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かざす花  作者: ななえ
第4章
15/68

第1幕

 秋祭りの後から、健一郎は急激に忙しくなった。

 その一週間後に行われた個人戦で優秀な成績を修め、県内の選抜選手となったのだ。

 当然ながら練習には熱が入り、部活での通常練習に加え、朝練と夜遅くまでの自主練習。暇があれば出稽古に行き、来るべき大会に備えていた。

 生徒会の方は、幸いにして目立った行事もなく、差し迫った活動の必要性はない。

 人数が足りているときは、気を遣って健一郎を呼ばずに三人で活動することもしばしばあった。

 そうなると多忙を極める彼とは接点がなくなってしまうのであった。

 今までも試合やら合宿やらで会えなくなることはあった。

 それでもここまで完全に顔を見ないことはなかったと思う。

 健一郎も気にしてか、せめて急いで部活から帰ってきて会える時間を作ってくれたり、まめにメールをしてくれている。

 しかし会うたびに重要な試合に臨む緊張感からか、ピリピリとした雰囲気は増し、それを隠そうと無理をしているのも薄々とわかっていた。

 余裕がなくなり、疲れていくのを間近で見ていたのに、自分本位な感情が先立って、彼を慮ることができなかった。

 私のことは気にせずに、剣道に専念して。しばらく会えなくても大丈夫だよ――その後に来る独りの時間を考えたくなくて、その一言がどうしても喉を越えない。

 体に気をつけて、無茶しないでね、と口では言いながら、行動がさっぱり伴わない。最低だ、と自己嫌悪が最高潮に達していた夜、食堂を出たところで「先輩」と呼び止められた。

 ぼんやりとしていて、それが自分に対する呼びかけだと気づかず、「桐原先輩」と特定されてやっとわかった。

「……私?」

 辺りを見回し、声をした方に顔を向けると、ひどく思い詰めた表情をした女子が立っていた。芙美花の確認に口を引き結んだまま重々しく頷く。

「話があるんですけど、お時間よろしいですか?」

 抑揚のない口調は慇懃無礼さが目につく。

 園芸部の後輩でもなく、まるっきり初対面の彼女になぜか敵対視されているのは明らかだ。

「うん、話くらい聞くけど……」

 とにかく呆気にとられて歯切れ悪く答えてから、何かやらかしただろうか、と最近の出来事をたどる。

 思い当たる節はなかったが、人に迷惑をかけることについては右に出るものはいない自分だ。直接的であれ、間接的であれ、彼女に害が及ぶようなことをしてしまったのかもしれない。

