序章
「俺と結婚して欲しい」
十一歳の冬、常ならぬ面持ちで巴の部屋に入ってきた壮司は、開口一番そう言った。
彼の固く強ばった表情から、何かあるなと推測はしていたが、さすがに予想外の事態であった。まさか小学生がプロポーズとは。何と答えたものか、と思案する巴の代わりに、ストーブにかけたやかんがシュンッと鳴った。
「なぜ急にそのようなことを言う?」
壮司の生真面目な性格から、冗談でこのようなことを言うやつではない。しかし彼が本気だからといって、世間一般の幸せに満ち満ちたプロポーズではないのは明白だ。
壮司と巴はいとこの間柄であった。彼は巴に対して熱情を伴う恋慕ではなく、穏やかな親愛や友情の類で接していたように思う。鑑みるに気持ちの問題でなく、巴と結婚することで付随する何かが彼の望みなのだ。
「俺はこの家、円恵寺を継ぐつもりだ」
淀みのない口調は、確固たる意志の表れのようだった。
代々、この家――円恵寺は本家の男子が住職となり脈々と続いてきた。しかし現住職である父には巴しか子がおらず、母は巴を生んで亡くなった。僧侶が後妻を迎えるのはいかにも世間体が悪いということで再婚もしていない。そのため現在、男の後継ぎがいなかった。
寺は基本的に男社会だ。男の後継がいないことは身内のみならず、檀家の心配までも煽った。
「お祖母さまもそれを望んでいるだろうな」
家長で住職でもある父を差し置いて、我が家の実質的な最高権力者は祖母だ。祖母は口には出さなかったものの、壮司が後継となり寺を守ることを望んでいる。いや、望んでいるというかわいいものではない。あらゆる圧力をかけ壮司が後継ぎとなるように仕組んだ。
「だが、俺は本家の者ではない上に父親が誰ともわからない子供だ。まわりが納得するはずがない」
壮司は淡々と事実を語る。そこに自らの生い立ちを卑下する響きはなかった。
壮司の母は約十二年前、素行の悪い男と結婚し、この寺を出ていったと聞いている。彼女が幼子を連れて、再びこの家の敷居をまたいだのはそれから四年後、逆算して八年前のことだ。反対を押し切って結婚した彼女を祖母は許しはしなかったが、壮司の存在が免罪符となった。祖母は心身を壊した彼女の代わりに壮司を育てることにした。後継ぎとして。
そうしてたっぷり恩をなすりつけ、壮司をこの家に縛りつけることに成功した。祖母は思い通りにならなかった娘の代わりに壮司を意のままにしたいのだ。恩義からか壮司はその意を理解しながらも、あえて従っている節があった。
「この寺を継ぐこと。私と結婚すること。それがお前の使命というわけか」
くくっと喉を鳴らし、壮司の代わりに巴が嘲笑で顔を彩った。
本家の娘である巴と結婚することは、すなわち本家の後ろ楯を得ることになる。一族中から、どこの馬の骨ともわからないと中傷される彼の立場も安定するはずだ。加えて、本家が“本家”であり続けるためにも、次代の住職を巴の婿に迎えることは必要不可欠だった。
「何とでも罵れ。お前には不自由を強いることになる」
揺るぎない彼の声音。潔すぎてつけいることを拒絶するかのような。
「お祖母さまの差し金か?」
答えはわかっていた。一方で、問わずにはいられなかった。他人の気持ちを慮れる彼が、自発的に巴の意の添わぬ結婚を申し出るはずはないのだ。
「すべて俺の意志だ。ばあさまは関係ない」
責は全部自分にあるとでもいうような静かな否定。瞳はどこまでも強い意志を称え、巴を射抜いている。理不尽なことでも残らずすべて呑み込む姿勢を見せる壮司に激情が込み上げ、ついに堰を越えた。
「お前は何でもそうして受け入れるのか!」
怒りがほとばしり、止まらなかった。
「このままではお祖母さまの傀儡だぞ!!」
それでもいいのか、と荒げた声で壮司を責めた。
この結婚話だって十中八九祖母が圧力をかけたものだろう。祖母が喰えない人物だということは嫌というほど実感している。境遇をたてに不自由を強いられているのは巴ではない。むしろ壮司だ。
