第2幕
「壮司」
反応が乏しいので呼びかけてみれば、案の定上の空だった。
「壮司、聞いているのか?」
何度目かの呼びかけで、やっと焦点がこちらに合った。
意志が宿らない瞳は、現状が把握しきれていないようだ。
巴は隠しもせず、呆れを含んだ視線を向けた。
「この腑抜けが。この私が説明してやっているのに聞いていないとは何事だ」
気色ばめば「悪い」と決まりの悪そうな謝罪が返ってくる。今週何度聞いただろうか、このフレーズを。
「しっかりせんか。これでは昼休み中に終わらん」
ため息混じりに呟いて、情けない男の顔を見た。
来月に迫った生徒総会に先立ち近々、執行委員会が開かれる。
執行委員会は各委員長、部長からなる、立志院最高機関だ。
個々の組織の統率者だけあり、執行委員は鋭く容赦ない。痛いところを突いてくる。
例年、生徒会にとって彼らとの会議は、生徒総会そのものよりも気が抜けないものであった。
今年もこうして昼休みまで充てて、彼らを迎え討つ準備をしていた。
しかし、要となる生徒会長がこれでは話にならない。
「桐原たちのことか?」
彼の思案顔について、真っ先に思い当たることといったら、これしかない。
頬杖をついて、壮司の目を捕らえて問えば、「知っていたのか」とさほど驚きの伴わない返事が返ってきた。
健一郎は言うに及ばず、今、生徒会室に芙美花はいない。
「そんな辛気臭い顔をさらして、気づかれないと思ったのか、たわけが」
壮司をも巻き込んだ膠着状態の最中にいれば、嫌でも何かあったと悟るものだ。
気まずい雰囲気を味わうこちらは、いい迷惑である。
「男女間のもめ事に中途半端に口を突っ込んで……お前は救いようのない馬鹿だ」
「……面目ない」
非難めいた目を向けると、その目から逃れるように壮司は目を伏せた。
談話室から漏れ聞こえた騒動から、大半のことは把握している。
何がケンカの原因になったかまでは知らないが、芙美花に口止めされ、八方ふさがりになっている壮司は憐れだ。だが、余計なことに深入りした報いだとも思えた。
「揃いも揃って仕様もない。私の仕事をそんなに増やしたいのか」
壮司は心ここにあらず、芙美花は輪をかけて注意力散漫。健一郎に至っては、練習も大詰めを迎え、姿すら見ない。
必然的に役立たない彼らの面倒を巴が見るはめになっているのだ。
「すまん」
壮司の態度は殊勝だが、巴はこの状態の解決は容易ならざることだと思っていた。
彼の茫洋とした態度を、芙美花たちに引きずられているからと結論づけてしまえばそれまでだ。だが、巴には納得しかねるものがあった。
壮司は昔から頭より行動で示すタイプの男だ。厄介ごとを背負い込んでも、思索にふけることはなかった。
芙美花たちの問題は難しく、彼も手を出しあぐねているのだろうが、それにしても“らしく”ない。
芙美花たちの問題だけではない。自分に対して、どことなく壮司はよそよそしくなった。
どこか一歩引いてこちらを見ているのだ。
少し前から、この異変の前兆ともいえる片鱗を覗かせることはあったが、いつからかはっきりと覚えていない。
実体のないそれは、巴を深い霧の中でさまよい歩いている気分にさせた。
こんなことはなかったのだ。
彼の思ってることが読めないことなど、かつて一度としてなかったのだ。
それこそ親よりも近しい壮司のことが理解できないということは、心に黒い染みを落とすには充分過ぎた。
じわりじわりと“何か”が侵食してきている。
しかし、正体が突き止められず、歯噛みするしかないのだった。
―◆―◆―◆―◆―
忙しさに任せて数日が過ぎた。
依然として芙美花たちの関係に進展はない。そもそも健一郎と会うことが容易ならざる状況下では進展を望む方が無理だ。
そして、壮司の異変には拍車がかかっていた。
意識を持っていかれることはなくなった。呼びかければ返事もする。他愛ないことを話したりもする。
それは一見、平生に戻ったかのようだった。
しかし、事態が好転したのではなく、壮司は“ふっきれ”て、精神の安定を取り戻しただけだ。
似て非なる心境の変化は、巴をさらなる焦燥へ駆り立てた。
壁がある。彼と自分の間に。その壁は厚くなっていくばかりで薄くなりはしない。
危うい関係を、まやかしの平穏でくるんだ日々に、胸騒ぎは強まった。
彼をどのような変化が襲ったというのか、何ひとつとしてわからないのだった。