「場所を変えましょう」

 そう言われて、悶々としながら彼女についていった先は、人気のない女子寮の非常口であった。

 鍵がかかっていない扉の外には螺旋階段が設置されている。

 扉を開けて「どうぞ」と芙美花を先に外に出させると、彼女も出てから後ろ手で静かにドアを閉めた。

 彼女はドアの前に立ち、完全に退路をふさぐ。

 行動もさることながら、目も据わっていて、芙美花の嫌な予感を呼び起こさせるのには充分だった。

 ガラス戸を通して室内の光に照らされた彼女は、ゆっくり目をつむった後、覚悟を決めたように芙美花を直視した。

「私は貢先輩が好きです」

  冷たい夜風が彼女のボブを巻き上げる。

 迷いのない口調。あまりにまっすぐで、だから何、と切り返すこともはばかられる。

 芙美花が予想外の内容に絶句している間も、構わず彼女は言葉を継いだ。

「桐原先輩は貢先輩にふさわしくないと思います」

 芙美花の中心を見据えて言葉を投げつけてきた。

 芙美花に致命傷を与えようと、まったくもって手加減はない。

「……」

 元々、感情の起伏は鈍い方だ。彼女の真意は気になったが、怒りはあまり沸いてこない。

 落ち着け、と心の中で唱えて、言葉を発するために空気を吸った。

「……どうしてそんなこと言うの? 私、あなたの名前も知らないよ」

 盲点だったようだ。

 彼女はあっ、と表情を崩した後、真面目くさった顔をした。

「……すみません。剣道部一年、田川 理佳といいます」

 剣道部となると、健一郎直轄の後輩だ。

 剣道部は名目上は男子部、女子部に別れているが、実体は一つの部活に等しい。

「うん、田川さんだね。それで、理由を聞かせて?」

 こんな行動を起こしても彼女は存外真面目だ。

 いや、真面目だからこそ陰湿な方法でなく直接対決に踏み切ったのだろう。

 壮司といい、彼女といい、こうも真面目一直線なのは武道をやる者に共通する性分なのだろうか。

「……貢先輩はずっと無理しています」

 気丈に振る舞っていた彼女の顔が、健一郎に及んだ途端に辛そうに歪んだ。

 本当に健一郎が好きなんだなぁ、とどこか他人事のように頭の隅で考える。

「うん、そうだよね」

 彼女の絞りだすような訴えを、自分は思ったより冷静に聞いていた。

 剣道部所属だと聞いた時点で、おおまかな見当はついていたのだ。

 健一郎は今や剣道部中、下手すれば学校の期待と名誉を背負って戦う立場だ。

 それに何より彼は後輩をかわいがる人物だ。

 彼らが健一郎に肩入れするのはごく当然の流れだった。例え彼らが徒党を組んで責めに来たとしても、芙美花は驚かない。

「先輩の負担になっている自覚があるんだったらどうして……!」

 掴みかからん勢いで理佳が声を荒げた。

 呑気なこちらに、彼女の冷静たろうとしている気持ちが崩れているのがわかる。

 まなじりには涙が盛り上がっていた。

「うん、自覚してた。ごめんね。健一郎の邪魔してるね」

 一悶着は必至だと思っていたのだろう。あっさりと認めた芙美花に理佳は目を瞬かせている。

 芙美花とて、何も感じていないわけではない。

 いつもの『健さん』という呼称を使わなかったのはその表れだ。

 健一郎の彼女は自分だと理佳に知らしめ、歳上だという余裕を保ちたかったのだ。

 動揺を外に出してはならない。互いに感情的になったならば、話は破綻するしかない。

「健一郎とは大事な試合が終わるまで距離を置くよ。ありがとう、言ってくれて。嫌な思いさせちゃったよね」

 笑みすら張りつけて理佳に言い放った。

 彼女は正義の鉄槌を下しに来たのだろうが、だからといって自分が型通りの悪役になってやる義理はない。

 相手の要求を呑むつもりだったら、ごたごたを起こすなど短慮もいいところだ。

 手応えがないほど従順でいて、遺恨を残さない方がよっぽど賢明だ。

「他に言いたいことがあったら遠慮なく言って?」と畳みかけたとき、非常口の扉が勢いよく開いた。

 自分も心の奥底では緊張していたせいか、近づいてきた気配にまったく気づかなかった。

