第3幕
土曜日の昼下がり、芙美花は談話室で刺繍に勤しんでいた。
先日アフリカのサバンナに住む野生動物たちのドキュメンタリー番組にいたく感動し、その生命力に満ち溢れた力強い姿を何かに具現化させたくなったのだ。
そこで選んだのが家政科らしく刺繍であった。
いづれできるだろう超大作は冬の文化祭に展示物として出展予定だ。
ライオンのたてがみを表現しようて黄土色の糸束を取ったとき、階段を上がってくる音がして巴が帰ってきた。
「おかえり、古賀さん」
間もなく談話室に現れた巴は土曜課外に行っていたので制服姿だ。
いつもながら白いリボンタイの左右対称さは見事であった。
彼女は芙美花の渾身の一作をちらりと見ただけで何も言わなかった。
何かしらのコメントを貰えると思っていただけにがっかりだ。
落胆を宿して巴を見るとその柳眉を不快げに寄せているのが見てとれる。
「何かあったの?」
それともこの刺繍にどこか気に障るところでもあったのか、ライオンが嫌いなのか、と見当違いのことを考えながら巴の顔色を伺っていると、芙美花の懸念を感じ取って巴が顔を緩めた。
「いや、その刺繍がどうこうというわけではなくてな」
自分のせいではないと安堵しつつも「じゃあどうさたの?」と重ねて問うた。
「特に何もない。返ってきた英語が壮司に負けた以外はな」
「何もないってそれじゃないの」
今週の水曜日にテストが終了し、ちらほら採点されたテストが返ってきた。
幸いにも最終日にかの問題の数学のテストだったので、前日に脱臼していた右腕の固定器具を外してもらい、無事良い点数を収めることができた。
特進クラスの二人にしてみれば平均を越えた越えないレベルの“良い成績”など鼻で笑うものだろうが、それでも『良かったな』と言ってくれて嬉しかったのだった。
「とにかく座りなよ」と正面にある椅子を勧めると仏頂面のまま、しかし割合素直に巴は腰かけた。
「ええと、お茶飲む?」
「貰おうか」
談話室の傍らには無料で飲料用の熱湯と冷水が出る機械がある。
その脇に常備されている紙コップに持参したティーバッグを入れて熱湯を注いで渡した。
「……負けたことだけでそんなブスッとしてるの?」
芙美花の知る限りでは巴は怒りが尾を引く人物ではない。ましてや一回のテスト如きで。
巴は一旦言い淀む姿勢を見せたが、ややあって話し始めた。
「……前回のテスト時にある約束を壮司と交わしていてな」
「約束?」
「次のテストで英語が勝った方の言うことを何でもきくと」
「うわぁ……」
随分ベタな約束をしたものだ。十中八九嗜虐的な巴から持ちかけたものだろう。
「あの時はあいつに連敗した悔しさで勢いに任せて言ったが、さらさら負ける気などなかった」
「うん」
それはたやすく想像がつく。巴が勝算のない賭けなど持ちかけるはずがない。するからには相応の勝ち目があったのだろう。
「……だがな、もし私が勝っても今回壮司はああいう状態だったから勝負は無効にしようと思った」
「だけど思いがけず負けちゃったと」
続きを引き取った芙美花の台詞に答える声はない。 代わりに巴は紅茶を一口飲んだ。
巴が今回猛烈に英語を勉強していたのは知っている。
しかし今回の問題ははっきり言って悪問だった。
なんといっても問題の難易度が低く、上下の差がつきにくい構造になっていたのだ。
難問ばかりを演習していった巴にとっては不利益をこうむる結果になってしまった。
「でも不動くんそんな約束覚えてないかもよ?」
気を取り直して言ってみるが、「それはない」と一蹴された。
「テスト前に『約束、まさか忘れてはいまい?』と私がけしかけた」
「ありゃー……」
勝つ自信満々だったのだろう。予定通り勝って「敗者への情けだ」とか何とか言って勝負を白紙にするつもりだったのだろう。
しかし予定はいつだって未定だ。そして現実とは得てして予想外なものだ。
