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かざす花  作者: ななえ
第3章
14/68

第4幕

 折り畳まれたたとう紙を開くと、山茶花の袷が現れた。

 白に程近い灰色の地に赤くぼかしが入った山茶花が舞っている。

 ぼんやりとした色合いを引き締めるためか帯は臙脂であった。

「……あるものでいいと言ったのに」

 一度も見たことのないこの着物は以前習っていた日舞用のでも、ましてや母の形見でもないだろう。

 祖母も自分も物持ちは良い方だが、送られてきたこれは明らかに新品であった。

 秋祭りに着ていくから何か着物を送ってくれ、と家に手紙を送ったのは先週の日曜日、祭りに行こうという話が出た翌日だ。

 届いたのは昨日、土曜日である。三、四日で着物一着仕立て上げるのは無理があるから、あらかじめあつらえておいたものだろう。

 用途はおそらく嫁入り道具。

 気が早いともいえる祖母の周到さに、ため息をついてから着つけ始めた。

 すべて終えて、入口横の姿見に立つ。

 相変わらず祖母の見立ては本人である巴よりも優れている。

 淡色の地は貧弱な体を少しは見られるものにしたし、山茶花も次の季節を先取りする和服の掟にかなっている。山茶花は晩秋から冬に咲く花なのだ。

 長い髪を赤いガラス玉のかんざしでまとめ終えたとき、インターフォンが鳴った。

「古賀さん、準備できた?」

 廊下には黒の浴衣を着た芙美花が立っていた。

 淡い色合いが多い芙美花が、異なった色味をまとうその姿を上から下までじっくりと見る。

「うん、いいんじゃないか」

 十月に浴衣ってどうかなぁ、と最初に浴衣を見せてもらったとき、随分らしくない色を選んだものだ、と思ったが、こうして見るとすっきりしていて悪くない。

 元はといえば彼女がおずおずと『浴衣を着ていきたい』と言ってきたのが事の発端であった。

 古賀家では祖母はもちろん、父も、時々は自身も和服を着る。そのような和装になじみ深い家に育った巴には十月に浴衣など季節外れもはなはだしかった。

 しかし浴衣を見せてもらうと手作りで、芙美花にとっては思い入れの強い一品なのはすぐわかった。

 幸いにも季節関係ない蝶柄で、祭りという特殊な場所柄を考えれば、季節にそぐわなくとも多少大目に見てもらえるのではと思った。

 その旨を芙美花に伝えると大喜びし、古賀さんも着ていこうよ、と誘われたのだった。

「古賀さんのは、これは浴衣?」

 今度は芙美花がまじまじとこちらを見てくる。

「いや袷という、秋から着るものだ」

 へぇ、すごい、と表に裏に回って芙美花は巴を眺めてきた。

 芙美花と合わせて浴衣にしようと思ったが、古賀家では夏の着物である絽や単とともに、とうに衣裳箱の奥に追いやられているのだった。

「彼らは?」

 廊下にいるのは芙美花だけだ。辺りには彼らの巨躯を見つけることはできない。

「下にいるよ。外出届だしてくれてる」

 彼らを二人にさせとくことについて一抹の不安を覚えたが、階段を着物で下ることにとてつもない労苦を感じ、それどころではなくなるのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 階段を下ってる途中、芙美花の携帯に健一郎から『バス停で待ってる』とのメールを受け取り、学院前のバス停に急いだ。

