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かざす花  作者: ななえ
第3章
12/68

第2幕

 壮司が発熱してダウンしたという報を聞いた翌朝、芙美花はインターフォンで目を覚ました。

 今日は土曜日。れっきとした休日だ。昨夜は深夜までテスト勉強をしていたため、起床時刻を過ぎてもまだ熟睡していたのだった。

「ふぁい。どなたさまぁ?」

 パジャマのままふらふらと歩き、寝ぼけ眼でドアノブを回す。

「古賀さん……」

 そこに目が覚めるような美少女の姿を認めて、文字通り一気に目が覚めた。

「おはよう。悪い、寝てたか?」

「うん。だけど朝ごはん食べ損ねちゃうとこだったからちょうどよかった」

 チューリップ柄の壁時計は八時過ぎを指している。

 休日の食堂利用時間は九時までなのでそろそろ身仕度を整えて行かないと厳しい。

「古賀さん、お出かけ?」

 起き抜けの芙美花と違って巴は一分の隙もなく私服を着こなしていた。

 加えて手にはバックを提げている。寮内をちょっとぶらぶらという格好ではない。

「ちょっと家に行ってくる。今日中に帰ってくるつもりだが帰って来なかったら……」

「うん。点呼のとき言っとけばいいんだね」

 言葉を先取りして心得たとばかりに頷く。

 その仕草を見て巴はかすかに微笑んで「一応宿泊届けは出してくからよろしく頼む」と念を押した。

「気をつけて……へっへくしょんっ!!」

 薄着でいたせいかこらえきれずくしゃみを連発してしまう。

 間近で大音量のくしゃみを受けた巴が驚いてバックを取り落とした。

 ガシャンと耳障りな音がしてバックの中身が廊下に広がる。

 生理現象といえどもこれも自分の不運が引き起こした二次災害であろうか。

「ごめ、くしょいっ!」

 謝罪すらくしゃみに先を越される。

「鼻出てるぞ」

 どこまでも間抜けな芙美花に呆れながらも親しみがこもった笑みを巴は向け、床に落ちたポケットティッシュから一枚抜き取り、芙美花の鼻に軽く押しつけた。

「ありがと」

 巴が手早くバックの中身を拾う隣で急いで鼻をかんで回収に加わった。

 すると巴が目だけで自分を一瞥してくる。

「上を着ろ。桐原にまで体調を崩されてはかなわん」

 その言い方にどことなく苦さが漂ってるのが感じられて芙美花は少しだけ笑った。

 素足でぺたぺたと歩き、椅子の背もたれにかけてあったカーディガンをはおって戻る。

「不動くん、どう?」

 その名前を出した途端、無数の苦虫を噛み潰したように巴の顔が渋くなった。

「その痴れ者の名を出すな」

「痴れ者って……」

 先ほどまでとは打って変わって剣呑さを帯びた彼女の声に苦笑した。

 昨日の夜中、隣室から聞こえる咳があまりにひどいので、巴と健一郎を伴って彼の部屋を訪ねたところ、高熱を出した壮司が倒れていたのだ。

 巴の逆鱗に触れたのはそこではない。直前まで勉強してたと思しき形跡があったのだ。

 これでは良くなるものも良くならない。青い炎を瞳の奥に燃焼させ、怒りをたぎらせた巴により即座に寮の保健室、通称病人隔離部屋に強制収容されてしまった。

「早く良くなるといいね」

 彼女の気を静めようと精一杯の笑顔で言ってみるが「あの大馬鹿は一遍死なないと治らん」ととんでもない返事が返ってきた。