「でもあの不動くんが古賀さん相手にひどいことできるとは思えないけど」
女王様気質の巴に振り回され、憐れ壮司はさながら下僕である。
基本的に壮司は巴に逆らえない部分があるのだ。
「そんなことはわかっている。あいつが言うことなど食事をキチンと摂れだとか、好き嫌いをするなとかせいぜいその程度だろうよ」
主従関係のような二人だが、ときたま厳格な父親と手のかかる娘になる。
「それくらいかわいいものじゃない。何がそんなに問題なの?」
傍から見れば微笑ましい光景である。
少なくとも巴が壮司に言うことをきかせるよりはえげつない画にならないはずだ。
返事を視線で催促すると、散々渋った後にやっと巴はもごもごと口を動かした。
「……今晩の夕食はピーマンが出る」
「ぴーまん……?」
思考が追いつくのにいささかの時間を要した。
この巴がピーマン。ピーマンを食べたくないと。ピーマンの肉詰めが嫌だと。
把握した瞬間、笑いの大波に飲み込まれた。
「ぶっ、古賀さんかわいい〜」
「うるさい。嫌いなものは嫌いだ」
ふいと背けたその顔は耳まで赤い。元が白いだけになおさらよくわかる。
「ぶくくっ、ピーマン」
笑いが堪えきれない。
生徒会の佳人、辣腕家の巴がよもやピーマンが食べられないとは誰が考えるだろう。
「おっ、賑やかだな」
芙美花の笑い声と巴のじとりとした視線に入ってきたのは健一郎であった。
その後ろにはゲーム機を持った壮司もいる。
午前中部活だった彼らは一風呂浴びてきたのか髪から水がしたたり落ちていた。
首にタオルを引っかけた壮司を一瞥して巴がはぁと息を吐く。
「何だよ」
そのため息に批判的な何かを感じ取ったのだろう。
壮司は非難めいた視線を巴に向けた。
まさか彼女のため息がピーマンについてだとは思っていないだろうが。
「水がしたたれていても元が悪いといい男にはならないなと思ってな」
普段はどちらかといえば寡黙だが、壮司をけなすことに関しては巴の口はよく回る。
その言い回しや語彙の豊富さは感心してしまうほどだ。
「俺の顔が破滅的だと言いてぇのか」
「そうではないと思っていたのか?」
巴は生き生きと切り返したが、芙美花の私見ではそこまで壮司の顔が不細工だとは思わなかった。
繊細さや典雅さには欠けるものの、いかにも日本男子的な凛々しさがある。
巴も心底壮司の造作が悪いと思って言っているわけではなかろうが。
「不動、コントローラ」
ゲームの配線をしていた健一郎が壮司に手を伸ばしてくる。その手に「ほらよ」と壮司が二人分のコントローラを乗せた。
間もなくテレビ画面にアクションゲームのオープニング画面が流れ始める。
健一郎がスタートボタンを押し、オープニングを省略した。
壮司も巴に構ってはいられないとばかりにテレビの前に座り、コントローラを握った。
中国だか日本だかの武将になぞらえたキャラクターを彼らは真剣そのものの顔で選んでいる。
こうして背中を並べ、ともにゲームをしている姿を見ると仲が良いやら悪いやらだ。
「貢!俺が使おうとした装備とってんじゃねぇよ」
「はっ、そんなの知るか」
口では子供っぽい争いをしていても、目は常に画面を向いている。本気でゲームの世界に没頭しているようだ。
しばらくコントローラのボタンを押す音だけが響いていたが、ジャンッという音がして画面が切り替わった。
曇天と砦を背景にして画面が二つに割れた。
左半分、小回りが利き、俊敏さを売りとした双剣のキャラクターが健一郎で残り右半分、力を至上とした大剣の筋肉質のが壮司だろう。
バーチャルでも彼らの嗜好が出ていて面白い。
「ゲームでくらいもっとさわやかな奴にせんか」
巴は壮司の分身ともいえるキャラクターに呆れた視線を送っていた。
「力が強い方が使いやすいんだ、よっ!」