 バスを待つ多数の女子を見て、巴は自分の心配が杞憂に終わったことを知る。

 彼女らは十人が十人と言っていいほど浴衣姿だったのだ。

 季節外れの朝顔やら露草やらが肌寒い十月の夕暮れに咲き乱れている。

「お待たせ!」

 息を弾ませた芙美花が夏の花々にも負けない元気の良さで男二人に呼びかけた。

 案の定またケンカしていたのか、互いに反対の方向を向いていた。だが呼びかけには応じて彼らの視線がこちらへ集まる。

「お〜、似合ってんな、二人とも」

 不機嫌な顔をすぐさま取り払って健一郎が褒め称えた。

 最愛の芙美花だけでなく、全体を褒めるところがさりげなくできた男だ、と思う。

 芙美花が照れながらありがとう、と返すと、その後に奇妙な間が空いた。

 芙美花は笑いを貼りつけたまま、健一郎もそこそこ穏やかな顔を保ったまま、壮司の動向を探っている。

 ここはどうやら壮司の着物姿に関する賛辞を引き出す場面らしい。巴に言わせればどう考えても壮司にそんな芸当できるはずがない。

 健一郎と芙美花の何かを期待するような視線に「何だよ」とつっけんどんに壮司は返す。

 今度は呆れ返った表情で「ほんっと気がきかねぇな」と健一郎に小突かれるに至っても、壮司は何もわかっていなかった。

 透けて見える彼らの意図に呆れより先に滑稽な笑いが立つ。

 朴訥な壮司が彼らの思い通りに動くはずかない。

 芙美花の脳内でWデートと銘打たれているこのイベントもその主旨に沿うことはないだろう。

「あ、バス来た」

 ずっと道路の先を見ていたのか、いち早く芙美花が声を上げた。

 明るい声音から興奮が押さえきれないのがわかる。

 遠くに見えたバスが徐々に大きくなっていき、バス停に停車した。

 祭り仕様の立志院の生徒たちを満載してゆっくりと発車する。

 車内は都心の通勤ラッシュもかくやという様相であった。

 座れるはずもなく、ぬりかべのような壮司に前をはばまれながら、バスの振動のなすがままになる。

 横目で見た限りでは、どうやら芙美花たちは斜め後ろにいるようだ。

「ねぇ、健さん」

 エンジン音とざわめきに混じって芙美花の声が耳に届く。

 ごく抑えた声は自分には聞こえても、壮司までは聞こえてはいないようだ。壮司はしきりに辺りを伺って彼らの姿を探している。

「この浴衣、覚えてる?」

 聞こえる芙美花の声は、いつもの天真爛漫さの中に少しだけ甘さが交じっている。

 恋愛に色づけされた健一郎専用の声音だ。

「……覚えてる。中一んときの初デートのやつだろ」

「当たり」

 なるほど、それでその浴衣に対する思い入れが強いのか、と一人で納得する。

 巴に聞かれているとなど微塵も気づかずに甘やかな会話は続く。

「あのときよりは黒も似合うようになったでしょ?」

「そうだな。見た目だけは成長したからな。おっちょこちょいも成長して欲しいですね、芙美花さん」

「……善処します、健一郎さん」

 おかしな方向に話が転がった。直前までの甘い空気はすっかり霧散してしまった。

「健さん、何で私があんまり似合わない黒を選んだか知ってる?」

「?……いや、知らね」

「あのとき、健さんの部屋で黒ビキニ専門のグラビア見つけたから」

 完全に桐原に一本取られたな、と喉の奥で笑いを噛み殺していると、バスが急停車し、前の壮司に体ごと突っ込んだ。

