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かざす花  作者: ななえ
第3章
11/68

第1幕

 記録会が終了し、せわしかった九月が過ぎて十月になった。

 明るいグレーのセーラー服から漆黒のものへと衣替えをする。男子もワイシャツにスラックスという気軽な格好から紺の学生服へ様変わりだ。

 セーラー服が紺ではなくて黒。学生服が黒ではなくて紺。そして銀ボタンなのが唯一の私立っぽさを主張する普通科に比べ、特別棟に行き交う生徒たちの制服は『私立』であった。

 スポーツクラス、家政科、芸術科、英語科からなる四つの特別クラスは普通科とは制服が異なる。グレーのスラックス・スカートにエンブレムつきの紺ブレザー。クラスごとに色が異なるタイを結ぶ。

 デザイナーに依託したというこの制服は随所が凝っていて、近隣では有名なほどだった。

 しかし、どんなに心踊る意匠でも立志院中黒い上着を羽織ればそれだけで校内中が暗い。

 それに校内が沈んでるのは重苦しい冬服のせいだけではなかった。

 生徒にとって敬遠したいテスト週間だからだ。

 進学校と言って差し障りない立志院では最低でも月に一度はテストや模試がある。二回ある月もザラだ。

 特進クラスにとっては平均点を割ろうものなら補習の上、次学年では自動的にクラス降格という厳しい処置が待っている。特進クラスに在籍する以上、平均越えは最低条件であり、ただの一度も失敗は許されないのだ。

 あまりに容赦なく苛烈な方針に反発し、打ちのめされてこの学院を去っていく者すら少なくない。

 だが巴にとっては学校側の都合も関係なく、いつも通りの勉強をするまでだと思っていた。テストだからといって特異な勉強を課すのではなく、毎日同じように勉強することが肝要なのだ。