 二人でしゃがみこんで落ちたものを拾っていく。

 財布やポーチ、優等生らしく単語帳が散らばっている。

 中身が飛び出たカードケースに手を伸ばした瞬間、芙美花は目を見張った。

 産婦人科――……。

 巴名義の淡いピンクの診察券がケースから頭を出していた。

 この堅実な巴が妊娠しているとは夢にも思わないが高校生女子には何かとデリケートな場所だ。触れない方が賢明であろう。

 それにおそらく生理が重いのだろうと察しはついていた。一度だけ二人きりのとき「腹が痛い」と顔を歪めて弱音を吐いたことがあったのだ。

 驚きを気取られないようにそっと他のカードとともにケースへ戻す。

 カードケースとハンカチを合わせて渡すと「ん、悪い」とバックの中にしまった。今手渡したもので最後であった。

「じゃあ今度こそ気をつけて行ってきてね」

「行ってくる」と巴が颯爽と歩きだす前に自分よりも若干高い位置にある肩を掴む。

 身を乗り出してその耳元に口を寄せた。

「不動くんのことは心配しないでいいよ。私たちで看とくから」

 その冷静な顔を崩してみたいと意地の悪い興味だったのだ。

 からかわれた巴は途端に思いきり不愉快さを張りつけて凄んでくる。

 それが相手の思う壼だというのに。

「睨んだってムダだよ。“すごく心配”って顔に張りつけてあるもん」

 図星を指されて巴は顔をしかめる。

 壮司に関することだけは巴の心中を推し量ることなど造作ないのだった。

「……おっちょこちょいの間抜けのくせに変に恐いもの知らずだな、桐原は」

 気に喰わないといわんばかりに巴が息をつく。

 それは降伏の意に見えた。

 それにしてもよくよく考えると随分失礼な言い草であった。

「どうしようもない馬鹿だが、時折気にかけてやってくれ……じゃあもう行くぞ」

 皮肉屋な彼女にしては珍しく神妙に言って腕時計に目を走らせた。バスの時間が迫っているのだろう。

「うん。引きとめてごめんね。行ってらっしゃい」

 ひらひらと手を振ると巴も半身になって軽く手を上げて去っていく。

 そういう砕けた動作も様になっていてかっこいい。

 高らかに足音を響かせ去っていく彼女を見送ってると唐突にその背が振り返った。

 お互いの視線がかち合った瞬間、その秀逸な顔が大輪の花が開くように艶やかに微笑んだ。

「礼と言っては何だが、帰ってきたら今度は私が数学をみっちりご教授いたそうか」

 背筋が寒くなった。

 学年首席の彼女に教えてもらうなど気後れする以上にどうも恐ろしい。

 主に壮司に発揮されているサドな性格を考えると、程度は違えど厳しい指導が待っているに違いない。

 その図を想像して固まっていると巴がご満悦とばかりに目を細めた。

 ――からかわれた!

 そう気づくまでにたいした時間は要しなかったが、そのときには彼女の姿は特別寮七階にはすでになかった。

 風が凪いだ湖面のように何事にも動じなそうに見えて、水面下では勝ち気な巴である。

 からかわれっぱなしの負けっぱなしをよしとするはずなかったのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 早い呼吸をするたび不快な喘鳴音が響き、喉は熱い。