「理佳、あんた何してんの?」

 そこに仁王立ちしていたのは剣道部女子部長、椎名留奈であった。

「留奈先輩……」

 すぐさま理佳が色を失う。

 青ざめる理佳と芙美花を交互に見比べ、留奈は状況を呑み込んだようだ。

 あるいはどうみてもお取り込み中な自分たちに割って入ってきた時点で、事情を察していたのかもしれない。

「理佳、やりすぎ。あんたが口出す問題じゃないよ」

 手厳しく非難の言葉を向けられ、理佳が目に見えてしぼんでいく。

 留奈にとって彼女は学院内では身内にも等しい存在だ。身内の落とし前は身内で、という意味合いもあって厳しさを全面に出しているのだろう。

「だってっ! この人は貢先輩が今どんなに苦しい思いしてるか、少しもわかってないじゃないですか!!」

 ほとんど悲鳴のように言い捨てるやいなや、理佳は堰を切ったように泣き始めた。

「理佳、落ちつきな」と留奈が先輩らしい包容力で子供にするように彼女の肩を抱いた。

 その様子を半ば呆然として自分は眺めているしかできなかった。

「桐原さん、だっけ? うちの後輩がごめんね。気にしないでやって」

 留奈が人好きのする笑顔を向けたが、それすら芙美花の上を滑っていくだけだ。

 代わりに頭を占めるのは、先ほどの理佳の言葉だ。

「……健さんが、苦しんでるって何?」

 日々の練習が大変だ、という意味ではおそらくない。

 ぞわり、と悪寒が背中をはった。

「……本当に何も知らないんだね」

 留奈はどこか呆れを含んだため息をついた。

「貢はね、この前の個人戦――選抜選手になったヤツの決勝戦で相手に怪我を負わせたんだよ」

 落ち着き払っている留奈と違って、初めて知る事実に、自分は足が本当に地に着いているのかすら実感がない。

 遠近感が狂って、留奈の姿がどのくらい離れているのかも判然としない。

「倒れ方が悪くて、相手は複雑骨折。次の大会も絶望的。怪我してなければどっちにしろ二位以内だから選抜選手は確定だったのに」

 貢はそれで自分を責めてるんだよ、と留奈は話を締めくくった。

 主観を交えない彼女の言葉は、それだけ何の抵抗もなく脳内に入ってきた。

 おかげで、信じられないという思いより、事実だという思いの方が重くのしかかってくる。

「私……何も聞いてない」

 聞いてないどころか、それらしい態度すら出さなかった。あの試合の日だってごく普通の態度で、不審なところなど一つもなかったはずだ。

 理佳にあれこれ言われたときとは比にならないくらいの衝撃に揺さ振られる。

「言えなくても無理ないでしょ」

「えっ……?」

 どうして、何で、何も聞いてないよ、と渦巻く思いを留奈の一言が止める。

 彼女は目を伏せ、髪をかきあげてから、声のトーンを下げた。

「そっちがそんな様子では言いたくても言えないよ」

 留奈の歯に衣着せぬ物言いが、思考を貫く。

 留奈は暗に芙美花では受け止めきれない、と言っているのだ。

 悔しさよりも納得してしまう自分がいる。反論なんか思いつくはずもなく、唇を噛んだ。

 今まで健一郎の役に立ったことなどあっただろうか。迷惑をかける一方で何かを返せただろうか。

 口先ばかりで甘えてばかり。いつだって自分のことを優先。

 これでは健一郎が頼ってこなくても当然というものだ。自分が頼りないから彼が弱い部分をさらけだせないのだ。

 留奈とは面識はないのに、彼女は端的に言い当てた。それほどまでに芙美花の甘え腐った態度が外に出ているということだ。

 うちひしがれている芙美花に感情のこもらない一瞥を残して、留奈は理佳を抱きながら女子寮内へと消えていった。

 留奈は果断で強かった。

 さすがにあの巴に敵視されるだけのことはある。

 それに比べて自分は――。

 劣等感にさいなまれ、長い間そこにたたずんでいた。

 その後、特別寮にどうやって帰ったかすら覚えていなかった。 

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「芙美花? 何やってんだよ?」