 着物で踏ん張りがきかずに転倒しかけて、とっさに壮司のポロシャツをつかむ。

 同時に腰に大きな手が回り、抜群の安定感で支えられた。

「大丈夫か?」

 見下げてくる彼の、体が密着してもごく当然といった様子が気に喰わない。

 加えてそこここのカップルにも自分たちと同じ現象が起こってると思うと動揺するのも馬鹿らしく思えてきた。

「疲れた……」

 久々の着物は思ったより動きにくく、不便だ。

 現に少しの振動でも足元がおぼつかなくなる。

「……俺にはそんなもんを着る気が知れねぇな」

 理解できない、といった様子の視線が頭上から注がれる。

 道が平坦になり、振動が和らぐ。するりて腰から壮司の腕が離れていった。やけに腰回りが不安定に感じる。

「お前にはわからんだろうよ」

 人と人の間を貫き、窓の外へあえて視線を投げた。

 窮屈さに耐えてまで誰かのために着飾る気持ちなど壮司にはわかるまい。

 仕組まれたものであろうとも賛辞が欲しかったこの気持ちも、だ。

 そう思うとふつふつと腹が立ってきて、黒い気持ちで彼の脇腹にそろりと手を這わせる。

 彼が訝しむ前に、ありったけの憤慨を込めてくすぐった。

「巴!お前、やめっ!止めねぇかっ!!」

 回りの乗客が何事かと奇異の視線を送ってくる。我関せず、と腹をくすぐり続けた。

 魔の手から逃れようと身をよじらす壮司の姿に、巴は密かに溜飲を下げた。

 だんだん怒りよりも愉悦の方が勝ってきて、目的地にたどり着く頃には笑顔で彼をくすぐり回していた。

 笑いを押し殺し続けたためにぐったりとした壮司の背を「早く行け」と押し、下車する。

 超満員の車内に押し込まれて蒸された体には夜風が心地よい。

 その風に乗って楽の音が聞こえてきた。

「すごい人」

 遅れて降りてきた芙美花の無意識の言葉に示されるように、祭りの参加者と見物客が入り交じってごったがえしている。

 街道から神社の境内までを結ぶ参詣路の両側には提灯と出店が連なっていた。

 それらは常にはない幻想的でいて賑々しい雰囲気を醸し出している。

「えーと、どうしようか、何食べようか?」

 目を輝かせて辺りを見回していた芙美花が楽しさそのままの勢いで尋ねてくる。

 子供っぽい口調とは裏腹に、提灯の柔らかな光に照らされた姿ははっとするほど大人びて見えた。

 健康的な美がある彼女だからこその相乗効果だ。

 色の白すぎるこの自分では幽霊にしかならない。

「ふーみーかぁ、せっかく来たんだから、食べるより先にお参りだろ?」

「あ、そっか、そうだよね」

 健一郎の言葉にバツが悪そうに芙美花が笑った。

 えへへ、と笑う芙美花を見る健一郎のまなざしはどこまでも穏やかだ。情愛に満ちている。

 混ざり気のないその関係。

 なおも羨ましいと思った自分を一笑に付して彼らについて歩き始める。

 隣には壮司。当たり前のようにそこにいる。今までもそうだった。

 いつまで自分は彼の隣にいられるだろうか、いつまでこうしてともに過ごせるだろうか。

 答えは依然として出ない。しかしタイムリミットが刻々と近づいていることだけはわかるのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 賽銭箱に小銭を入れ、手を合わせて、目をつむる。