 しかし、その信条も今回だけは崩す。

 他の教科は問題ではない。が、英語だけが壮司に勝てないのだ。

 しかも巴の英語の教科順位が二位のときは彼は一位。三位のときは二位と目の上のたんこぶよろしくくっついているのだ。

 負けっぱなしとは看過できない。今度こそは彼を陥落させようと英語のテスト範囲を網羅していた。

 勉強は一番集中できる部屋でやるというスタイルを取っているが、談話室のキャビネットに何代か前の先輩が置いていった英語の参考書があったのを思い出した。

 古いものだがかなり深いとこまで掘り下げた説明が載っている一冊だ。

 急に使用したくなって勉強用具を持って自室を後にする。

 談話室のものは原則持ち出し禁止なのだ。

 さすがにテスト期間中だけあって談話室でテレビを見ているような呑気者はいなかった。

 それどころか寮中静かだ。

 おかげで階下から漏れ出る音も、邪魔者も入らずに談話室で勉強できた。

 水を打ったように静かだった世界が破られたのは二十二時過ぎ、談話室で勉強し始めてから一時間後のことだった。

 まるで誰も住んでないような静寂さの中、ドアが開く音と、次いで重い足音がこちらへ向かって来る。

 その足音だけでもテスト勉強に精根絞り取られているのがわかるようだ。

「随分とお疲れだな」

 人影が談話室に入って来るのを見計らって言葉を投げた。

 淀んだ空気をまとい、Tシャツにジャージというラフな格好の壮司が現れた。

 こうも疲れ果てた足音は彼しかいないと姿を見る前から確信してたのだ。

 目の下の隈が濃く、一層沈鬱な色を差している。

「……ああ、巴か」

 答える声も覇気がなく、こちらに向ける瞳も充血している。

 テスト前の特進クラス生の典型的な姿と言えた。

「ひどい顔がさらに台なしになっているぞ。昨日も完徹か?」

 テスト週間になり、部活か休止して四日目。日に日に壮司はやつれていった。

 彼のような部活動加入者はまとまった時間が取れるこの一週間が踏ん張りどころなのだ。

「寝れねぇよ。古典ヤバイいからな」

 ゴツゴツとした手が自販機のボタンを押す。ややあって出てきたのは栄養ドリンクだった。

 それをオヤジくさい動作で一息に飲み干す。

 どうやらかなり切羽詰まっているらしい。

 英語を猛勉強してみても巴には危機感だの切迫感などにはあまり縁がないのだった。

 それなのに毎回毎回こんな余裕のない奴に英語が引けを取っているのは悔しいやら情けないやら何とも複雑だ。

「教えてやろうか、古典」

 深く考えずに気がついたらその言葉を放っていた。

 英語は教える教えられるというレベルではないが、古典には成績に開きがある。

 彼の古典だけは二組並みであり、英語でその穴をカバーしているのであった。

「いや、お前だって自分の勉強あんだろ?英語とか」

 悪気はなかったのだろうが、何気なくつけ加えられた言葉に意地でも古典を教えたくなった。

 プライドに火が点いた。

「敵に塩を送るのも悪くないと思ってな」

 挑戦的な笑みで舐めるように壮司を見上げる。

「敵って……英語だけだろうよ」

 壮司は呆れた顔で頭をかいた。

 巴にとっては英語“だけ”ではない。壮司が立ちふさがっているので何度完全首位達成を邪魔されたことか。

 巴は子供じみた敵対心を抱いていた。

「いいから始めるぞ。一組でいたいだろう?」

 一方的な巴のわがままに辟易した顔をしつつも壮司は割合素直に正面に座った。

 一組から転落しないためにはただ平均点越えをすればいいわけではない。

 英語がどんなによくとも、一組に見合わない古典の点数を何度も取れば二組の新鋭に取って代わられてしまう。

 一組の椅子はそれだけ重いのだ。

 そして壮司もそれを重々理解していて致命的な古典をどうにかしたいと思っているのがわかるのだった。

「教科書持ってこい」

 有無を言わさず命じると「わかったわかった」と投げやりな返事をして間もなく自室から古典の教科書を持参して壮司が戻ってきた。

 こうして従順に言うことをきくあたり彼は巴に甘い。

 同時に自分も壮司を放っておけないのだ。

 見るのもうんざりという顔で壮司が無造作に教科書を机に放った。

 ぞんざいに扱われたそれを手に取りパラパラとめくってみる。

「テスト範囲は?」

 教科書は文理共通だが、授業数が異なるために当然進度に差が出るのだ。

「源氏物語」

 題を口に出すのさえ嫌そうな口ぶりである。だいぶ煮詰まっている。

 幸いなことに理系でも履修済みだったので、記憶を頼りにそのページを開いた。

 物語文学の最高峰と称えられる源氏物語はその難しさでも他の教材の群を抜いている。

 持って回した言い方が多く、単語も難解だ。古典では多い主語が明記していないという傾向も顕著である。

 大雑把に読み返し、脳内で重要事項を問題にした。

「『いみじき御気色なるものから』ものからの用法は?」

「あー……逆椄の確定条件。〜けれども」

 際どい問題を出したのにも関わらず当たっている。

 しかし力量を見定めるにはまだ少ない。

「『だばかる』意味は?」

「策を巡らす、か?」

「正解。『いといとほしう見たてまつりながら、』主語を明らかにして訳せ」

「源氏はたいそう気の毒に見申し上げるけれど、」

「正解。何だ、わかっているじゃないか」

 文法も単語も文意もここまで理解しているのにどうして平均ギリギリの点数しか取れないのか。

