第5幕
気象庁予報の降水確率九十パーセントを見事に裏切り、金曜日の空は台風一過の晴天だった。
気温は九月上旬並みで雲ひとつない秋晴れだ。絶好のスポーツ日和であった。
生徒会は早朝からテント張りやらトラック整備やらに駆り出されて大わらわだった。
やる気満々のスポーツクラス、なごやかな家政科、平凡な普通科、我が道を行く芸術科、無関心の英語科、最後にだるそうな特進クラス生が校舎から続々と出てくる。
ぽつぽつとグランドに集まってくる彼らをよそに本部テントの中の壮司は開会式でのあいさつの原稿をひたすら黙読していた。
これから生徒会長あいさつという名目の下、それこそ腐るほど人前で話すことになるだろうが、物事には何でも始まりというものがある。
任命あいさつは存在しなかったので、今日のこのあいさつが不動生徒会長初あいさつとなるのだった。
「ふふっ。柄にもなく緊張しているのか。大きな体をして滑稽だな」
予告もなく巴が座る壮司の肩に肘をついてくる。ささやかな重さが肩に加わった。
そして無類の美貌が自分の顔のすぐ横にある。
「人前で話をしたことなんざねぇからな」
あくまで原稿に目を落としたままで応じる。
綺麗な顔に気を許そうものならことごとく彼女の舌鋒にやられるからだ。
一流の芸術家がその高い美意識をこれでもかと詰め込んだ絵画のようなその姿。至近距離で相対しようものなら戦意喪失は免れない。
今まで何度そのパターンでやられてきたことか。
今日はこの後大仕事を控えているのだ。同じ轍を踏んでテンションを下げるのは御免被りたい。
「暗記系は得意じゃないか。特進クラスの生徒会長殿?」
真性サディストの彼女が話すたび頭頂近くでくくられた髪が揺れて壮司の肩に触れる。甘く、それでいて癖のない香りが鼻をくすぐった。
「嫌味か。学年首席が」
負けじと言を返すが、「誉め言葉として受け取っておこう」と巴はとらえどころなくせせら笑うだけだった。
「どうせお前らしい堅苦しくてつまらないあいさつなのだろう?だったら少しぐらい忘れて短くなったところで誰も惜しまないだろうよ」
だから少しぐらい失敗しても大丈夫――彼女の随分と迂遠した言葉を直訳するときっとこうであろう。要は落ち着いてやれと言いたいのだ。
「素直じゃねぇな」
小さな頃から全く成長してない感情表現の下手さに笑ってしまう。
口の中だけで呟いたつもりだったがどうやら聞こえたようだ。「お前にやる素直さなどないわ」と図星を突かれたことで巴はおかんむりだ。
ふいと巴が顔をそっぽへ向ける。その拍子にポニーテールの毛先が壮司の頬を打った。
「いてっ」
大して痛いわけではなかったが、反射的に口をついていた。
彼女も意図してやったわけではなかろうが、偶然の反撃成功に“してやったり”と微笑んだ。
「おまっ、本当にかわいくねぇな!」
思わず顔をそちら向けつつ言葉を投げつける。壮司の声を間近で喰らう寸前にするりと肩から巴の体が離れる。残り香だけが依然としてそこにあった。
「ふん。可愛げなど無用の長物よ」
すでに背を向けて歩きだしている巴はまったく壮司の言葉など歯牙にもかけない。
かなりの確率でその顔にはいつもの大胆不敵な笑みが彩りを添えているのだろう。
そうして壮司はまんまと“してやられた”のだった。
しかし、緊張はどこかへ行ってしまっていた。
―◆―◆―◆―◆―
校内陸上記録会は五十・百・二百・四百・八百・千五百メートル走、百十または百メートルハードル走に走り幅・高跳び、そして砲丸投げの十種目からなる。
生徒一人一種目の出場が義務づけられており、どんなに忙しくとも生徒会メンバーも同様である。壮司は砲丸投げに出場する予定だ。
開会式は巴とのやりとりが功を奏したのかはわからないが、目立った失敗はせずに済んだ。歴代一位か二位を争うほどの形式張ったあいさつだったと思う。誰に何と言われようと気の利いたユーモアひとつ言えない性分は変えられないのだった。
競技が開始されてからは自分の種目に出つつ、役員として様々なところへ駆けずり回って午前中は終了した。
汗臭い体で本部テントに戻る。
夏に戻ったかのような強い日差しにテントの中の日陰が心地よい。こういうときは生徒会も役得だと思う。
「不動くん、砲丸投げすごかったね」
他の三人より遅めにテントに戻った壮司を芙美花の素直な称賛が迎える。
昨日からそうだが、彼女の率直過ぎる物言いがどうにも落ち着かない。