 長の茫然自失状態から我に返ったのは、頭上から健一郎の声が降ってきたときだった。

 今、一番会いたくて、会いたくない人。反射的にびくりと肩が震えた。

 どのくらいの間、こうして談話室の椅子に腰かけ、物思いに沈んでいたのか。

 壁時計は九時少し前を差していた。

 健一郎は例のごとく居残って道場で自主練習していたのか、まだ制服姿だった。

「芙美花ー、寝んなら部屋で寝ろー」

 あまりにこちらが希薄な反応しか寄越さないので、健一郎は芙美花が眠たいと勘違いしているらしい。

 健一郎の上辺は明るい。しかし、ふとした瞬間に疲れが垣間見える。

 その不自然な顔をさせているのは他ならぬ自分だ。

 自分以外、いないのだ。

「健一郎」

 芙美花が呼び捨てで呼ぶときはたいてい何かあるときだ。

 健一郎はサッと顔を堅くした。

「芙美花、何か――」

「距離を置こう」

 彼の言葉を遮り、早口で言い切る。

 いつものように優しい言葉で何かあったのか、と尋ねられたら、きっと洗いざらい話してしまう。

 そんなことをしたら、健一郎と留奈、理佳の間に亀裂が入るのは必定だ。それだけは避けねばならない。

「何言ってんだよ」

 訳がわからない、と健一郎の表情が物語る。

 その表情に気をとられないように意識外へ追い出した。

「だって健さん忙しいし、試合終わるまで少し離れよ?」

 なるべく彼を刺激しない言い方をしなくてはならない。

 対戦相手に怪我をさせてしまったという自責をすでに抱えているのだ。この上、芙美花のことまで心労になることがあってはならない。

 無理に笑顔を作り、明るい声を腹から出した。

「私のことは気にせずに、剣道に専念して。しばらく会えなくても大丈夫だよ」

 まだ事態が把握しきれていない健一郎に向かって、ずっと温めていたセリフを発する。

 瞳の奥に感じた涙の存在にはあえて気づかないふりをして、笑みを形作った。

「……俺があんま構ってやれねえから怒ってんの?」

 健一郎の戸惑い、不安、苛立ち、怒りと悲しみ。

 長いこと一緒にいたので、共有できる感情が多すぎた。彼の感情が直に伝わってくる。

「違うよ、だから……」

「お前が何か隠してんのに気づかねえと思ってんのかよ」

 芙美花が彼の気持ちが手にとるようにわかるなら、健一郎とてそうだったのだ。

「どうしたんだよ? 言ってみな。な、芙美花?」

 椅子に座っている芙美花の前に膝をつき、健一郎が下から覗きこんでくる。

 膝の上に置かれた芙美花の拳の上に大きな手をそっと重ねられる。

 優しい言葉と優しい表情。

 何かあったのはそっちだと言うのに、こういう風に気遣われるべきは健一郎の方なのに。

「何にもないよ」

 やっとの思いでそれだけを絞りだす。

 こんなか細くて弱々しい声では何かあったと宣伝しているだけだ。

「芙美花」

 それを見逃す健一郎ではない。

 その優しさが、慈しみにも近い感情が、芙美花を締めつける。

 望めば、彼はいろんなことを後回しにして芙美花を優先してくれるだろうが、そうさせている自分がたまらなく憎いのだ。

「芙美――」

「何でもないったらっ!!」

 気がついたときには、伸びてきた健一郎の手を振り払っていた。

「あっ……」

 すぐに後悔が沸き上がる。振り払われたままで固まる健一郎の姿があった。

「ごめ、ごめんなさい……」

 この仕打ちにはさすがの健一郎でも怒ったはずだ。

 彼の顔がまともに直視できない。たまらずうつむくと、涙が目に集まってくる。こらえきれない。こぼれそうだ。

 泣くな、と固く目をつぶった瞬間、ふっと前に影が差した。

 健一郎ではない第三者の登場に、まぶたを開く。

 床から伸びるのは気軽なサンダルをはいた足だ。

 筋肉で筋張った足をたどっていくと、大抵は仏頂面をしている顔に行き当たる。

 仏頂面が地顔――壮司だった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 留奈からメールが来たのは、大浴場から自室へ戻る最中のことだった。