シュンシュンとすっかり沸騰したやかんが、せわしく鳴いていた。
「父は――」
ややあって壮司は口を開く。激情を前面に出す巴とは対象的に彼の表情は落ち着払っていた。
「俺が物心ついたときにはもう死んでいた」
巴は怒りの裏側でかすかに驚く。記憶の限り、壮司が実父のことを話すのは始めてだったのだ。
「ばあさまはどんな形であれ俺たちを守ってくれた。だから恩には報いねえと」
俺たち――そこには母親のことが含まれている。壮司はこの家に貢献することによって弱った母親をも非難や中傷から守ろうとしているのだ。十一歳の子供にはあまりに荷が勝ちすぎている。
「……生まれはお前のせいではないはずだ」
いくら言い募っても無駄だとわかっている。巴が何と言おうとも、“恩返し”が彼の義務なのだ。律儀な性格とか義理堅さも超越した、存在意義そのものなのだ。
それでも壮司は「そうだな」と一応答えてきた。
「お前がお祖母さまの言いなりになる必要はどこにもない」
怒りを抑えたため語尾がかすれる。低い巴の声にも「そうかもしれねえな」と壮司はあっさりといなしただけだった。
「俺と結婚するのはそんなに嫌か?」
巴の説得をあえて曲解して壮司が尋ねてくる。その態度はどこまでも誠実で真摯だ。婚姻を強要することに対し巴に負い目を感じているのだろう。
もし、ここで巴が嫌だと言えば彼はそうか、とあっさり引き下がるだろう。その後自らの立場が悪くなり、窮地に立たされるとしてもだ。
巴は真剣そのものである壮司の視線から顔を背けた。ふつふつと怒りが再燃してくる。対象は壮司でなく祖母だ。この婚約を断れば壮司は寺を継いだとき散々に言われなければならないだろう。出戻りの息子が寺を乗っ取った。上手く立ち回ったものだ、と。
巴が結局のところ壮司を見捨てられないということを祖母はよく熟知している。だから祖母は自身が巴と壮司に結婚を命じるのではなく、壮司を説得に遣ったのだ。相変わらずあざといやり口だ。
「……お前と結婚しなくとも、いずれ私はお祖母さまの都合のいいところに片づけられるだろう」
壮司がぎくり顔を堅くした。本当にわかりやすい男だ。
推察するに壮司は『あなたと結婚しなければ巴さんは別のところに嫁がせます』とでも脅されたのだろう。加えて祖母の挙げた巴の結婚相手は市長の不肖の息子か、総合病院の放蕩息子あたりだったのだろう。
巴は諦観を含んだため息を吐き出した。祖母にとっては本家の娘であり、内孫の巴さえ駒としか思っていない。幼少時から肉親の情を祖母から感じたことは皆無だった。
「顔も名前も知らない相手よりはまだお前の方がましだ」
口とは裏腹に向かいの座布団に胡坐をかく壮司に手が伸びる。男らしい稜線を描く顎先を指の腹でなぞり、手のひらで頬を包む。無遠慮に、しかし柔らかに動く手を壮司に上から軽く握られた。
「……悪いな」
巴の意地っ張りな言葉と行動を了承の意ととったようだった。
「謝罪はいらん。私に相応しい男になれ」
「……努力はする」
軽口を叩いても、笑いは浮かばなかった。
自分たちの置かれた状況が理不尽だとわかっていた。わかっているがどうしようもなかった。衣食住すべてを大人に依存している、たがたが十一歳の子供が巨木のような存在感を持つ祖母に反抗する術はなかった。
そして自分も、はからずも壮司をこの家に引き止めておく足枷となってしまったのだ。そのことを忌々しく思う反面、壮司がこの家から去っていかないことに安心している自分がいる。祖母の権威が染みついているこの家も、安堵を覚えた自分もたまらなく憎かった。
握られた手が季節に相応しくなく熱かった。この部屋はストーブは炊かれているが、なにぶん古い家だ。すきま風などで寒い。その手の熱は彼が緊張のためほてっていたことを知らせた。
「ふふっ……」
巴はたまらず笑みをこぼした。突然の笑いに、怪訝な顔をして壮司が見つめてくる。
「何だよ?」
「いやな」
言葉を濁してまた笑う。
……いとおしいなと思って――。
巴がそう伝えるのはまだ先の話だった。