 前回のテストは源氏の冒頭部分であったが、思わしい結果ではなかったと聞いている。

「じゃあ趣向を変えるか……『うつつとはおぼえぬぞわびしきや』誰のどのような気持ちを述べているか」

 淀みなく答えていた壮司の顔が初めて曇る。

 そこで巴は合点がいった。

 源氏物語はめくるめく恋を叙情したものだ。

 この甘やかな感情とは無関係な壮司に恋の駆け引き、男女の睦みを理解できるはずがない。

 聞いたほうが馬鹿だった、と盛大にため息をこぼして、説明すべくこの場面の背景をざっと思い出す。

「いいか壮司。光源氏は――」

 解説しようとしたところで突如壮司が咳き込み始めた。

「ゲホッゲホッ、ゴホッ!!」

 次第に激しくなっていくそれに見過ごせなくなってくる。

「おい、大丈夫か?」

 どう見ても大丈夫じゃない状態だ。手を伸ばして広い背をさする。

「ゲホッ……ゲホッ……悪い」

 切れ切れに詫びた彼は本当に苦しそうで、どうやらただむせただけではなさそうだ。

「風邪か?そんな薄着してるから」

 やっと収まりがついてきた背中にかぶせて言った。

 原因は薄着だけではあるまい。普段の不摂生もたたったのだろう。

「今夜はもう寝たらどうだ」

 自業自得と言えばそれまでだが、だからといって放ってもおけない。

「いや、大丈夫だ。たいしたことねぇから」

 酸素不足の肺を空気で満たすように彼が大きく息を吸う。

 喉の奥で何かが引っかかっているような奇妙な呼吸音だ。

 ――この音……。

 記憶に引っかかるものがある。霞みがかった昔の記憶だ。

 巴が言及しようとした瞬間、地の底から響くようなな奇怪な声が遠くからかすかに聞こえてきた。

「……何?」

 巴の呟きに呼応するように壮司も訝しげに音のする方へ顔を向ける。

「うなり声みてぇだな」

 いよいよオカルト色を強めてきたそれに二人で顔を見合わせた。

 テスト勉強の現実逃避にホラーを期待するわけではないが、穏やかならぬ声の元を突き止めるべく二人で探り歩く。

 談話室を出て、各自の個室が並ぶ廊下を慎重に歩いた。

「ここか……」

 前を行く壮司がある部屋の前で停止する。うなり声は確かにここから聞こえてきた。

 その部屋は巴の部屋の右隣で壮司の左隣に位置し、インターフォンの上、明朝体の表札は『桐原 芙美花』

 クイーン・オブ・トラブルメーカーの異名を持つ彼女だ。しかも今は肩に怪我もしている。

 もしかしたら怪我が急変してうめいているのかもしれない。

 そうならばますます放置できない事態だ。

 頭上で空気が動き、インターフォンが間の抜けた音を鳴らす。

 壮司にも巴と同じような危惧が頭によぎったらしく、ためらいなくインターフォンを押したのだ。

「……」

 固唾を飲んでドアを見守るが反応はない。

 嫌な予感はさらに強まる。うなり声も依然として聞こえてくる。

「桐原?」

 声をかけ、ドアを軽く叩くと鍵がかかっていなかったのかドアが少し開いた。

「桐原、入るぞ」

 わざわざ声に出したのは芙美花に一応の確認を取るためだが、壮司に知らせる意図もあった。

 記録会の日、芙美花の部屋を訪ねたとして健一郎が戒告処分を受けたのだ。

 彼らの場合、扉の前で抱き合ってたのがバッチリ廊下の監視カメラに映り込んでいたためにやむを得ずの罰則だが、念には念を入れた方がいい。

 壮司も巴の思惑を理解し、室内が見えないところまで下がった。

 視界の端でそれを確認してから中へ踏み込む。

「うぅ〜イヤぁ。数学イヤ〜ヤバイぃ」

 巴のどの予想をも見事に裏切る光景が飛び込んできた。

 そこには数学の教科書に頬を乗せ、机につっぷして悪夢にうなされる芙美花がいたのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「ご迷惑をおかけしました」

 所は再び談話室。悪夢から目を覚ました芙美花が深々と頭を下げてきた。

「……いや、何事もなくて何よりだ」

 心からそうは思っているものの、疲れを隠せずに壮司が答えた。

 自分と壮司、二人してうなり声に踊らされてしまった。

「何をそんなにうなされていたんだ」

 壮司ほどではないが、やはりこちらも徒労感を感じていた。しかし極力表には出さないように芙美花に尋ねる。

 それでもこちら側に如実に漂う倦怠感を感じ取ってか彼女はうなだれていた。

「……数学が今回のテストでいい点をとらないと評定が一になっちゃいそうで……」

「「いち……」」

 壮司と同時に呟いて絶句した。

 彼も自分も特進クラス生なのでクラス降格は間近にあっても落第は縁遠いのだった。

「だが評定といっても二学期はまだ三ヶ月もあるだろ」

 首裏に手を当てながら壮司がもっともな指摘をした。どうやら凝っているらしく、左右に振ってパキパキと音を鳴らしている。

 壮司の意見には巴も同意だった。テストだって九月始めの一回しかしていない。それだけで判断するのは時期尚早と思えた。

「それが……」

 沈痛な面持ちで話し始めたその内容は彼女の体質が余すところなく発揮されていた。

 四月のテストはマークミスで判定不能。五月のテストでは解答欄がひとつずつズレていて三点。六月のテストは食中毒にやられて出席停止。七月に定期テストはなく、先の九月はテスト範囲をまるっきり勘違いしていたらしい。夏休み後だったので変則的なテスト範囲だったのだ。