順当な賛美より不当な貶めのほうがしっくりくるとは自分はマゾかと疑いたくなってしまう。これも巴と接してるうちに身についた産物だろう。
「さすがバカ力だな」
壮司が答える前に、すかさず左斜め前に座る健一郎が茶々を入れてきた。
いちいち癇に触る野郎だ。
「うっせぇよ。俺がバカ力ならお前は頭空っぽだろ。この前古典の点数が十四点だったの知ってんだからな」
壮司はなるべく強烈な嘲笑を浮かべてみた。ちなみにこういう表情の手本は巴である。
剣道は悔しいことに健一郎の方が分がいいが、学力では圧倒的に壮司の方が優位だ。
失点を指摘され、健一郎が明らかに気分を害した顔をする。
しかしそれはすぐに壮司を軽んずるような笑みに変わる。
「いくら勉強ができてもな。この前の合宿で米をハンドソープでといだのは誰だったっけな?」
とんでもない米のとぎ方に芙美花が息を呑む。壮司の生活能力が底辺に近いことを知っている巴は特に驚いた様子はなかった。むしろありえる事だと薄く笑んでいる。
他に類を見ない米をハンドソープで洗うという所業は部内で事あるごとに語られ、そのたびに失笑を買っていた。
言うまでもなく苦い思い出だ。特にからかいの格好のネタにされそうな巴には知られたくなかったのだが。
――それをこいつは!!
我慢ならないと壮司は息まいた。
「お前も男ならそのよく回る口を閉じねぇか!!女みたいにペラペラ話しやがって」
壮司の怒りは沸点に限りなく近かった。元来気は長い方ではない。
「自分のやったことは棚に上げんのかよ!卑怯くせぇ!!」
壮司が気が短いのなら健一郎とてそうだった。
そもそもどちらかに多少なりとも忍耐力があればこんなに頻繁に衝突しない。
「やめないか。見苦しい」
あわや一触即発、手すら出かねない雰囲気を破ったのはこういう場面で何度も世話になっている巴だった。自分本位に見えて意外とそうではないのだ。
ただ単に自分に火の粉が降りかかってくる前に消火しようていう魂胆なのかもしれないが。
邪魔をされて自然と巴に視線を向けるが、男二人の昂ぶりが込められた双眸をも瞬時に凍らすような冷たい視線で非難の意を封じ込められた。
視線ひとつでねじ伏せられ、巴の顔が壮司へ向く。
「壮司。お前もそのよく回る口を閉じろ。先に貢の点数を暴露したのはお前だ」
壮司が声を発する間もなく、巴の黒目が健一郎を捕らえる。
「貢。まずケンカをふっかけるな。先制攻撃はいつもそちらからだ」
異論を挟む余地もない見事な調停ぶりであった。反論もできず二人して小さくなるしかなかった。
やることはやったと巴がマイペースにパンを食し始める。
その横と前で半端に熱くなった感情を持て余しながら壮司と健一郎は無言でパンを頬張り続けた。
漏れ出る気まずさに気を揉んだ芙美花が「まぁお茶でも飲んで気を静めて」とやかんから麦茶を湯飲みに注いでくれる。
毎度毎度巴に介入され、芙美花に宥められているこの構図に自分のしょうもなさを自覚する。が、健一郎を見ると反射的に臨戦体制になってしまいささやかな反省もまったく意味をなさないのだった。
「はい、どうぞ」
「ん、わりぃな」
礼を言い、差し出される紙コップを受け取ろうと手を伸ばす。
しかし、コップが壮司の手に触れる前にビクリと芙美花の腕が硬直して紙コップは落下する。
コンマ一秒後には机の上に麦茶の水溜まりができていた。
その不自然な芙美花の動きにある疑念が沸く。
「桐原、怪我を――」
「ご、ごめんね。濡れてない?」
壮司の台詞を遮り、芙美花が慌てふためく。
「……ああ、大丈夫だ」
確信めいた思いを抱えながらも取りあえず彼女に合わせる。
彼女が自分自身の異常を隠したがってるのは明白で、一旦その意を酌んだのだった。
「桐原、ほら」
巴が布巾を芙美花に手渡す。
「ありがと」
そうして二人で手際よく濡れたテーブルの処理をし始める。
壮司は黙ってその様子を伺っていた。
注視せねばわからぬほどだが、やはり芙美花の肩の動きがぎこちない。
先程紙コップを渡し損ねたのだって十中八九肩が上がらないのだろう。正面にいた壮司には痛みのためか彼女の顔が歪んだのが見えたのだ。
競技でか?それとも――。
真っ先に思い当たるのは昨日の生徒会室での転倒だ。
記憶を辿ると、あのとき芙美花は床と鉢植えとの正面衝突を避けるため、とっさに体を左に捻っていた。
そのため突き出された右肩ですべての衝撃を受けざるえなったのだ。