語尾にかぶせて壮司が健一郎へ最初の一撃を与えた。
「てめっ、やりやがった、なっ!」
健一郎の双剣が、壮司の防御より早く一閃を加えた。
そこからはもう斬戟入り乱れだった。
壮司の重い一撃を防ぎきれない代わりに、健一郎の一閃は壮司の重量級武器では防御が間に合わない。
両者譲らす、一進一退を繰り返し、最終的に軍配が上がったのは健一郎であった。
単にこのゲームは健一郎のだろうから、その経験の差がものをいったのだろう。それを除けば二人の力は拮抗していた。
壮司は我を忘れて悔しがり、健一郎も十も幼くなったかのように喜んでいる。
その様子を見ていると、要はケンカの舞台をリアルからバーチャルへ移しただけのようだった。
また次が始まると長いので、この隙にここ数日出す機会を伺っていた話題をすることにした。
「ねぇねぇ、テストも終わったことだし、お祭りにでもいかない?」
「祭り?」
巴が口をつけようとした紙コップから顔を上げて聞き返す。
壮司は次の戦闘に備えてキャラクターをカスタムしていたので反応が遅れ、健一郎は“またかよ”という顔をしていた。
「うん。再来週の日曜日の秋祭り。四人で行こうよ」
教師たちでは問題勃発の温床ともいえる祭に生徒が出向くことは毛嫌いされている。
よって校内にポスターなどは一切貼られていない。
しかし娯楽に飢えている生徒たちがこの一大イベントを見逃すはずがない。祭りの日程、詳細等は公然の秘密となっていた。
「私はいい。人ごみは好きではない」
彼女は一考の余地もなくはねつけた。
巴にかかれば胸踊るイベントもただの煩わしいものへと早変わりだ。
「俺も。お前らのお邪魔虫にはなりたくねぇからな」
巴が行かなければ、壮司も行かない。確かに誰がカップルについて行きたいと思うだろうか。
「わかった。不動くん、日曜日を賭けて勝負しよう」
壮司を承諾させれば芋ずる式に巴も釣れる。
壮司に狙いを定めたのは我ながらいい判断だと思った。
「勝負?俺と?」
「うん」
壮司の不審さ押し切るように強く頷いた。
「それで、勝負しよう?」
芙美花の指さした先はウィンウィン起動音を鳴らすゲーム機だった。
「……不動、かわいそ」
芙美花のゲームの腕を知っている健一郎がぼそりと不吉に呟く。
それを無視して芙美花はにっこりと微笑んだ。
―◆―◆―◆―◆―
テンポの良い音楽とともに双剣のキャラクターが勝利のポーズをとった。
一方、壮司のキャラクターは断末魔を上げて仰向けに倒れている。体力ゲージはゼロだ。
「……嘘だろ」
やすやすとは信じられなかった。
それぞれに弱点と長所があり、それを相殺しあい互角に戦っていたというのに。
使い手が変わった途端に傑物じみた強さを発揮したのだった。
「日曜日、行こうね」
壮司を圧倒的にねじ伏せた容赦のなさはどこへ行ったのか、芙美花は心からうれしそうに微笑んでくる。
一度勝負を受けたからには反古にするつもりはなかったが、この笑みを向けられたからには嫌だとは言えない。
巴によって邪気には慣れているが、逆にはまったく免疫がないのだった。
「ご愁傷さま。せいぜい楽しんでくるんだな」
嫌味なほどまばゆい笑みを向けて巴がさりげなく去って行こうとする。
勝負をしたのはあくまで壮司で自分は関係ないと思っているのだろう。事実その通りだ。
歯噛みしているしかないと思っていると、『勝負』という単語に何か引っかかるものがあった。
「待てよ」
巴が体を強ばらせた。
「お前、英語のテストどうだったんだよ。帰ってきたんだろ?」
背を向けたまま何も答えない。
黙秘の姿勢をとっているということは壮司の目論見が当たっているということを意味する。
「一緒に行くよな?まさか約束忘れちゃいねぇよなぁ」
わざとらしく語尾を上げた。
自分が数日前に放った言葉を引用されたいやらしい物言いに巴が舌打ちする。