 後ろの混雑を気にして、手早く願い事を心中で唱えて目を開けたところ、隣の彼が忽然と消えていた。

 逆隣を振り仰ぐと、健一郎が呆然とたたずんでいる。

 嫌な予感を覚えて、そのまた隣を見ると、芙美花の姿もなかった。

 お約束な展開に目眩がしそうだ。

「あいつらっ、どこ行きやがったっ!!」

 苛立ちまぎれに健一郎は奥歯を噛んだが、その顔には焦りと心配がありありと浮かんでいる。

 おそらく芙美花の身にまた何かが起こり、壮司は巻き込まれたかしたのだろう。

「いいから移動するぞ」

 後ろに長蛇の列を作る参拝客を気遣い、石畳の外へ出た。

 道から外れ、ほの暗い境内の横で改めて健一郎と向き合う。

「まずは携帯に電話か……」

 頭に手を乗せ、健一郎が日頃の苦労が滲む深いため息をついた。

 よくあることなのか、彼はわりかし落ち着いている。

「そうだな。私も壮司に電話してみよう」

 無駄だと思いつつも、巾着から携帯を取り出して壮司の番号を押した。

 彼は携帯を常備する習慣がない。今日だって持っているか怪しいものだ。

 それにこの喧騒だ。すぐに着信音に気づくことは至難の技だろう。

 やはりというか、何回コールしても出る気配は一向になく、やっぱりな、と思いつつ通話終了ボタンを押した。

「くそっ!」

 ほぼ同時に健一郎も携帯を耳から離す。

「桐原もやはり出ないのか?」

「違う。何故か電波が届かねぇ」

「……それは、また」

 この期に及んで使えないとは芙美花は携帯まですこぶる運がない。

「まぁ、壮司が一緒だ。滅多なことは起きないと思うが……」

 芙美花一人だったら到底危ない祭りの夜だが、壮司が同伴しているのなら、妙な輩に絡まれることもないだろう。

「まぁ……な」

 何だかんだ言いつつも、壮司を信頼しているのだろうが、健一郎の言葉は歯切れが悪い。

「どうする?こちらからも探すか?それとも……」

 ここに留まるか、と言いかけた瞬間、ふっと右足が軽くなった。

「あっ……」

 異変を感じた右足を見ると赤い鼻緒が切れていた。

 これでは芙美花のことを言えない。自分も大概運が悪い。

「どうした?」

「鼻緒が切れた」

 これではどうしたって歩けない。

 健一郎には芙美花たちを探しに行ってもらい、自分は何とか下駄の応急処置を、と算段を立てていると「どれ」と予想外に健一郎が膝をついた。

「大丈夫だ。だから貢は桐原を探しに……」

「そういう訳にはいかねぇって」

 ぴしゃりと遮られ、驚いた。当然ながら芙美花たちを迷わず探しに行くと思っていたのだ。

「こんなとこに一人置いていけっかよ」

 こういう風にさらっと言い切れるところが壮司とは違う。

 きっと彼はもてるだろうな、ととりとめのないことを考えて、健一郎には見えないように薄く笑った。

「なぁ、ハンカチか何かあるか?」

 巴の笑いには気づかずに、じっと下駄を観察していた健一郎が下から見上げてくる。

「ハンカチぐらいあるが……」

 巾着の中から大判のハンカチを取り出して、貸せと目で訴える健一郎に渡した。

「ダメにしてもいいか?」

 若干申し訳なさげなその問いに首肯で答えると、健一郎は歯でハンカチを引き裂いた。

「足、上げてくれ。直せっかも」

 直してもらえるならそんなありがたいことはない。

 言われるがままに右足を下駄から上げるが、片足立ちは不安定で、まともに立っていられなかった。

 そんな巴を見兼ねて、俺の肩に手ぇつけ、と健一郎が言ってくれた。

 言葉に甘えて、彼の肩に両手をつく。シャツ越しに鍛えぬかれた筋肉の存在を感じた。

「器用だな」

 赤い鼻緒は取り払われ、代わりにハンカチで即席の鼻緒を差し替えている。

 なかなか皆が皆できることではない。

「まぁな。芙美花といたら大抵のアクシデントには対応できるようになっちまった」

 苦労人だな、と労をねぎらえば、そうかもな、と快活な笑みが返ってきた。

 口ではそう言いつつも、まったくそう思っていないのが一目瞭然だ。

「なぁ、貢よ」

「んー?」

 ハンカチを繋ぎ合わせるのに夢中で、巴の呼びかけに答える声はおざなりだ。

 それでも構わずに言葉を続ける。

「本当は桐原と二人きりで来たかったのだろう?」

 壮司ではないが、彼らにとって壮司と巴はまるっきりお邪魔虫だ。

 彼らは彼らなりに四人でいることについて気をつかわねばならないだろうし、おおっぴらに手を繋いだりなどもできない。デートの醍醐味も満喫できないだろう。

 気まずい顔をして健一郎がすぐに弁解した。