何故気がつかなかったのだろうか。よくよく見ると彼女は不審なくらい右腕を使っていない。
自分が責任の一端を担っているせいか悶々としながら残りの昼食を食べた。
刻限が近づき、係や予選を通過し勝ち残っている選手たちが動き始める。
生徒会のメンバーも各々持ち場へ向かう。
「桐原」
その中で走り幅跳びのフィールドへ向かう芙美花を呼び止めた。
「な、なぁに?」
振り向いた芙美花は引きつり笑いを浮かべている。
壮司が自分の異変に感づいていることを芙美花もわかっているのだ。
――わかりやす過ぎるだろ。
挙動不審過ぎて返って壮司の疑念を紛れもない確信に変えた。
「怪我してんだろ」
問うているのではない。あくまで確認だ。突き詰めた問いに芙美花の目が泳ぐ。
「昨日のか?」
芙美花に躊躇の色が走った。なるべくならこの追及をかわしたいようだが、そうはさせないオーラをまとっている壮司を認めて、やがて観念したように頷いた。
「……そうか。悪かった」
事故に近かったとはいえ壮司には非がある。詫びずにはいられなかった。
そして、そっちのせいじゃない云々と面倒なことを言われる前に言葉を継いだ。
「保健医に診てもらえよ」
芙美花にのらりくらりとかわされないように作っていた表情と声色の固さを和らげる。
芙美花の動作から鑑みるに患部があまりいい状態でないのがわかる。
「大丈夫だよ。大したことないから。でも暇ができたらそうさせてもらうね」
控えめな微小。笑いが浮かべられるくらいならそう心配ないかもしれない。
壮司は安堵した。
「そうしろ。無理そうだったら誰かに言えよ」
「うん」
下から見上げてくる栗色の髪が目に入る。どうも調子が狂う。
漆黒じゃない髪、鋭利さのない視線、女子らしい口の利き方。絶対に“彼女”が持ちえない円かな気彩。
そのすべてが馴染みない。
慣れない感覚に頭をかいた。
「ありがとう、わざわざ。じゃあ行くね」
「……ああ」
横結びにした波打つ髪が揺れる背を見送りながら、この感情はすべて女子を心配するなどという柄にもないことをしているせいだと結論づけた。
今朝、生徒会室へ行ったら園芸部の植物たちはすでになくなっていた。元気のないマーガレットもこの日差しならば生気を取り戻すだろう。
それなのによれよれのマーガレットと芙美花の姿が何故か重なる。
――くだらねぇ。
根拠のない不安を振り切るように踵を返し砲丸投げのフィールドへ向かう。
あごから伝い落ちる汗を乱暴に拳で拭った。
目蓋の裏ではマーガレットの白がいやに明滅を繰り返していた。
―◆―◆―◆―◆―
閉会式、犬猿の仲二人組はすこぶる険悪だった。
普段とは段違いにどす黒く荒んだ彼らの顔つきに、巴も早々に取り成しを諦めたようだ。
それに彼らはまだ“ケンカ”はしていない。黙り込んで周囲に無駄な威圧感を出しているだけだ。
しかし、いつもの口が出るケンカよりもこちらの方が質が悪いのは容易に理解できた。
「……しょうもない奴らだ」
巴が呆れ果てて口にした。
生徒の整列が済むまで生徒会員は朝礼台の横、本部テントの前で一列に並んでいる。
トップである壮司を筆頭に巴、健一郎、芙美花と並んでいるので巴は気の毒に“しょうもない奴ら”に挟まれているのだった。
芙美花は失笑しながら事の発端を思い出す。
午後のメイン競技、部活動対抗リレーであった。
優勝した部活動は予算に色をつけてもらえるので、運動部はもちろんのこと文化部、同好会までもこぞってこのリレーに出場するのは毎年見られる現象だ。
無論彼ら剣道部も優勝を血眼で狙う一部活動であった。
鍛え抜かれた肉体を持つ猛者たちの中から、さらに走りに優れた一握りの者たちが選ばれ、その精鋭たちは優勝へ邁進しようとしていた。
その中に壮司と健一郎はいた。
トラック二周、計八百メートルを四人で半周ずつ走るこの競技で健一郎は三番手、壮司はアンカーを任されていた。
剣道部中で彼らがいかほどの走力を持っていたかは知らないが、仲の悪い二人を前後に据えた時点でもう失策だったのだ。
案の定サッカー部、バスケ部に次いで剣道部のバトンがアンカーの壮司へ渡ろうとしたときバトンは地面へ落ちた。
健一郎の渡すタイミングが遅かったとも言えたし、壮司が走りだすのが早かったとも言えた。
とにもかくにも剣道部は甚大なタイムロスを生じさせ結局七位に転落したのだった。
彼ら自身が一番堪えているのを知っているので、剣道部の気のいい部員たちは慰めはすれこそ、責め立てはしなかった。