 痰に気道をふさがれているので、息苦しさにさらに拍車がかかる。

 熱のため眠りは浅く、体の感覚も一枚薄い膜を隔てたように頼りない。

 隔離部屋のベッドに横たわる現状は我ながら情けなかった。

「・・け・・さん、そっと・・てね」

 ドアを隔てて誰かのくぐもった声が聞こえる。

 外界の音が入ってきて、急速に意識が浮上した。

 ふっ、と目を開いた瞬間に頭痛が戻ってくる。

 体を起こすと頭をかき回されるような嫌な感覚があった。

 それをやりすごして、リノリウムの床に足をつける。

 ひやりとした感覚を足裏に味わいながら入口へ歩いて行き、ドアを開けた。

「何してんだ」

 ドアを開けた先には芙美花と健一郎がおそろいだった。

 二人は「あっ」という具合に壮司に顔を向けてくる。

「不動くん、具合はどう?汗かいてると思って着替えを持ってきたんだけど……」

 どこか芙美花が慌てたようにまくしたてた。

 その言い分に、だから貢も、と納得がいく。

 この病人隔離部屋はまず大きな保健室があり、その奥に小部屋が二つついている造りになっている。その小部屋が男女別の隔離部屋であり、無論それぞれ異性の入室は厳禁だ。

 だから芙美花は男である健一郎同伴できたのだ。

 それ以外に宿敵である奴が見舞いに来るなど考えられない。

「いいザマだな。普段後輩ビシバシしごいてるくせに情けねぇの」

 それを証拠づけるように口を開けば憎まれ口である。

 しかし『しゃーねーなぁ』という響きの方が強く、この隙に乗じるような嘲りの色はなかった。

「健さん、黙って。相手は病人」

 常にない瞳の強さで射ぬかれ、健一郎は目に見えてたじろいだ。

 先日の記録会の謝罪の件もそうだが、要所要所では芙美花に方を手綱を握られているらしい。

 自分たちは言うに及ばず、生徒会の男どもは女より弱いと相場が決まっているようだ。

「これ着替えだよ。水分は取ってる?お粥作ったから食べてお薬飲んで。何か必要なものはある?」

「いや……」

 いつの間にか着替えやらペットボトルやらまだ温かい粥やらを持たされていた。

 いつもどこかとらえどころのない頼りなさを感じていただけにこの手際のよさは驚きだ。

「忙しいのに気を遣わせて悪かったな。ありがたくいただく」

 ほのかに温かい粥はおそらく手作りだろう。冷めないようにラップまでかかっている。

 その温かさが病身には染みた。

「どういたしまして。起こしてごめんね。お大事に」

 長居は体に障ると思ったのか、現にずっと寝床にいた体が外気で冷えて咳が出てきた。喘息にとって冷気は大敵だ。

「待て」

 芙美花たちがドアの外へ完全に消える前に声で追いかけた。

「なぁに?」と芙美花が、ついでに健一郎も振り返る。

 次の言葉を待って真っすぐに向いている芙美花の視線から思わず目を反らした。

「……巴はまだ怒ってんのか」

 この質問をするのは不本意極まりなくてどうしても目が泳ぐ。

 しかし、今の自分には確かめる術がこれしかない。 メールをしたところで返ってくるとは思わないが、携帯は自室に置いてきてしまった。

 無論まだ七階へ戻れる体調ではない。

 今あの長い階段を登ったら間違えなく途中で動けなくなるだろう。

 芙美花が自分の挙動不審をどう思ったかは不明だが、いや何も気にしてはいないだろう。「あぁ、あのね」と言葉を発する。

「古賀さんなら今朝早く出かけたよ。お家に行くって言ってた」

「家?」

 熱も咳もすべて忘れ眉根を寄せる。

 ありありと示された得心がいかないという表情に芙美花の瞳が不安げに揺れた。

「何かまずかった?」

「いや、何でもねぇ」

 彼女の手前、言葉を濁すがどうも解せない。

 許婚になってからというもの彼女の家への――特に祖母個人への反発は強まりに強まった。

 立志院に進学したのも名の通った進学校である以上に全寮制であるからという側面の方が強い。

 長期休暇になるたびに帰らない、と子供のような駄々をこね、壮司が再三促し宥めすかしてやっと帰省する有様だ。

 その彼女が自発的に家に帰るなど逆に何か、特に病を得ている母に何かあったのかと勘ぐってしまう。

 つらつらとあれやこれやと考えを巡らせていると何の前触れもなくまた咳が込み上げてきた。

「ゲホッゲホッ!ゴホッ!!」

 壁に手をついてひたすら咳き込んでいると芙美花が気遣わしげに背を撫でてくる。

 さすがの健一郎も「大丈夫かよ」と案じている。

「あぁー……畜生」

 すん、と鼻をすすった。

 健一郎じゃないがこんなみっともない姿を後輩に見られようものなら権威の失墜は免れないだろう。

 幸いにしてテスト前に調子を崩し、隔離部屋に“入院”するような迂闊な者は壮司しかいなかった。

「もうベッドに入って休んで」

 芙美花に軽く背を押され、ベッドに向かわせられる。

「何かあったら遠慮なく呼んでね」

 再び咳き込んだため、ろくに礼も言うことができないまま静かにドアが閉まった。

 絶え間なく咳を繰り返しているうちに冷えてしまった寝床も温まってくる。

 軽く汗ばむ頃になってやっと咳の間隔が開いてきた。

 ひどく疲れて眠気が差してきたときサイドテーブルに置きっぱなしの粥を思い出した。

 冷めてしまっては申し訳ない。ゆるゆると体を起こしておびただしい水滴がついたラップをはがした。

 かすかな湯気とともに漂ってきた香りは馴れ親しんだ米のものではなかった。

 言うなれば潮のような異臭である。

 ためしにスプーンでかき混ぜてみると白い粥の表層に現れてきたのはキクラゲや梅干し、昆布にわかめであった。

「……」

 粥の具材が通常どのようなものか寡聞にして知らないが、これが逸脱したものだというくらいは壮司にもわかる。

 大いなる試練を与えられている気分だ。

 まともそうなところをすくって凝視する。

 切りきれてなく長いまま連なるきくらげがスプーンから垂れ下がっているさまはどことなくおぞましいものがあった。

 数秒そのまま見つめ、やがて腹に入れば皆同じ、と覚悟を決めて勢いよく口の中へ放り込んだ。

 熱で味覚が麻痺していたのが不幸中の幸いであった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 夜になって熱が上がった。