「弓道部は今年度予算案に意義を唱えます」
弓道部部長の静かな反発に満ちた声で現実に戻された。
四角く並べられた机には、各委員長や部長という、そうそうたる顔触れが席に着いている。
執行委員会の最中であった。
「弓道部は、秋期大会でも県大会上位入賞を果たしました。これから遠征も増えます。よって部費の増額は妥当なものだと思います」
去年の激烈な攻防を経験している巴には、めぼしい紛糾もない今年の執行委員会は大したことなく思えたのだが、やはり何事もなく終わるはずがなかった。
それでも、まだこれくらいならかわいいものだ。
去年は反論のしようがなく、こちらが唸る場面もあった。
「予算の増額は認めん」
隣に座る壮司が即座に断言した。
彼も弓道部が部費増額を要求してくることは想定内であったのだろう。
「弓道部は活動実体のない部員の偽装がみられた。加えて遠征費の申請にも、実際の選手ではない部員を選手だと偽っての申請が発覚している。よって増額は却下だ」
痛いところを一息に断じられ、弓道部部長は言葉に詰まった。
仕上げにねじ伏せるような一瞥で弓道部部長を封じ込め、壮司は泰然と出席者を見渡した。
「他になければ、執行委員会を終了する。一同解散!」
壮司の威儀を正した声が朗々と響き渡ったのを合図に、椅子の触れ合う音がして委員が続々と退席していく。
巴も立ち上がり、椅子が乱れた会議室の片づけを始めた。
机を脇に寄せ、椅子を重ねていく内に、まもなく四人だけになった。
久々にメンバー全員揃い、重苦しい沈黙が落ちる。
「貢、ホワイトボードを視聴覚室に戻してきてくれないか?」
沈黙が支配されていたせいか、いやに大きく自分の声が響き渡る。
健一郎は可動式のホワイトボードに目をやり、どこか呆気に取られたように、「……あ、わかった」と頷く。
何故わざわざ自分に頼んだのか訝しんでいるようだ。
「そしたらそのまま部活へ行ったらいい。もう大した仕事はないからな」
体よく彼を追い出すという巴の意図に、健一郎は「いや、でも……」と難色を示した。
誰も言ってはいないが、健一郎自身、忙しい自分に気を遣われて、生徒会の仕事から外されている自覚はあったのだろう。
せめて今日ぐらいは、という気を起こしても無理はない。
「いや、大丈夫だ。その気があるんだったら、試合が終わったら存分に働いてくれればいい」
親切なことを言いながら、この深刻な空気に対する煩わしさもあったのだ。
己にも思い悩むことがあるせいか、ほんの少し手助けをして、彼らのねじれを解いてやろうという気概も持てずにいた。
「……じゃあ、そうさせてもらうわ」
巴の言葉を額面通りに受け取り、健一郎はメッセンジャーバッグを肩にかける。
キャスターつきのホワイトボードを押しながら、戸口付近の芙美花と健一郎がすれ違う。
彼は何事かをその耳元で素早くささやいた。
健一郎の不意打ちの言葉を受け、芙美花の瞳が一瞬揺れ動き、憂いを帯びて伏せられる。
普段、明るく屈託もなく振るまっている彼女だけに、その表情が一層、印象に残った。
何も見なかったふりをして、芙美花から視線を外し、再び片づけに専念する。
健一郎が出ていき、三人となる。最近の“いつも”に戻ったが、誰も口を開かなかった。
もし芙美花が泣きついてこようものなら、話は楽なのだ。対処のしようもある。話を聞いてやることだってできる。
しかし、意外なことに、この件に関して芙美花は口を閉ざしていた。
そちらが頼ってこない限り、こちらができることは何もないのだった。
「これは……」
そのまま折り畳み式の長机を畳んでいると、机の下、荷物置きから健一郎の携帯が出てきた。
ちょうどこの机に彼は座っていたので、忘れていってしまったのだろう。
「どうした?」
手にとって、まじまじと眺めていると、壮司が何事かと覗き込んできた。
「携帯。貢のだ」
メタリックブルーの携帯は誰かからのメールを受け取り、背面が点滅している。
「これは……さすがにないと困るか」
ひとりごちて、芙美花と色違いの携帯に改めて目をやった。なかなか使い方が覚えられない彼女に、いろいろと伝授するために、やむなく同機種にしたらしい。
そんなエピソードも今はむなしいだけだが。
「携帯ぐらい別にいいんじゃねえか?」
「貢はお前とは違うんだ。それに私は人の携帯を長い間預かるのは嫌だ」