しかしその分彼らのふがいなさは倍増し大半は己へ、ほんの一部は相手へ向いてしまったらしい。
そして今に至るわけだ。
今の険悪さはおおかた相手に対するものではなく内包している怒りが相手へ向かないように押し込めているからだ。
今そのことについて言及すると取り返しのつかないことを言ってしまうと重々わかっているのだ。
そうやって修復不可能なケンカを起こさないあたり、互いのことが心底嫌いだというわけではないのがわかるのだった。
生徒のざわめきが徐々に小さくなっていく。あらかた整列し終わったようだ。
芙美花は目で壮司に了解を得ると自分の前のスタンドマイクに電源を入れた。
「生徒の皆さん、静かにしてください」
グランドの四方に置かれたスピーカーから芙美花の声が響く。
強い日差しと競技の疲れで繰り返し言わなくともすぐに喧騒は沈静化した。
「列を整えます。前の人に合わせて並んでください」
生徒たちの列が前後左右に微動する。
それが収まるのを待って再び口を開いた。
「開会の言葉。生徒会会計、貢くんお願いします」
板についてきた芙美花の司会で、スポーツクラスの緑のハチマキを揺らしながら健一郎が壇上へ上がる。
開会式ではこっちが芙美花の役目だった。司会は巴がやり、閉会の言葉は逆に健一郎がやった。
人数が少ないので何をやるにも苦しい運営だ。
「これから第二十五回校内陸上記録会、閉会式を挙行します」
剣道ばりのよく通る声できびきびとした礼をして健一郎が壇上を辞す。
日焼けした顔はすでに公人としてのもので怒りや苛立ちは伺えなかった。
彼が公の場まで個人的な感情を持ち込むとは毛頭考えてはいなかったが、それでも安心した。
「表彰に移ります。呼ばれた各種目の優勝者及び部活動対抗リレーの優勝した部の代表者は前へ出てきてください」
とつとつと紙にかかれた名前を読み上げる芙美花の横で壮司と体育委員長、椎名留奈が壇上へ上がっていく。
留奈はいかにも体育委員という風貌の持ち主で、健康的な小麦色の肌や、短い髪が活動的でよく似合っている。
さすがに剣道部女子部長だけあり、ハーフパンツから伸びる足はすらりとしてながらもしっかり筋肉がついていた。
武闘派の代表格ともいえる壮司と並ぶとなんともタイプが似ていてお似合いだ。
そこまで考えてちらりと横目で巴を盗み見る。
他の人にはわからないほどの微妙な変化だが、先日の試合のときのように『おもしろくない』と端麗な顔に張りつけて壇上を見ていた。
いつも冷静沈着なだけに子供っぽいその表情が一層際立つ。
冷静沈着、成績優秀、容姿端麗の三拍子そろう才媛の意外な一面。
それはそれで人間味があって好感度が上がるのだが、巴はそんな自身に気づいて顔を一瞬しかめ、完全なる無表情の下にすべてを押し込めてしまった。
留奈に補佐されながらの長い表彰が終わり、彼らが壇上から降りてくる。
はっとして次の式次第を頭から引っ張り出した。
「学校長講評。校長先生お願いいたします」
小太りの体に髪が薄くなった頭、男性にしては低い身長の壮年男性が階段を音を鳴らしながら上がる。
天候に恵まれたこと、二十五回まで続いた功績など話は多岐に渡ったが、その間繰り返しこの後のプログラムを必死に確認していたので話を聞くどころではなかった。
「生徒会副会長の話。古賀さんお願いします」
校長と入れ換わりにポニーテールを背中で揺らしながら巴が壇上に立つ。
今まで下がっていた視線、特に男子生徒のそれが上がる。
「生徒の皆さん、本日はお疲れさまでした。校長先生が仰られたように悪天候が心配されましたが――」
微塵も緊張した様子はなく、堂に入った話し方である。加えて今日生じたエピソードも即興で折り込み、嫌味にならない程度に熟語を混ぜて語調を整えている。
才走るとはまさにこういうことであろう。
話の出来もさることながら少なくはない男子が壇上の彼女に釘づけになっていた。確かにポニーテールによって、いつもは隠されているうなじや首筋があらわになって何とも艶やかだ。
巴は何事もないように数多の視線を受け流し、壮司に至っては全然気づいていない。
余計なお世話だろうが二人の恋模様をじれったく思った。
「――以上を私のあいさつに代えさせていただきます。生徒会副会長、古賀 巴」
名残惜しそうな視線を受けながら危なげない足取りで巴が生徒会の列に戻ってきた。