 夢うつつを幾度となくさまよい、昔の夢を何度もみた。

 幼い頃は毎年冬になると風邪と喘息を併発して床にいることが多かった。

 加湿器などという近代的なものは古賀家にはなかったので、古ぼけたストーブの上に沸騰したやかんを置いて室内が乾燥することのないようにしていた。

 やかんがシュンシュンと水蒸気を吐き出す室内で、熱に喘いでいるためまんじりともせずに横たわっていた。

 しかし孤独感はなかった。自分の枕の横には巴の顔がいつもあったからだ。

 頬杖をついて、時折思い出したかのように「苦しいか、辛いか?」と問いかけてくる以外はほぼ無言で、足をぶらつかせたり、手持ちぶさたな手で長い髪をいじくったりしていた。

 祖母に『巴さん、お部屋にお戻りなさい。具合が悪いときにそのようにされていては煩わしいだけですよ』とたしなめられても頑として聞き入れなかった。

 それどころか『お祖母さま、壮司は私がいてあげなければ駄目なのです』とよくわからない持論でハキハキと反論した。

 それは自分から言っても同じで『お前は私がいないと駄目だからな』と一点張りだった。

 それはもう意固地なまでの言い張りようだったのだ――……。

 ひやりとした“現実”の感覚を額に感じる。

 重たい目蓋を持ち上げれば、今まで見ていた褐色ががった過去ではなく幾多の色彩を持った『今』が飛び込んでくる。

 もう日は暮れてしまったらしい。室内にはひんやりとした闇が満ちていた。

「起こしたか?」

 あの頃の若干舌足らずな発音は消え失せ、代わりに聡明さが全面に出た声が降ってきた。

 同時に額に乗せられていた冷たい手が離れていく。

 何ともいえない焦燥感にかられ、途上でその細い手首を捕らえた。

 薄闇の中、巴がかすかに驚いた気配が伝わってくる。

「お前、どこに行ってた」

 熱に浮かされて思ったままのことがためらいなく喉を越える。

 昔のことを思い出したからといって、それほどまでに彼女の存在を希求していたかと思うと自分に嫌気が差した。

 正気に戻ったときに猛烈な羞恥に襲われることだろう。

「何だ、私がいなくてそんなに寂しかったのか」

 巴が大人びた笑いを浮かべ、円を描くように頭を撫でてくる。

「この甘えん坊め」

 柔らかなその手つきはまどろみを誘う。

 何もかも投げだしたくなる衝動に駆られるが、自分を叱咤した。

「違ぇよ。家に帰ったんだろ。何の用があんだよ」

 どんなに体調が悪く、前後不覚の状態に陥ってたとしても、ここで否定しておくのは男の意地だ。

「ふん。ここで可愛げのある言葉ひとつも吐けんのか。試験前の貴重な一日かけて取ってきてやったというのに」

 悪態をつきながら、彼女がバックから出したものを枕元に置いた。

「薬。どうせ持ってないんだろう。昔の物だが今回はこれで凌げ」

 枕元のものは薬袋であった。中味はおそらく数年前に主治医によって処方されたものだろう。

「回復したら一度念のため医者に診てもらえ。また再発しないとも限らないのだからな」

 まったく世話のかかる奴だ、とつけ加えて巴は嘆息した。

 この巴がわざわざ、と思うとまだ夢の続きのように思える。

「いい機会だ、しっかり養生しろ。テストはこの際諦めろ」

 声量を落としているせいか巴の声はいつもよりも優しげに響く。

 声音によって空気が滲むように震え、子守歌のように壮司を揺さぶった。

「そういうわけにはいかねぇよ」

 酩酊したように自分の言葉がどこか遠い。せき止めるものが何もなく言葉がするりと出ていってしまう。

「何故?」

「奨学金が貰えなくなると困る」

 気がついたときには従順に問いかけに答えていた。

 熱のせいでたかが外れている。普段だったらこのようなこと口が裂けても言わなかった。

 巴も壮司が奨学生なのを失念していたようだ。「ああ、そうか」とこぼした。

 立志院主催の奨学金制度は学業またはスポーツである程度の成果が求められる。

 壮司の今の成績では学費の一部免除がいいところだ。

 最上級の全額免除には及ぶべくもないが、古賀家によって学費を購われている身にとっては少しでもかける負担を減らしたいのだ。

 通年の成績によって免除額の判断が下されるので、一度試験を欠席するのは大きな痛手だ。

「そんなもの。お祖母さまに払わせればよかろう。あの人がお前をうちの後継者に仕立て上げたんだ。それぐらいはしてしかるべきだろうよ」

 当然の如く言い切って巴はベッドに腰かけた。