「いや、そんなことは……」

「遠慮しなくていい。お前らの企みなどとうにわかっている」

 図星か、健一郎の滑らかに動いていた手が止まった。

 正確には健一郎と芙美花の、ではなく芙美花一人の企みだろう。それに健一郎はつき合わされているだけだ。

「……嫌な思いしたんなら悪かったけど、芙美花だって悪気があってやってるわけじゃねぇよ。許してやってくれよな」

「そんなことはわかっている」

 むしろ好意の塊なのだから余計に始末に困る。

 芙美花は巴と壮司を正式にくっつけたくて画策したのだ。

 この後もカップルらしい行動をどんどん自分たちにぶつけてくる腹積もりだったのだろう。

 話を持ちかけられたときからこうなることに予測がついたから、来たくなかったのだ。

「貢から桐原に言ってくれないか?」

「はっ?」

 ぱっと健一郎の顔が上がる。

 切れ長の目と視線がかち合う。

「こういうことは止めてくれと」

 さぁっと風が吹いた。

 神社を取り囲む木々がざわめく。

 後れ毛が首筋にまとわりついた。

「桐原の望むようにはならないんだ。どうしても、な」

 芙美花の思惑はしょせん徒労に終わる。これは予想ではない。事実だ。

 意味を計りかねた健一郎がじっとこちらを凝視してくる。

「……それは、どういう……」

 できるだけ艶を含んで微笑し、健一郎の追及を封じる。

 余計なことは何も知らなくていい。知ったって何も楽しいことはない。

 巴の表情に踏み込めないものを感じたのか、健一郎は言葉を飲み込み、焦点を鼻緒に戻した。

「……できた」

 しばらくして完成した鼻緒は間に合わせだが、しばらく歩くには充分なものだった。

「ありがとう。助かった」

 自分にしては素直に礼を言ったつもりだったが、返ってきたのは言葉ではなく、まっすぐに射抜いてくる眼光だった。

「余計なお世話かと思うけど、不動のこと嫌じゃねぇんだろ?」

 嫌いじゃない――好きだということは普通の高校生なら充分につき合うに値する条件だろう。

「さぁ、どうだかな……」

 好き――だからどうした、と笑いたくなった。

 好いた惚れたではどうにもならないことが世の中には腐るほど存在するというのに。

「お前たちは二人ともお人好しだな」

 お人好しで他人も自分と同じように幸せになれると思っている。

 それは巴にとってはこの上なく愚かしいことに感じた。

「……行くか」

 巴の言葉に単なる褒め言葉以上の意味を感じとって健一郎の表情は複雑だった。

「ん……」

 健一郎の後ろについて歩きながら、話し過ぎた、と少し後悔を覚えた。

 祭りという空気に触れて自分も気分が昂揚しているのかもしれないと思った。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 十五円ごときで二つ目の願い事をしたとき、ちゃりん、と小銭が落ちる音が耳朶を打った。

 反射的に目蓋を開けて、周りを見る。自分ではない。

 何気なく横を見ると、芙美花が落として転がっていく小銭を追いかけて、参拝客の列から外れていくところだった。

「あっ、おいっ!」

 巴と健一郎は熱心に祈っていてまったく気づいていない。

 小銭を拾ってこちらへ戻ってくる彼女に安心したのも束の間、持ち前の不運さで中学生の一団によって違う方向へ流されていくのが見えた。

 舌打ちをして慌てて走り出す。

 無断で勝手な行動をするのは気が咎めたが、芙美花を一人にしておく方がはるかに危ない。

 祭りの夜だ。気分を昂ぶらせた輩がそこら中にいる。

「桐原っ!」

 人をかき分けかき分け急いで進むが、なかなか追いつけない。

「くそっ……」

 芙美花が最後に見えたところに来たが、姿はない。完全に見失ってしまった。

 巴たちのところに一旦戻るか、と思ったが、自分の隣を目をギラギラさせた金髪の男が通り過ぎ、思い留まる。

 とにかく闇雲に探した。

 境内に神社の裏手、屋台が並ぶ参詣路。

 賽銭箱のところにも一度戻ったが、巴たちすらいなくなっていた。

「ねぇ、君。大丈夫?」

 神社のお守り売り場へ足を運んだとき、不意にそんな声が耳に入ってきた。

「足元ふらついてるよ」

「家どこ?送ろっか?」

 軽薄そうな声につられて振り向くと、探し人――芙美花が下心を親切で覆い隠した男二人に囲まれていた。

 一人はふらつく芙美花の肩を抱き、もう一人はニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべ、彼女の顔を覗き込んでいる。