たまには優位に立つのもいい気分だ。男としての矜持も満たされる。
「お前は私が約束を破るような人物に見えるのか?」
「そりゃ結構」
軽く返すと半端なく研ぎ澄まされた視線を寄こされた。
壮司がそれくらいで揺らがないてわかるや否や、また背中を向けて自室に歩いて行ってしまった。
「じゃあ、日曜日決まりだね」
芙美花がうきうきした口調と満面の笑みで決定事項とした。
結局のところ何もかも芙美花の思い通りとなってしまった。
こうなることを予期して事を運んだならば、とんでもない策士だと、壮司はその屈託のない笑顔の裏を思ったのだった。
―◆―◆―◆―◆―
都合よく三連休だったので、壮司は月曜日、午前中の部活を終えてから病院を訪れることにした。
念のため、今の体に見合った喘息の薬をもらうためだ。
数年ぶりに再発した喘息は言うまでもなく苦しかったが、それ以上に各方面に散々迷惑をかけたことの方が心苦しかった。
昔世話になった自宅近くの主治医のところへ通院するのは時間的に不可能だったので、学院から最寄りの総合病院を選んだ。
過疎化が進んでいるこの地域らしく、待合室で腰かけている大半は老人であった。
初診の諸々の手続きを済ませ、居心地の悪さを感じながら老人たちの中へ座る。
病院に使うのは不適かもしれないが、結構な盛況ぶりで、名前が呼ばれるまでに優に一時間は待たされた。
医師には二、三質問され、胸の音を聞かれただけで診察は終了した。
薬局で目的だった薬をもらい、病院前のバス停へ向かう。
初診料も加わって診察料と薬代は高くついた。
壮司の乏しい財布事情にさらなる大打撃を与えた。
貯金は底を着きかけている。
だからといって古賀家を頼るわけにもいかず、難しいところだ。
年末になれば年賀状宅配のアルバイトができる。
それまで物欲は押さえるにしても、いざというときの蓄えがないのは心許ない。
何か単発のバイトでも――と思いながら何気なくバス停から病院内へ目を向けた。
せわしく動き回る看護師に受付から漏れ聞こえるアナウンス。
もう少し視野を広げれば白衣の裾をなびかせながら眼科や外科に向かっていく医師たちが見える。
院内を走る子供が向かう先は腹が膨らんだ妊婦のいる産婦人科。母親の腹に頬を寄せ、弟か妹の胎動を感じている。
その母親の横、文庫本を静かに読む少女に壮司の目はくぎづけになった。
――巴!?
長い黒髪に白い肌。それだけならごまんといるだろう。
文庫本を読む姿勢、髪をかき上げる仕草が巴だと語っている。
正体を突き止めるべく再び院内へ入ろうとしたところにバスがちょうど来た。
どうするべきか迷い、産婦人科に視線を向けたときには、呼ばれてしまったのか巴の姿はすでになかった。
「お兄さん、乗んないの!?」とバスの運転手からがなられて「すみません」と謝ってバスのステップを上がる。
席を譲るべき人物がいないのを確認して、乗降口に程近い座席に座った。
流れていく街中の景色を何ともなしに眺めながら、何故産婦人科なんかに、と思いを巡らす。あれは巴だという妙な確信があった。
至極単純に行き着くのは妊娠だが、もちろん壮司に心当たりがあるはずはない。
壮司が見る限り、他の男の影が巴の側にちらついている様子もない。彼女の性格からして婚約者がいる身で他の男に懸想するなどあり得ないと断言できる。
しかし妊娠ではないとなると男の壮司には産婦人科で何を診察するのかなど皆目見当もつかなかった。
彼女が何かしらの疾患を得ているとしたら今度は壮司が力になる番である。だが産婦人科ではお手上げだ。
バスに乗車中、考えうるあらゆる可能性を考えたが、いずれにしても壮司が役立てそうなものはなかった。
このことはほどなく多忙さにまぎれ、壮司の記憶にあっけなく埋もれることとなる。
後に大きな波紋を起こそうとは何一つ予感していなかったのだった。