 食中毒は別としても他は注意力散漫が主な原因だが、ここまで連なると同情する以上に笑ってしまう。巧妙に仕組まれたギャグのようだ。

 壮司は額に手を当てて俯き、巴は口元を押さえて地味に込み上げる笑いを懸命にこらえていた。

「……いいよ、笑いたいなら笑って。自分でも救いようがないと思うもの」

 悲壮感と惨めさを混ぜた瞳でじとりと見つめてくる。

 そう言われると余計に笑えない。巴は一呼吸の後、笑いを収めた。

「普段だったら身から出た錆、死に物狂いでやれと言うところだがな……」

 巴は未だ吊られている芙美花の右手を一瞥した。

 恒常的に隣室から漏れ聞こえる単語の暗唱、英文の音読から彼女が普段からキチンと勉強しているのは知っている。

 しかし今回はどんなに勉強しても利き腕が不自由なのだ。テスト当日は固定器具を外して臨むと言っていたが、それでもハンデはあるはずだ。

 まったくどこまで運がなければ気が済むのか。

「ううん、大丈夫。何とかするよ。私が悪いんだし」

 場の空気が重くなったのをいち早く察知して芙美花が一気に畳みかけた。

 自らの怪我の存在を感じさせることは暗に壮司を責めることに繋がると思ったのだろう。

「ごめんね、勉強の邪魔して。話聞いてくれてありがとう」

 連日の睡眠不足で腫れぼったくなった目を細めて笑みを向けられる。

 そして芙美花は長居は無用とばかりに踵を返した。

 去り行く黄色いチェックのパジャマの背を「桐原」と壮司が呼びとめた。

「わかんねぇとこあったら言えよ。できるとこなら教えてやる」

「あ、いや、桐原さえ嫌じゃなかったらだが……」と壮司は歯切れ悪くつけ加えた。

 ええい、このヘタレが!最後まできっちり決めんか!!と叫びそうになるのを抑え、巴は代わりに息を吐き出した。

 相変わらず律儀な男だ。怪我をさせてしまった詫びのつもりなのだろう。

 今の時期、自分だけでも精一杯だろうに。

 昔から面倒事をわざわざ背負いこんでは自分自身を追い込む奴だった。

「いいよ!!そこまで迷惑かけられないよ!」

 予想通り芙美花は固辞した。このように壮司に余分に気を遣わせるのを厭うて足早にこの場から立ち去ろうとしたのだから。

 壮司とすっかり恐れ入る芙美花に意地の悪い興味を覚えつつ、第三者として口添えした。

「教えてもらったらどうだ。こんな奴だが人に教えるのはまぁ悪くないぞ」

「こんな奴とは何だ。こんな奴とは」

 いつもながら絶妙なタイミングで壮司の合いの手が入る。

 芙美花はここで断るのもかえって悪いと思ったのだろう。「じゃあ一問だけ教えてくれる?」とおずおず数学の教科書を壮司に差し出した。

「どこだ?」と壮司が教科書を受け取る。

 頭をつつき合わせながらシグマ云々と話し始める二人を尻目に立ち上がった。

「さて、私はこの隙に英語を勉強させてもらおうか」

 ひとりごちて自室へ戻ろうとすると、壮司が恨みがましい目を向けてくる。

「お前、それが目的でいやがったな」

 怒ったような呆れたような――どちらにしても本気ではない彼の声に顔だけで振り返ってゆったりと笑う。

「さぁ?ただ私は“自分の勉強”があるだけだ」

 自分の放った言葉が思わぬ形で跳ね返ってきて、壮司は虚を衝かれた表情をした。

 その様子がおかしくて意図的に性悪な笑みをさらに強めて、今度は振り返らずに歩みを再開する。

 またしても安易に言い負かされたことに壮司が顔をしかめる気配がしたが、そんなことは知ったことではない。

 こんな幼稚なことをしたが心底彼に先んじたいわけではなかった。

 彼と対等に競えるこの絶好の機会をただ楽しんでいるだけなのだ。

 負けず嫌いなこの性格故か常に彼と対等でいたいと望んでいた。

 ――本当に子供か、私は。

 昔から競争心を剥き出しにして張り合ってるときだけは自分たちを取り巻くものを忘れられた。

 ライバルという純粋な関係が楽だった。

 自嘲して、自室のドアを開ける。身を滑らせて閉める直前に壮司の低い声が耳をかすめた。

 このときの自分は驚くほど壮司と芙美花を二人きりにさせることについて露も案じてはいなかった。そんなこと考えることすらなかった。

 椎名 留奈とは違い芙美花には女特有の狡猾さというのを微塵も感じない。ある意味性別を超越した存在だった。

 敵と味方。綺麗に分裂した己の中で彼女は紛れもなく白だったのだ。

 壮司も教えるうちに熱を帯びてきて、芙美花もそれに無我夢中で応えたのだろう。

 二人の声は結局消灯時間まで途絶えることはなかった。

 彼らの声が止んでやっと何となく遠ざけていた英語の教科書を開いたのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「ゲホッゲホッ!ゴホッ!!」