 隠そうともしない祖母への嫌悪がそこにある。一旦家に帰ったことでさらに煽りたてられているのかもしれない。

「俺はお前が思うほど寺を継ぐことが嫌だと思ってねぇよ」

 話すことすら億劫なのに、今は思ったことがすぐ口をつく。

 今なら何を問われたとしても高熱のおかげで恥も外聞もなく話すだろう。

 だからこそ負い目が有りすぎて触れるのをためらっていたこの話ができているのだ。

「嘘を言え」

 巴が認めるはずがなかった。

 壮司が“強制的”に跡継ぎにされたというのも、祖母に対する憎しみのよすがになっているからだ。

「嘘じゃねぇよ」

「いや、嘘だ。私はお前のようなむさ苦しい僧侶など断じて認めん」

「……そこかよ」

 将来は寺を継ぐべき、と確固たる決意はあっても、この自分が頭を丸め、袈裟をまとい、経を読むなど確かに実感としてはないのであった。

「巴、俺はついでにばあさまも嫌いじゃねぇよ。そんなに自分の身内を悪く言うもんじゃない」

 こちらに背を向けて座っている彼女の背が揺れた。

「ははっ。上手く懐柔されたが、壮司よ。忘れるな、お祖母さまは女郎蜘蛛だ。幾重にも糸を巡らせてお前を家に縛りつけておくつもりさ」

 首だけで振り返ったその顔の表情までは暗くてよくわからなかったが、ひどく歪んだ笑みを浮かべているであろうことが容易に想像できた。

 巴はとても聞く耳を持たなかったが、壮司は祖母との関係の根底にあるギブアンドテイク精神がかえって気楽だった。

 満足に育て上げる代わりに家を継げ――非情なまでに徹底していてむしろ清々しいほどだ。

 一方的に施しを受け、何の見返りも求められないよりよっぽどいい。

 求められるだけ自己の存在意義を確立できるのだから。

 その自己満足に許婚という形で巴を巻き込んでしまったのは後悔してもしきれないが。

「なぁ、巴……」

 許婚が嫌なら、と言いかけて止めた。

 こんな重大な話、発熱で自分の言葉に責任の持てない今すべきではない。

 それにそれだけの重い話をする気力もない。

「……壮司、手を離せ。そろそろ行かねばならん」

 廊下からざわめきが聞こえてきた。

 夕食を終えて食堂から部屋へ帰る者だろう。

 ということは保健医も帰ってくるということだ。

 異性禁制の隔離部屋に巴がいるというこの状況が発覚したら単なる停学どころでは済まないかもしれない。

 もっとも彼女がそんな手抜かりを犯すとは思えないが。

「悪い」

 言われて初めてずっと手首を握っていたことに気づく。

 抑制が効いていないせいで思いのほか強く握り締めていた。

 彼女の手首を解放して、よりどころを失った腕は力なく布団の上に落ちる。もう一度持ち上げて布団の中へ戻す余力などどこにも残っていない。

「ちゃんとしまわんか」

 巴が無造作に投げ出された腕を取り、几帳面にしまってくれる。

 ついでに布団をぎゅうぎゅうと体の下に入れ込み、どこにも隙間が生じないようにもした。

温かさも増したが、息苦しさも増した。

 そんなことには気づかずに、よし、と巴が満足げに頷く。

「じゃあな、壮司」

 もう『壮司には私がいなくては』などとは言わない。

 そのままドアを開け保健室の人工的な明かりの中へ消えていった。

 隙間から漏れ出る細い光のみを残して冷たい闇が戻ってくる。

 宵闇の中、熱い息を繰り返していると小さい巴の残像が目の裏に現れて消えた。

 昔から彼女の素直じゃない行動の裏には愛情が見え隠れしている。

 紛れもなく愛されているのだ。

 お互いの間には絆があった。だからこそ相手のことが見捨てられず許婚という関係が壊れもせず今まで持続した。

 その絆の色が家族愛か恋愛かなど壮司にとって大きな問題ではなかった。

 来たるべきときにしかるべき行動を起こし、彼女の望み通りにさせてやることが壮司なりの愛情の示し方だ。

 もし彼女がそれでも自分と結婚することを望んでくれたのならば、巴と――いづれ子供も加えた新しい家族の形でずっと過ごしていくのも悪くはないと思っている。

 許婚が夫婦となろうともきっと上手くやっていけるはずだ。

 上手くいかない理由などどこにもないのだから。

 無意識にそういいきかせると視界が暗転し、泥のような眠りに就いたのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 日曜日はそのまま終日死んだように眠り続け、月曜日の早朝に咳と隈をすっかり駆逐して隔離部屋から“退院”した。