開会式での壮司の場合には役目を成し遂げた安堵が透けて見えたが、彼女には特筆すべき表情の変化はない。
いつも通り淡々と、ただなすべきことを済ませたという具合だ。
こうも見事なポーカーフェイスでも壮司のことになるとたちまち崩れてしまうのだから驚きだ。
そういうところは年相応の“少女”なのだ。
「閉会の言葉。体育委員会副委員長・藤本くんお願いします」
人数が少ないのでここでも助っ人だ。
たとえ人材の不足が露見しても、同じ人物が同一式典中に何度も登場するのは避けたいがためだ。格好がつかないことこの上ない。
可もなく不可もなく閉会を宣言した体育副委員長が列に戻ったのを確認して息を吸い込む。
……肩が熱く、鈍い痛みを訴えるが、意識の隅に追いやった。
ここまできたのだ。多少の痛みは気づかないふりを突き通すまでだ。
「以上で第二十五回校内陸上記録会の全日程を終了いたします。生徒の皆さんは担任の先生の指示に従ってください。体育委員、放送委員は片づけがありますので本部テント前に集合してください」
マイクを切り、息をついた。
――終わった。
開催が危ぶまれた行事が無事に終了したことに肩の力が抜ける。
同時に気が抜けたためか、激しく痛みを主張し始めた。
ずくずくと芯から沸き上がる痛みに顔をしかめそうになるが、奥歯を噛んでぐっとこらえる。
痛がるのは寮の自室に帰ってから存分にすればいい。ここで怪我を理由に足手まといになるようなことはしたくない。
壮司は何だかんだ言っても頼れるし、巴は万能だ。健一郎は細々としたところで役に立つ。今朝だって放送機材の配線を容易にやってのけた。
それに引き換え自分には貢献できることなど何もないのだ。怪我して雑用にさえ使えなくなったら正真正銘の役立たずである。
「桐原?」
ぼんやりとしていたのか、巴が怪訝そうに覗き込んできた。
「どうした?」
「ううん、何でもない。暑いなぁと思って」
巴に感づかれるのは非常に避けたい事態だ。
彼女にばれたら逃げられない。
普段通りを心がけて作り笑った。
平素の彼女なら気づいたかもしれない。しかし疲れていたのだろう。ここぞとばかりに副会長の裁断を仰ぐという建前で色んな人に色んなことを話しかけられていたから。
「本当にな」と答えてテントの片づけを手伝うべく体育委員の輪の中へ入って行く。芙美花も後に続いた。
テントを解体すべく結構な数の支柱を持ち上げねばならない。
体育委員とともに一人一つの支柱につく。
「行くぞ!せーのっ!!」
壮司の掛け声とともにテントが宙に浮いた。
大丈夫だと思った。これ以上悪くなることはないだろうと。
だが、強い負荷は虚勢を破壊する決定打となった。
熱が肩で閃く。次の瞬間、肩から力が抜けた。
「あっ……」
芙美花の意志とは関係なく、支柱は手から離れていく。
わけもわからず、地面に膝をつく。
ちくりと小さな痛みを肩に感じた直後、痛みが大波となって芙美花を襲った。
「っう……!!」
激痛に息をすることさえままならない。元気な左手で右肩をとにかく押さえていた。
「芙美花っ!!」
切羽詰まった健一郎の声が鋭い痛みの狭間に聞こえた。すぐにけたたましい音を立てながら健一郎が駆けつける。
「とりあえずゆっくり下ろせっ!!」
二人も支柱を支える者が抜けたテントを壮司がゆっくりと下ろさせた。
さすがにその声も落ち着きを欠いている。
次々と壮司が、巴が固い顔を張りつけて走ってくる。
壮司が何事かを指示し、巴がそれに頷き、即座に校舎へ向かって走っていく。健一郎はしきりにどこが痛いかを聞いてくる。
「桐原、右肩か?」
しゃがみ込んで目の高さを合わせた壮司が尋ねてくる。狼狽を押し殺して冷静たろうとしているのがわかった。
声を出す余裕まではなく、首をかすかに縦に振るのが精一杯だ。嫌な汗が背を伝う。
切迫した声で壮司と健一郎が早口に言葉を交わし合う。
その声が止むと耳元で壮司が二、三語確認を取るようにささやきかける。
内容を理解するまでの余力はなく、言われるままに弱く首を縦に振った。
馬鹿の一つ覚えのように爪が食い込むくらいまで右肩を押さえ込んでいた左手に、健一郎の大きな手が添えられる。
それは細心の注意を払い、そっと芙美花の手を肩から引きはがそうとした。
左手を患部に添えることが痛みを和らげる唯一の方法であるかのように芙美花は頑なにそれを拒んだ。
「芙美花、大丈夫だから手外せ、な?」
この上なく優しくささやかれ、背を撫でられる。