 部屋の小さなシャワーより、大きな湯船を壮司は好む。もっぱら入浴は大浴場であった。

 運良く今夜は、たまたま携帯がハープパンツのポケットに入っていたので、おかげでメールをすぐに感知できた。

 筆不精な彼女からのメールに驚く。

 はつらつとした留奈は何でも口頭で済ませ、まどろっこしくメールを使うことはしない。

 しかも、わざわざ電話でなくメールを選んだ辺りが釈然としない気持ちを呼びさました。

 思った通り、部の一年が出過ぎた行動を起こし、それに追い打ちをかける形で留奈も芙美花を責めてしまった、との厄介な内容だった。

 傷ついた芙美花が健一郎に対し、早まった行動を取らないように抑制するのが壮司に求められる役割のようだ。

 メールの受信時刻は二十時三十七分。今はだいたい九時なので、もしかしたら手遅れになっているかもしれない。

 壮司は階段を上るスピードを早めた。

 それにしても、どうにもこうにも嫌な役回りだ。

 あの祭りの後からというもの、いい知れぬ危険を感じて、意図的に芙美花から遠ざかっていたのに、これでは水の泡だ。

 それに犬も食わない痴話喧嘩に、首を突っ込むなど野暮もいいところだ。

 これが他ならぬ留奈の尻ぬぐいでなければ、即刻断っていただろう。

「何でもないってば!!」

 多少息を切らせながら階段を上りきったときには、芙美花が健一郎の手を払うところであった。

 時既に遅し。ケンカは勃発していたようだ。

 何をしても、とらえどころなく笑っていそうな芙美花が声を荒げている時点で、事態は相当悪い。

 争いを回避できなかった自分がせめてすべきことといえば、争いの深刻化と拡大を食い止めることだろう。

 気乗りしない気持ちを奮い立たせ、健一郎と芙美花の間に身を滑り込ませた。

「お取り込み中悪いな」

 まったくだ、と自分でも突っ込んでしまった。

 芙美花に何を言われたかは知らないが、かなり気が立っていたのだろう。健一郎は瞬時に臨戦体勢に入り、仰々しいほどゆっくり立ち上がると、いつもより数段凄まじい眼光を飛ばしてきた。