 咳の振動で箸に挟まれていたたくあんがぽろりと落ちた。

 あ、と思ったが、咳をすることに全エネルギーをしいられているのでどうしようもできない。

 トレーに落ちたたくあんを放置したまま、ただただ咳込む。

「ほら、とにかく水を飲め」

 向かいに座っている巴が水の並々注がれたコップを差し出してくる。

 受け取ろうと手を伸ばしても咳の振動で絶えず焦点がぶれる。簡単な動作すらままならない。

 やっとのことでコップを掴み、咳の間に一気に飲み干した。

 傷んだ喉にそれは心地よく染み込み、熱された胸がたちまち冷えていく。

 荒い息遣いを飲み込み、大きく深呼吸して息を整えた。

「鬼の撹乱だな」

 鮭の切り身をいつもながら見事な箸使いで口に運びながら涼しい顔の巴が言った。今朝の朝食は和食だ。

「まったくだ」

 咳の第二波が来ないうちに食を進めようとするがどうも食欲がない。

 頑健さには自信があったのだが、行事が終わり部活が試験休みになった途端この体たらくだ。

 気が緩んだにしてもよりによってこの重要な時期に、と悪態をつきたくなる。

「なぁ壮司。鼻は出るか?」

 どうも食べる気のしないほうれん草のおひたしを箸でつついていると、何の脈絡もなく問いかけられた。

「いや、ない」

「喉は?」

「いがらっぽいがそう痛くはねぇな」

 何なのか、この医師の問診のような応酬は。

 怪訝に思って油断していたせいかまた咳が込み上げてきた。

 口に拳を当ててやり過ごそうとするが激しくなっていく一方だ。

 くの字に体を折って咳込む自分を彼女は取り乱すでも心配するでもなくただ凝視していた。

 赤い唇に指を当てて平然と見てくるそれは観察そのものである。

「……お前、喘息なのではないか?」

 やっと激しい咳から解放されるやいなや巴に思いもよらぬことを言われた。

「あぁ?喘息?」

 大仰に驚いてみたものの、まったく有り得ないとは断言できない。

 中学に上がってからはとんとご無沙汰だったが、昔は重度の喘息持ちだったのだ。

 小一のときには入院したほどで、それがきっかけで喘息にいいとされる剣道を習い始めたのだった。

 それが功を奏してか年を経るごとに病魔は薄れていき、今では見る影もなかったのだが。

「昨晩、お前の呼吸から喘鳴音が聞こえた。自身でも思い当たる節があるだろう」

 そう言われてみれば、この痰の絡んだ咳は喘息特有のものにも思える。

 ここ最近急に肌寒くなってきて喘息をおこしやすい時期でもあった。

「……どっちにしろたいしたことはねぇよ」

 考えるのが面倒になってきて投げやりに吐き捨てた。やけに頭の回転が鈍い。昨夜もロクに寝てなければ無理からぬことかもしれない。

「後で泣くハメになっても知らんぞ。救急車で運ばれでもしたらいい笑い者だ」

「こんな山奥に救急車は来ないだろ」

 軽く咳き込みながら切り返すと「もっともだ」と巴が薄く笑った。

 白米をかき込み、水で流し込んで無理やり嚥下した。

 このようにぞんざい押し込むのは壮司の好むところではなかったが、残すよりはマシだ。

 その要領で残りを胃袋へ収めたときには八時の鐘が鳴ったのだった。

 朝食を終え自室へ帰る途中、巴が一日ぐらい休めばどうだ、と提案してきた。

 ただし、そのデカイ図体が一日いなくなると皆清々するだろうよ、と嫌味ったらしいお言葉つきだ。

 まとわりつく咳はうざったいがこれしきのことという思いもあり、中等部の頃から無遅刻無欠席を貫いてきた。ここで途絶させるのも癪だというのも助け、大したことないと押し切った。

 後にその判断が馬鹿正直に体育を受けた挙句、サッカーボールを顔面でキャッチして失神するという悲惨な顛末を招くとは知る由もなかったのだった。

  