全身の強ばりが解けていく。力が抜けて左手がずるりと地面に落ちた。
その隙に壮司がジャージの上衣で芙美花の右腕を手早く固定する。
「もう少し我慢しろよ」
壮司に励まされた瞬間、視界ががくんと上がる。
膝裏と背中にそれぞれ腕を回され、健一郎によって抱き上げられていた。
慎重に、しかし速さを損なわず運ばれる。興味津々ですれ違う生徒たちが視線を向けるが、羞恥も気まずさも感じなかった。
感情も身体も痛みが支配していて、外のことは一枚も二枚も壁を隔てた先にあったのだ。
生徒たちの奇異の視線も、友人の心配する声すら圧倒的な痛みに弾かれて芙美花の内側へ入っていくことはなかったのだった。
―◆―◆―◆―◆―
部活を終えて帰寮すると談話室で巴が待っていた。
砂塵も汗も流さぬままの体操着姿だった。
「お帰り」
自分と健一郎の姿を認めて視線を寄こしてくる。すでに平生の顔つきだ。いや動揺の名残のように土汚れが頬についている。
「芙美花はっ!?」
今にも巴に掴みかかりそうな勢いで健一郎が巴に詰め寄るが「とにかく座れ。大丈夫だから落ち着け」と、巴はどこまでも冷静に椅子を勧めた。
健一郎はなおもまだ言いつのる姿勢を見せたが、大丈夫という言葉に行き着いてか険しい顔でとりあえず座った。
芙美花は保健室で応急処置を施され、教師の車で病院へ連れていかれた。
それからというもの壮司も健一郎も浮き足だっていた。
部活行くのも渋ったが、帰ってくるのを待ってたからといって何かなるものでもない。体を動かし、頭を真っ白にしようとあえて行くことにしたのだ。
その際、怪我に気をつけるようにと巴に言い含められたがまったくその通りだった。
情けなくも集中力も平常心も欠いていてひどい稽古の有様だったのだ。よく何事もなく終えたものだ。
それでも幾分かは落ち着いて寮に帰ってくることができた。
「桐原は?」
改めて壮司から問いかける。
東の空はもうすでに夜の帳が落ち、西では橙色の夕陽が最後の光を放っている。
芙美花が病院に連れいかれてからかなりの時間が経過していた。
「肩関節前方亜脱臼。全治三週間。だいぶほっといたようで周辺筋肉が炎症を起こしているそうだ」
淡々とした彼女の話し方は無駄な感情の介入を阻む。かえって事実がありのままの形で胸に落ちてきた。
壮司の中で脱臼かもしれないというのは頭にあった。
だからジャージで彼女の腕を固定したのだ。
「今、芙美花は?」
決して軽くはない診断に健一郎の顔は複雑そうだ。
「部屋に戻らせた。人前だとまた無理をしかねないからな」
そこで巴は腹立たしげに息を吐く。彼女にしては珍しい表情だ。
「……まったく。いつ怪我したかなど気がつかなかった」
水臭くも怪我をしたのを黙っていた芙美花を多少責める気持ちもあるのだろうが、大半は気づいてやれなかった自分に対する憤りのようだった。
健一郎も同様に渋い顔をして目を伏せている。
おそらく芙美花は責任の端緒が壮司にもあったから誰にも言いだせなかったのだ。
ぎりぎりまで隠し通そうとし、限界を越えてしまった。
「……悪い。桐原が怪我したのは俺に原因がある」
自分から出た声は思いの外、平坦だった。
当然ながらすぐさま食らいついてきたのは芙美花に最も近しい健一郎だ。
「どういうことだよ」 剣呑な声が夕闇に染まった談話室にこだまする。
壮司を見据える瞳の強さはいつもの半分おふざけのようなケンカの比ではない。
物騒な瞳に絶えず見つめられながら、昨日の転倒、昼休みの会話などかいつまんで話した。
次第に健一郎の気色が怒気を孕んだものへ変容していくのがわかった。
「するとてめぇは知ってて黙っていたわけか」
話し終わるやいなや低く押さえた声が壮司を刺す。
言い訳をする気はさらさらない。好きなように責めろと「そうだ」と応じる。
他人から――特に健一郎から気にするななどと慰めを言われる方がよっぽど惨めだ。
空気を鋭く切り裂き、即座に健一郎の手が伸びた。
「――っ」
胸ぐらを掴み上げられ、嫌な浮遊感を味わう。
座っていた椅子が後方へ倒れ、やかましい音を立てた。
「止めろ、貢!」
暴力沙汰に発展しかねない状況に慌てて巴が間に入る。果敢に健一郎の程よく筋肉がついた腕に取りすがった。
あまりにも勇敢すぎる彼女を制止しようとするが、喉を圧迫されているこの状態では声も出せない。
――頼むからこういうときぐらいはヤツの剣幕に恐れをなしてくれ!