 自室に戻るやいなや手早くシャワーを浴び、制服に袖を通す。

 次いでこの三日間に溜め込んだ洗濯物と英語の教科書を片手に洗濯室へ向かう。

 洗剤と洗濯物を大雑把に突っ込んで回すと、その傍らで教科書を熟読した。

 今日から試験が開始される。

 追い込むはずだった週末を棒に振ってしまったため、詰めが甘く心許ない。

 試験を受けられないという最悪の事態は回避できたものの厳しいのは依然として変わりない。

 争うべき残り十九名のクラスメイトは生半可な勉強で太刀打ちできるほど甘くはないのだった。

「……壮司?」

 その声に集中が破られ、はっと顔を上げた。

 洗濯機の稼働音に加えて黙読に没頭していたので入口の気配に気がつかなかった。

「巴……」

 まだ六時過ぎだというのに彼女は寸分の乱れもなく制服を着こなしている。漆黒の制服には一点の汚れもない。

「どうしたんだよ。こんな早い時間に、お前が」

 年がら年中睡眠不足の壮司とは違って、テスト前であろうとなかろうと睡眠はきっちり取る巴だ。

 普段ならまだベッドにいる時間帯だ。

「いや、洗濯機の音が聞こえたからまた桐原が何か起こしたのかと思ってな」

「あぁ……そうか」

 この階では何か異変があると真っ先に芙美花が思い浮かべられる。そしてその仮説はあながち外れていないのだ。

 もっとも今回は違ったが。

「お前、具合はもういいのか?」

 ヒールの高いローファーの靴音を鳴らし、巴がこちらへ移動してくる。

 淡い朝の光を受け、輪郭が金色に染まっていた。

 恐ろしく神秘的でどこか現実離れした光景だ。

「すっかりな」

 彼女からさりげなく視線を外す。双眸を向け続けることが罪悪のように感じたのだ。

 当の巴は「ふぅん」と答えて凝視してきたかと思うと、おもむろに壮司の方へ手を伸ばす。

「うおっ」

 視界がガクンと下がる。

 学生服の襟元を引っ掴まれて渾身の力で下に引っ張られ喉元が締まる。

 いきなりの横行に文句を言おうと口を開いたときにはお互いの額が触れ合っていた。

 彼女のぬるい体温が額から流れ込んでくる。

「顔色はまだ良くないが熱はないようだな」

 彼女の小造りな顔がすぐ側にある。

 互いの吐息まで感じる距離だ。

 胸ぐらを引っ掴まれて散々迷惑をかけたことを罵られることはあっても、いまだに心配して貰えるとは思ってもみなかった。

「巴」

 顔をより傾けて少しだけ彼女に体重をかける。

 手持ちぶさたな両手で巴を腕の中に抱え込むように組んだ。

「何だ、甘えん坊の再来か?」

 加わった重みを敏感に感じ取って巴がくくっと笑う。

 触れ合った額から感じるその振動が心地よい。

「……巴」

「なに?」

 いかにも余裕という彼女と違って自分はこの体勢が気恥ずかしい。

 それでも面と向かって言うよりは幾分かはマシだ。

 恥ずかしさに悶えようとも言わねばいけないことがある。これだけ迷惑をかけたのだから。

「……心配をかけてすまなかった……色々と、その、ありがとうな」

 らしくねぇ、と心中で悪態をつく。

 いつも礼など短く済ませてしまって、ありがとうとちゃんと言ったことなぞなかった。

 壮司にとって“ありがとう”ほど重く使いづらい言葉などないのだった。

「礼には及ばんぞ。私の中ではお前に昼飯を奢って貰うことになってるからな」

「きっちり礼に及んでるじゃねぇか」

 一筋縄でいかないのが巴が巴たる由縁だ。まともに礼を言ったのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

「……その後で全快祝いとして源氏物語の解釈を教えてやる。ありがたく思え」

「へぇへぇ、巴さま」

 どうしてこう額を突き合わせたままこのような会話に及んでるのか。

 急におかしさが込み上げたまらず吹き出す。

 巴も同時に相好を崩した。

 朝日を受けながら声を出して笑った。

 東の空には今日最初の青空が広がり、気持ちのよい秋晴れの一日になりそうだった。

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