単なる電話としか思ってない壮司はともかく、一般の高校生にとって携帯を常備していないということは由々しき事態だ。
今行けば追いつけるかもしれない、と考えて、ちらりと芙美花に視線を向ける。
普段だったら彼女に頼むところだが。
――今は酷か。
壮司ではますますどうにもならない。無用なケンカをしてくるだけだ。
「届けてくる。後は頼む」と言い残し、会議室を後にした。
健一郎も途中で気づいて引き返してきたのか、間もなく昇降口で行き合った。
携帯を渡すと丁寧に礼を言われた。
無意識に威圧感を振りまく壮司と違って、健一郎という人間は気さくで親切だ。
もの道理もわかる人物だ。
携帯を手渡すときに自分たちの不和に対する謝罪の意か、心底申し訳なさそうな表情でじっと見てきた。
何か言葉を返そうか迷っているうちに、いつもの明朗な笑みで「じゃあな」と言葉を封じられた。
これ以上踏み込まれたくないという、意思表示なのかもしれない。
曖昧にあいさつを返し、健一郎同様、その場を去った。
「……『試合が終わったら話そう』って言われたよ」
会議室の中から芙美花の声が聞こえ、思わず足を止める。
「……そうか」
壮司の複雑さを帯びた声が耳へ届く。
察するに、すれ違いざまに健一郎から言われた言葉について話しているようだった。
「『試合をやり遂げるまで、待っててくれ』だって」
芙美花は空元気の中にも落ちつきを帯びていた。
多少なりとも健一郎と目を見て話せたことで、先の展望が開けたのかもしれない。
「そうか。何とかなりそうでよかったな」
本意であれ不本意であれ、一度関わったことには最後まで面倒をみる壮司だ。
上向きの兆しに、さぞやほっとしていることだろう。
会話が途切れたところで、中へ視線を向ける。
話が話だけに、入る時期を伺っていたのだ。
「――……」
刹那、息が、止まる。
そこにいたのは、安堵を得た壮司ではなかった。
足が縫いとめられたかのように立ちすくむ。
止まっているのに視界が定まらない。その姿がぶれる。
あれは、誰――?
獣のような瞳を、懸命に理性で覆い隠す男。
見たこともない壮司。
よかったな、などよく言えたものだ。
生々しい“男”の表情をむき出しにして、芙美花を見ているというのに。
殴られたかのような衝撃が後頭部を襲う。
その瞳が、表情が言っている。芙美花を手に入れたいと。自分の腕の中に閉じ込めたいと全力で訴えている。
初めて見る、壮司のエゴ。
今までどんな場面に、こんな壮司がいたというのか。
あるひとつの可能性が胸に灯る。
それは巴にとって、予想だにしない――いわば、不意打ちじみた急襲であった。
しかし、すべてのつじつまは合致し、急速に壮司の“変化”の全貌を理解した。
瞬間、心臓が一際大きく跳ねる。
空気の塊が、気道を圧迫する。
今の壮司に巴が存在する場所など一片も存在しない。
許婚の肩書きも、側で過ごした期間も、何の役に立とう。
壮司は芙美花を愛してしまった、その事実の前で何の価値があろうか。
芙美花には健一郎がいて、道ならぬ恋だというのは壮司も重々承知しているはずだ。
それでも押さえきれないほどの想いを抱いてしまった。
横恋慕など、平素の彼なら真っ先に唾棄すべきものだというのに。
彼自身の道徳に反してまでも、壮司は芙美花を――。
引き戸に背を預け、掌で目を覆った。
衝撃、絶望、混乱。濁流となって巴に襲いかかる。
世界が足元から崩れ去るような恐怖。
しかし、恐慌の真っただ中にあっても、来るべきときがついに来たという思いもあった。
――潮時、か。
“恋人ごっこ”に幕を引くにはちょうどよい。
ここ数年、このときを伺っていたのだ。
どんなに壮司を愛そうとも、この想いが実らないと知った、あの日から。
どうやって終止符を打つか、そればかり考えていた。
相手が芙美花では祝福もできやしない、か。
よりによって芙美花とは、壮司も救いがたい。
覆った手の下で、弱く笑った。
ゆっくりと目をつむり、斜陽を取り込むように、時間をかけてもう一度開く。
瞬く間に気持ちを立て直した。
まだ、動揺に呑み込まれるわけにはいかない。
“許婚”としての最後を迎えなくてはならない。
巴は顔を上げて、一歩を踏み出した。
余分な感情を消し去った表情で、西日の差す会議室に足を踏み入れたのだった。