それはもはや懇願だった。壮司は何でもいいから巴を健一郎から遠ざけたかったのだ。
巴がどんなに健一郎を完膚なきまでに言い負かしたとしても彼が暴力に訴えるとは毛ほども思っていない。だが行動は荒くなっているのだ。
故意ではなくとも何のはずみで彼女に危害が加わるかわからない。
そんな思いも空しく、巴は臆することなく健一郎に言い放った。
「いい加減にしろ。桐原の怪我は事故と許容できる範囲のことだ。怪我を周囲に言うかの判断も自身ですべきことだろう。責を他に求めるな」
毅然とした裁断だが、まったくありがたくない。むしろ肝を冷やした。
彼らの視線がぶつかり合い、暫時嵐の前のような静けさが蔓延する。
しかし嵐の到来はなく、みるみる内に健一郎は気勢を失い、代わりに本来の分別ある姿を取り戻した。
それに伴って胸元の力も緩む。
「……悪い。頭冷やす」
健一郎は言葉少なく顔を背けたが、表情は激情に身を任せた後悔を雄弁に語っている。
遠ざかる彼の足音を聞きながら安堵の息をついた。
自分が殴られるのは一向に構わないが、巴に飛び火するのは最低限避けたかったのだ。
ともかく腰を落ち着けたくて、倒れた椅子を直して座る。
テーブルに肘をついて指を組み、そこに額をくっつけた。ずん、と体が重くなった気がする。
「……とんだ記録会にしちまったな」
思わずついて出た弱音。 うわ情けねぇ、と思ったが口から出たものは戻せない。
「えらく弱気だな。さすがにこたえたか」
正面の椅子を引く気配がする。どうやらこの泣き言につき合ってくれるらしい。
「気にするな。貢はお前に甘えてるだけだ」
「甘え?どこがだ」
顔を上げる。
甘えどころか存在するのは純然たる激怒ではないのか。
胸ぐらを思いっきり掴まれる甘えなどあってたまるか。おかげで体操着はでろでろに伸びてしまった。
「貢の怒りは単なる八つ当たりさ。もし私がお前の立場だったら逆に気にするなって慰められてたと思うぞ」
彼女の言葉は嘘がない。だからこれは下手な慰めではないのだ。
そのことが少しの救いになる。
それにしても、と巴が続けた。
「この晴天。おかしいと思った。私は今日も絶対雨だと思ってたんだがな」
超絶不運体質の芙美花にもかかわらず、二日間にかけて居座る予定だった台風を見事一日で追い返したのだ。
その時点でおかしいと思うべきだったのかもしれない。
「その代わりに怪我をしたというわけか。難儀なやつだ」
やけに饒舌な巴。
……もしかして俺を励ましてくれてんのか。
あまりに自分本位過ぎる発想だ。口には出さず、胸中で握り潰した。
「……巴、ああいうときは危ねぇから間に入るなよ」
代わりといってはなんだが、これだけは言っておかなくてはならない。
今回は相手が常識人な健一郎だったこともあり、事なきを得たが、これが無頼漢だったらと思うと心臓が保たない。
その勇敢さは尊ばれるものだが、行き過ぎは単なる無鉄砲だ。
巴は一瞬きょとんしたがすぐに思い当たったようで考え込む。
「……そうか、そうだな。気をつける」
いやに素直だ。自分がどれだけ危険な橋を渡ったか今になって悟ったのかもしれない。
それとも無様にも気落ちしているこの自分に反論をぶつけるのは酷だと思ったのか。
「いや、おかげで殴られずに済んだ」
自分に殴られるほどの非があるかどうかは別として、あれだけ怒り狂ってたのだ。拳の一、二発は覚悟していた。
「甘んじて拳を受けるつもりだったのか?」
「……受けねぇと収まりがつかねぇだろうよ」
二人で殴り合いのケンカを始めるなど愚の骨頂だ。
それに過失は確かに壮司にあったのだから。
「どこまでも律儀だな、お前は」
呆れたように笑って細い指先が壮司に伸びた。そのまま胸元の乱れを直してくれる。
「さっさと夕食に行くぞ。お前らを待ちくたびれて空腹で堪らん」
「待て」
立ち上がる巴の腕を軽く引っ張り再び座らせる。
抗議の声が上がる前に彼女の頬を手のひらでこすった。
頬にしぶとくこびりついていた土がぱらぱらと落ちる。
「よし。きれいになった」
