれ別れることになっていた」

 芙美花は決して壮司の目を見ようとはしない。ただただ、否定することにすがりつくように、首を横に振り続けるだけだ。

「……だって、もしかしたら古賀さんと恋人同士になってたかもしれないのに」

 自分のせい、自分のせい。その思いに足をとられ、芙美花には否定しか残されていない。巴と恋人に――今となっては荒唐無稽な話だった。

「巴が俺とともにいてくれたのは、許婚という義務感からだ」

 巴は恐ろしいほど筋を通す奴だ。壮司に対する情愛も確かにあったのだろうが、許婚である以上、ある程度の関係は保たなくてはという責任感からだと思っていた。

 壮司にとって巴との恋愛は、あくまで結婚に現実味が帯びてからするものだった。それまでは巴の自由を阻害する恋慕など抱けようはずもなかった。

「そう思ってるなら、不動くんは本当のバカだよ!!」

 芙美花の泣きぬれた瞳に激しい炎が灯ったその炎に煽られ、芙美花は壮司の胸に両の拳を押しつけてくる。

「どうしてわかんないの! 今まで何で古賀さんが自分の体のこと言いだせなかったと思ってるの!?」

 ぐしゃぐしゃの顔が、持てる限りの感情を込めて壮司を怒鳴りつけていたが、何もわかっていないのは芙美花だと、壮司は言いかけた。

 巴が今まで言いだせなかったのは、婚約破棄に対して古賀家の、ひいては壮司のこうむる不利益を考えたからだ。

 まかり間違っても、彼女自身の心情によってではない。巴は壮司よりよほど賢明で聡明だ。

「古賀さんは不動くんと離れたくないんだよ。どうしてそれがわかんないの」

 語尾が涙に溶けた。芙美花は耐えかねたように泣き崩れ、壮司は苦々しく顔を背けた。

 芙美花の言うことは、感情が振れたことによって口をついたものだ。何の根拠もない戯れ言だ。

 巴が自分を異性として見ている。愛している。思ってもみないことだ。いや、思いたくなかった。

「ふ、うっ……」

 嗚咽をもらす芙美花に目を戻す。

 背中を丸め、ただただ泣くことしかできない。

「桐原……」

 周りの静けさに同化させるように、声を抑えて呼びかけ、その背にそっと手を当てた。

 芙美花の体が反射的に跳ねる。壮司は細心の注意を払って、なだめるように柔らかく触れた。

「すまないな……」

 想いに応えることはおろか、伝えるつもりさえなかった。壮司の独りよがりで終わるはずの感情だったのだ。

「古賀、さん、とは、どう、するの……?」

 しゃくり上げ、不安を雄弁に語るその瞳を、真正面で受け止める。壮司には表情を険しくすることしかできなかった。

「俺は跡継ぎの役割を果たすだけだ」

 巴とはすでに袂を分かった。もはや彼女を満たすことは壮司にはできない。だから、そう答えるしかなかった。

 芙美花の表情が失望で崩れる。深淵に落ちていく彼女をどうしようもなかった。

 長い間、壮司はそこから動くことができなかった。宵の冷気を当たり前のように受け入れ、沈んでいく心情とともに、寒さを感じていた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「古賀」

 呼びかけとともに、体を優しく揺すぶられて目を覚ました。

 波が押し寄せるように頭が痛む。泣いた後遺症だ。

どうやら泣き疲れて眠っていたようだった。子供のようだと自分自身に呆れる。いや、手に入らないものに駄々をこねて泣くのは子供と一緒だ。

 普段では考えられないほど緩慢に身を起こし、声の主を仰ぎ見た。

「貢……」

 半分だけついた蛍光灯が、健一郎を後ろから照らしている。

 彼は熱気をまとい、見るからに部活帰りの体であった。

 随分と長い間、寝ていたようだ。

「何こんなとこで寝てんだよ。疲れてんの?」

 間抜けな巴を軽く笑い、健一郎が残りの電気を点けた。

「何で、ここに?」

 そのまぶしさに目をすがめながら、彼に問う。声がかすれた。

「電気が半分点いてんのが見えたんだよ。誰か残ってんのかと思って」

 答えながら、健一郎は開け放たれたままのドアを閉じた。

 ドアも開けたまま、電気は不審に点けたまま。自分は思っていたよりずっと余裕を失っていたようだ。

 体をこちらへ向けた健一郎と目が合う。彼が息を呑む気配がした。

「何かあったのか……?」

 彼の声が痛いほどの真剣みを帯びた。無理もない。涙の跡がくっきりと残る、無残な顔をしているのだろうから。

「別に、何も」

 健一郎のどんな問いにも答える気力は、今はない。それに芙美花もこのような、あるいはこれ以上ひどい顔をしているだろう。巴などに構わずにさっさと帰った方がいい。彼を脅かす輩は、芙美花の近くにいるのだから。

 巴は立ち上がり自分の学生鞄を脇に抱えた。

 健一郎の探るような視線を受けながら、芙美花の落としていった鞄を拾い上げる。

 こんな泣き腫らした顔して何もないなどとは彼は毛頭思っていない。持ち前の真面目さで、巴の力になってくれようとしている。しかし、それにとりあう気はなかった。拒絶の意を表すかのように、芙美花の鞄を健一郎に押しつける。

「桐原をしっかり捕まえておけ」

 慌てて鞄を落とさぬように持ち直す健一郎を尻目に、ドアノブに手をかけた。ドアが閉まる直前に、彼が何事かを言っていたが、耳から耳へと抜けていく。

 廊下は暗く、静謐でいて寒々とした空気がただよっていた。その冷たさがありがたい。ほてった体から熱が抜けていく。同時に急激な倦怠感が巴を襲った。

 今、巴の頭を占めるのは、何も考えずに深い眠りに就くこと。それだけを渇望していた。

 どこか現実から隔絶されたかのような感覚で、廊下を歩き続ける。刻々と宵から夜へと移り変わり、闇は深まっていった。


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