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「この愚か者が」

 昼休み、保健室のベッドに横たわる自分を見る巴のまなざしはこの上なく冷たかった。

「……」

 反論の余地もない。それみたことかと思っているだろう。

 その零下の視線から逃れるようにだるい体で寝返りを打った。

 昼下がりの保健室は穏やかそのものだったが、このベッド一帯だけはシベリアより寒い。

「倒れるにしてももう少しまともな倒れ方をせんか。馬鹿が」

 次から次へと容赦なく出てくる言葉には一片の労りも感じられない。

 彼女の勧めも無視し、倒れた経緯が経緯だけに呆れ果てているのだろう。

 男女の比率上、体育は一・A組合同だ。かのみっともない場面もバッチリ目撃されている。

「確かにざまぁねぇ倒れ方、ぐふっ!!」

 あまりにひどい言い草に耐えかねて、上体を起こしかけたところ、不意に巴が手に提げていたものを壮司の腹の上へ放り投げた。

 たいそうな重さのあるそれはまともにみぞおちに入り、体調の悪さも相まってか吐き気が込み上げてきた。

「お前!何しやがる!!」

 いつもはたいていの仕打ちは文句を言いつつも許容してきた壮司だが、さすがにいきりたった。

 熱くなったのが原因で再び咳き込むが、それすら彼女は不機嫌そうな顔で見ているだけだった。

「それ、お前のクラスの奴に持っていてくれと頼まれた」

 咳が収まったのを見計らって巴が腹の上のものを指差した。

 そこで初めて投げつけられたのがいつも使っている通学用のエナメルバックだと知ったのだった。

「クラスの奴?」

 反復して、いつもつるんでいる何人かの友人を思い浮かべた。早退のため帰り仕度を整えてくれたのだろう。

 ありがたいが何故それを巴に預けたのか。そこだけは文句を言いたくなる。

「わかった。手間かけさせ――」

 用件が済んだ以上、巴を早々と追い出そうとした瞬間、自身にしかわからないくらいの振動で携帯が着信を伝えた。

 背面がチカチカと点滅するそれを胸ポケットから取り出して開く。

 着信メールは先程思い浮かべた友人の一人からだった。

 帰り仕度を巴に預けたという趣旨の文面の後に『こういうときぐらい甘えさせてもらえよ』と文末にハートマークつきで記してある。

 お望みなら代わってやるよ、と心中でぼやいた。甘えるどころかブリザードが吹き荒れているとはよもや彼も思ってもいないだろう。

 惰性でスクロールしているとまだ文章が続いていた。数行の空白の下にはとってつけられたように『古賀さん心配してたぞ〜』の一行。

 次行の『お前、愛されてんのな』とまたハートマークつきの文に軽い殺意を覚えて携帯を荒々しく閉じた。

「巴、何でお前そんなに機嫌が悪ぃんだよ」

 メールの一行から理由のあらかたの輪郭をすでに壮司は察していた。

 この質問は次の言葉を導く、いわばプロセスに過ぎないのだ。

「別に悪くない。お前の目は節穴か。教室に戻る」

 取りつく島もなく、巴は本当に身をひるがえして出口へ足を向ける。

 このまま出ていかれてはたまらないと彼女の都合はお構いなしに言葉を継ぐ。

「俺がお前の言葉に従わずにぶっ倒れたから怒ってんのか?」

 ドアを直前にして巴の足がピタリと止まった。

「……」

 足も止まったが、口も止まった。華奢な背を向けたままうんともすんとも言わない。

「それともみっともねぇ倒れ方したからか?」

「……」

「何とか言えよ。知らないうちに何かしたか?」

「……違う」

「はっ?」

「……お前に対してではない。自分に苛立っているんだ」

 扉の取っ手に手をかけたまま巴が呟いた。らしからぬしおらしい物言いだ。

 自分自身の八つ当たりめいた態度にも思うところがあったのかもしれない。

 しかし次に出てきた言葉は壮司の予想だにしないものだった。

「……お前の一挙一動にいちいち動揺する自分が嫌だ」

 思考が止まる。

 心配したから、ぐらいの言葉は期待してたが、これはそれ以上だ。

「それ、は」

 どういう意味だ、と続ける前に扉がピシャリと閉められた。

 ひとり残されたベッドの上で予想以上に心配をかけたことを認めざるえなかった。

 うぬぼれかもしれないが、あの理不尽なまでの不機嫌さは壮司の体調を気にして神経をすり減らすことに疲れ果ててではないのか。

 あの傍若無人が取り乱したり、壮司を案じたりしていたのだ。

 だとしたら――。

 “お前、愛されてんのな”

 ふとメールのフレーズが浮かんだ。

 わかりにくいが、どうやらそうらしい、と壮司は脳内でメールの返事をしたのだった。

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