満足そうな自分の声をパチパチと音の鳴りそうな瞬きで巴が受けとめる。
邪気が抜け落ちてぽかんとしている彼女は一歳も二歳も普段より幼く映った。
壮司は何故彼女がそのような表情をしているかわからぬまま「腹減った」と立ち上がった。
「飯食いに行くんだろ?」
座ったままの巴に問いかける。
「……行く」
ふいっと顔をそらして巴が答える。
七階分の長い階段を降りる間、傍らの彼女の頬がいささか赤く染まっていたことなど壮司はまったく知る由もなかったのだった。
―◆―◆―◆―◆―
また迷惑かけた――。
フローリングの床に直に座って芙美花は暮れなずむ空をぼんやりと見ていた。
寝てろ、と巴に強制的に部屋へ押し込められたが、ベッドに入るどころか着替える気力すらなくて、こうして無駄に時間だけを浪費していた。
体もくたくただし本来ならば安静にして一刻も早く治した方がいいに決まってる。
こうしてうじうじしていても起こしてしまったことは変わらないのだ。
「……お腹空いた……」
こういうときまで食い気が勝つとは、どういう了見だ。
だが、食堂には行きたくない。巴や健一郎、特に壮司に合わす顔がない。
壮司は診てもらえ、と言ってくれたのに。それを破って記録会を滅茶苦茶にしてしまった。
自分の愚かさに涙が出そうだ。
しかし、涙が頬を滑り落ちる前に部屋のドアがノックされる。
「芙美花、入ってもいいか?」という声に驚きで涙が引っ込んだ。
「け、健さん?」
慌てて入口まで駆け寄る。
男女混合の特別寮とはいえ、異性の部屋を訪ねるのは固く禁じられている。
右手でドアを開けようとして――右手は三角巾で吊られているので――左手でぎこちなく開けた。
「健さん、こんなとこ見られたら」
停学――という言葉は健一郎の真剣な顔を前に喉を越えることはなかった。
ドアを開けたまま動きが固まる。
「健一郎……」
その顔を見て気づく。
今、やらなければならないのは顔を合わせたくないなどと自分自身を甘やかすことではなかった。
「迷惑かけてごめんなさい……」
とうに涙はすべきことを怠った羞恥に変わり、顔を赤らめた。
まともに健一郎の顔が見れない。
「……何が迷惑かけてだよ」
低い声。芙美花の至らなさに憤っているのか。
そしてすっと健一郎の手が上がった。
――殴られる!?
彼に限ってまさか、とは思ったが反射的に身を固くしてしまう。
だが、芙美花を襲ったのは優しい一打で、骨張った大きな手に優しく頭を撫でられた。
「誰もお前に迷惑かけられたなんて思ってねぇから」
思ってもみなかった言葉。不意討ちのようなそれに涙がこらえられない。
「もっと俺に頼れよ。痛いときは痛いって言えよ」
そっと頭を抱えられ、抱き寄せられる。ぬるい涙が彼の体操着に染みていく。
「だって、私、何も、できないし、迷惑、かけて、ばっかりでっ……」
嗚咽が止まらない。
こんな風に感情のままに吐露することだって避けたかったのに。
健一郎の体温に包まれて自分で自分を縛っていた定義がいとも簡単に解けていく。
「誰も芙美花が役立たずなんて考えてねぇよ。本当の役立たずはこんな風に泣いたりしないだろ?」
ぐりぐりと頭をかき回される。遠慮ない手つきだが、不快には感じなかった。
むしろ泣くのを許されているような気がした。
「本当の役立たずをこんなに心配すっかよ」
あやすように背中を何度も何度も撫でられた。それでいて決して右肩に触れないように気を配ってくれている。
その動きに連動して涙がとめどなく流れた。
「……健、さん。健一郎」
「なに?」
「……心配、かけて、ごめんなさい」
やっと見つけた言うべきこと。たったひとつの“正解”。
泣き濡れたその答えに健一郎は相好を崩し「よくできました」と背をぽんぽんと叩かれたのだった。
後日、健一郎がこの一件に関して壮司に手荒な真似をしたことを聞かされた芙美花は、健一郎を伴い彼のところへ謝りに行ったのだった。
終始、芙美花が優越権を握っていて“謝らさせられている”健一郎は壮司が恐縮するような謝りようだったという。
芙美花の新たな一面を垣間見た壮司であった。