 芙美花と揉める前からたまりかねていたものもあったのだろう。

 対戦相手に怪我をさせたあの試合から、部内では腫れ物に触るように扱われ、かと思えば学院からは過剰なほどの期待をかけられ、しんどくないはずがない。

「落ち着け。俺に当たんな」

 相手にいくらその気があろうとも、手負いの獣状態の彼とケンカする気などさらさらない。

 そもそも仲裁にきたのであって、ケンカの主催者になっては本末転倒だ。

 第一、今の彼ではケンカをしても面白みも何にもない。自分たちのケンカはこれでも互いの同意の元、成り立っているのだ。

「てめえに用はねえよ。さっさと部屋に帰れ」

 誰彼構わず当たり散らしたい気分なのか、健一郎の方は分別を失っている。

 だが、彼が熱くなればなるほど、自分は冷静になっていった。

「互いに腹に一物抱えてっから平行線なんだよ。お前も桐原も」

 嘆息しつつ、桐原を庇うように前に立つ。

 今の健一郎はガラの悪い様相を呈している。あまり芙美花に見せたいものではない。

「一物……?」

 健一郎は得心がいかぬ顔で反駁した。

 自分の隠しごとが、この事態を招いたとは考えが及ばないらしい。

 それを説明し、彼らの行き違いを解くのが壮司の役目だが、今、理佳のことを出すのは得策ではないと思えた。

 見境のなくなっている健一郎に刺激を与え、暴発させるのはもっとも避けたい事態だ。

「いいか、お前も桐原も……特にお前はどう見たって普通の状態じゃねえだろ。頭冷やせ」

 先急いで形だけの和解をさせるより、一旦間を置いた方がいいだろう。

 壮司は健一郎をなだめることに専念した。

 健一郎はしばらく睨んでいたが、唐突にくしゃり、と顔を崩した。

 虚勢がはがれた瞬間だった。

「……わけわかんねえよ。お前も――」

 芙美花も。おそらく、そう続くのだ。

 壮司に肩がぶつかるのを気にする余裕もなく、健一郎は猛然と歩き去る。

 ややあって身が縮こまるような乱暴な音を発して、ドアが閉ざされた。

 その反響が消えると、夜の静寂が戻ってくる。

 そろりと振り返って、芙美花の様子を伺い見ると、彼女は生気の抜けた姿で椅子に身を預けていた。

「桐原、大丈夫か?」

 芙美花は光の宿らない瞳をゆるゆると壮司に向いてきた。

 やはり余計なことをしたかもしれない、と後悔がもたげる。

 留奈の頼みとはいえ、こんなお節介は壮司の望むところではない。自らの領域を越えた行為だ。

「うちの部員が……すまん」

 それでもこうして後始末をしてしまうのは、部の人間が関わっているからだろう。

 体育会系の連帯感が骨の髄まで染み渡っているのだ。

「謝られることじゃないよ。だって二人とも正しいこと言ってくれた」

 とてもそんな気分ではないだろうに、それでも芙美花は笑みを作った。

 上手く笑えていないのが、返って痛々しかった。

「貢には俺から説明しとく。なるべくいいようにして――」

「止めて!!」

 何の前触れもなく、必死な形相で芙美花が立ち上がる。

 勢い余って椅子が後方に倒れ、耳を覆いたくなるような音が、談話室に響いた。

「本当に言われても仕方ないことなんだよ! 言われなかったら何も気づけないままだったっ」

 たった今、息を吹き込まれたかのような激変ぶりに気圧される。

 その切迫した表情から目が離せない。

 こんな強い意志を、かつて彼女から感じたことはなかった。

「だからっ、健さんには言わないで……」

 その一言を吐き出すと、みるみるうちに勢いを失い、目には涙が溢れてくる。

 その表情がチリチリと喉を灼いた。

 脳裏をよぎるのはあの祭りの夜。

  ――くそっ!!

 こんなときまで、と思わず心中で悪態をつく。

 幸か不幸か、あの夜の酔態を彼女は覚えていなかった。

 しかし、事あるごとに芙美花の残像が壮司の中で閃くのだ。

 健一郎に寄せた絶対的な信頼、溢れんばかりの愛情、それをありったけ込めた視線。

 それらはときには鎖のように巻きつき、あるときには苦々しい液体のように沈殿し、心をひどく軋ませた。

 ちょうど今のように。

「ごめ……不動くん、ごめんね……」

 壮司の胸で芙美花はうつむいてしゃくりあげている。

 涙が一滴、生ぬるい温かさを伴って壮司のTシャツに染み込む。

 健一郎への想いを凝縮させたそれに、血がたぎった。

 こんな風に泣かせている紛れもなく健一郎だというのに、涙も過度の献身もすべて健一郎のため。

 無条件にそれを獲得する彼が無性に腹が立たしく、憎らしくすらあった。

 自分なら、自分ならば。

 憐憫と庇護欲が込み上げ、激情に任せて、震える細い体に手を回す。

 伸ばす手が小刻みに揺れるのは怒りか、憐れみか。

 自分ならば――。

 健一郎じゃなく、自分ならば、と呪文のように何回も胸中で繰り返して、はっと我に返った。

 自分ならば何だというのだ。一体、健一郎に代わり何ができるというのだ。

 雷鳴のように無力感に打たれる。

 芙美花に触れる直前だった手のひらを拳に変え、ゆっくりと下ろす。

 爪が食い込むほど強く握り込み、ひとりでに暴走しそうになる腕を鎮めた。

 同時に芙美花も多少落ち着きを取り戻したのか、やんわりと壮司から離れた。

 芙美花の余韻だけが胸に残っている。

「ごめんね。こんなんだからダメなんだね」

 泣き濡れた瞳で無理やり笑みを作る彼女は壮司を再びたまらない気持ちにさせる。

 騒ぎ出す熱情を理性で押さえ込む。

「いろいろと気を遣ってくれてありがとう。お休みなさい」

 そのまま、明らかに作りものとわかる笑顔を浮かべると、芙美花はサッと身をひるがえした。

 壮司は“他の男”だという線引き。

「……ああ」

 その頼りなげな背を苦々しく見送る。

 彼女の存在が消え、夜の冷気を背に感じた。

 体の熱が下がり、それと相反して、思考が徐々に冴え渡ってくる。

 愕然とした。

 自分は芙美花に何をしようとしていたのか。

 健一郎にどんな感情を抱いていたのか。

 いとおしさと嫉妬。

 そんな邪な感情を彼らに対し、持ったというのか。

「嘘だろう……」

 否定の呟きは、純然として存在する感情に否定される。

 この期に及んでもなお、芙美花をこの腕の中へ引き止めたいと思っている。

 この衝動は一体何と形容されるべき感情なのか。

 ――壮司。

 どこからか巴の声が聞こえた気がした。

 じっと芙美花に回そうとしていた手を凝視する。

 この手で巴にも触れた。

 婚約を誓ったとき、心配するとき、礼を言うとき。

 この手は感情を込めて、巴に触れたのだ。

 彼女のために存在する手ではなかったのか。

 それとも……。

 外では秋雨が振り出し、壮司の思考を阻んだ。

 窓の外は、闇夜に降る霧雨で見通しが悪くなっていた。


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