 厄介な奴らに絡まれやがって、と舌打ちしたくなる気持ちを抑え、大股で歩み寄った。

 突如現れた壮司の存在に、彼らは敵愾心をむき出しにする。

 険しい視線での攻防をしながら、芙美花をこちらへ引き寄せた。

 足に力が入らないのか、壮司の胸に倒れ込んでくる。

「人のツレにベタベタ触ってんじゃねぇよ」

 なるべくドスを利かせて言い放つ。

 彼女を探している間にこういう事態も想定していた。

 自分はこれでも武道の有段者だ。ケンカなどしたらこちらに多く非がつく。

 だからなるべく穏便に済まそうと思っていたが、見知らぬ男に囲まれる彼女を見た瞬間、直前までの考えは吹き飛んでいた。

 とにかく腹が立って仕方がない。

「……何、アンタ」

「横から出てくんじゃねぇよ」

 いきなり芙美花をかっさらわれて、当然ながら男たちは怒りをあらわにする。

「二対一か?面白そうじゃねぇか」

 生来自分も血の気は多い。不敵に笑んでバキバキと指を鳴らした。

「……ケンカ……止めてよ」

 かすれた声が胸元で主張する。

 次いで胴に手を回され、おもいっきり抱きしめられた。

「桐原っ、おいっ!!」 高揚していた神経は、違う熱さにすり替えられる。

 芙美花の腕を解きにかかるが、細い腕のくせにびくともしない。

 手荒に扱うこともできず、途方に暮れた。

 自分たちを無視して始まったラブシーンに、男二人組は萎えたらしく、壮司がおたおたしている内にいなくなっていた。

 こうなるくらいだったら、まだケンカの方が楽だ。

「桐原……お前、酒飲んだな」

 芙美花の呼気からかすかに酒の香りが漂った。

 境内ではお神酒が無料で配布されている。それを知らずに飲んだのだろう。

 たいした量ではないはずなのに、すっかりできあがっていた。

「……健さん……来てくれてありがと」

 完全に健一郎と勘違いされている。確かに彼と背格好は似ている。しかし似ているのは背格好だけとも言えた。

「桐原、頼むから離せ」

 それはもはや懇願に近かった。

 しかし「イヤ!」と駄々っ子のようにきっぱりと言われ、さらに胴のしめつけが強まる。

 顔のすぐ下にある色素の薄い髪からは甘い甘い香りがする。

 巴の香りはもっとあくがなく、すっきりとしている。

 嗅ぎ慣れない香りに頭がくらくらした。

「健一郎、好きぃ」

 胸に埋めていた顔は、いまや壮司の顔をしっかりとらえて、とろんとした瞳を向けてくる。

 酔っていても瞳は雄弁だった。

 健一郎への恋慕、信頼をありありと語る。

 胸がざわめく。

 ざわめきが何かをこじ開けようとしている。

 本能が警告を発し、ざわめきごと無理やり蓋をした。

「……俺は『健一郎』じゃねぇ」

 酔っぱらい相手に何を言っているのか。

 何をこんなにもむきになっているのか。

 早く巴の元へ戻らなくては、とひたすらに思う。

「健さん……」

「いい加減にしろ」

 自分から出た声は驚くほど低かった。

 さっきのドスを利かせた声とは違う。地の底から響くようなかすれた暗い声だ。

 出所がわからない暗澹とした気持ちに任せて芙美花を引きはがす。

「あっ……」

 芙美花の名残惜しげな目つきすらうっとうしい。

 健一郎にはこんなにもとろけそうな瞳を向けるのか、と思うと眉間を寄せずにはいられない。

 苛立ちそのままに、彼女の手を引いて歩いた。

「待ってぇ……もっとゆっくり歩いてっ!」

 彼女は息が上がっていたが、お構いなしで歩き続ける。

 自分が健一郎でないことを知らしめたい、その一点に意識が集中している。

 その気持ちを追い払おうと必死に巴のことを考えていた。

 自己防衛だったのだ。こうでもしなければ自分が内側から崩壊していくような恐ろしさがあった。

「壮司っ!」

 だから聞き慣れたその声に心底安堵した。

 こちらの姿を見つけだして巴と健一郎が駆け寄ってくる。

「芙美花っ、お前何やってんだよっ!!」

 健一郎が言い終わる前に危うい足取りで芙美花が彼に向かって走り出す。

 繋がった手が、一度ピンと張り、そして離した。

 自分が掴んでいていい手ではない。

 わかっている。しかし、今まですっかり勘違いしていたくせに、本物が現れたとたんこちらに見向きもしなくなった彼女が薄情に感じた。

「壮司、お前も今までどこに――」

 猫のように健一郎に抱きつく芙美花をよそに、巴がこちらへ言葉を投げかけた。

 その言葉が不自然にぶつ切れる。

「……どうした、何かあったのか?」

 傷一つない真っ白な指先が頬に触れてきた。

 知らず知らずの内に体が強ばっていたらしい。彼女に触れられた瞬間、ふっと体の余分な力が抜けた。

「……何でもねぇよ」

 何もない。そう、何もなかったのだ。

 祭りでただ、気分の高まりが抑えられなかっただけだ。

 真に帰るところはここだけだ。巴のいるところが自分の居場所なのだ――。

 そう強く言いきかせ、先ほど蓋をしたざわめきをさらに補強した。

 これは開けてはいけないと無意識下で悟っていた。

 だが、しっかりと閉じ込めたはずなのに、いつまでも不安感が拭えない。

 壮司の心を乱すように遠くで楽の音が鳴っていた。

 十月の夜だというのに、じっとりと汗をかいていた。

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