32 真夜中の邂逅
『見に行くの?』
「ああ」
水場に何か居る。
それは他の小隊かもしれないし、野生の獣か。或いは魔獣か。
いずれにしてもこのまま不明瞭にしておいては気になって仕方ない。
幸い池からでも鳴子の音は聞こえる。
少し離れた場所から様子を見て戻ってくる位の間この場を離れても問題はない。
そう考えながらオルガは足音を忍ばせてそっと水場の方へ向かう。
『ねえねえ。偵察なら私がピューって行ってきましょうか?』
「ダメだ。それじゃあ俺達の訓練にならない」
確かにそれが一番早くて確実なのは認めるが、どう考えてもインチキだろう。
これが試験である以上、マリアの力は極力借りたくない。
水と言えばウェンディだが……そう思っているとマリアが微妙な表情を浮かべる。
『幽霊だったらどうしよう』
だからお前がそれを言うのかと。
突っ込むのも面倒で、口にはしないが呆れた視線をオルガは向けた。
木陰から池の様子を伺う。
水音はまだ聞こえてくる。
木々の隙間から漏れる月明かりに照らされたシルエットは人間の物。丸みを帯びた輪郭から女性だと当たりを付ける。
どこかの小隊が水を汲みにでも来たのか。だとしたらどこに拠点があるかまで探るべきか――などと考えていると。
『あーオルガ? 目、逸らした方がいいんじゃないかなーって私は思うな』
隠れ潜んでいる身であるため、その理由を問いただす事は出来なかった。
だが直ぐに分かった。
暗がり故に気付かなかったがそのシルエットは水汲みをするには少々池に入り込み過ぎていた。と言うよりも真ん中あたりにいる。
水浴びでもしているのだろうか。
だとしたら必然服など脱いでいる訳で。
つまりはすぐそこに全裸の女性がいる。それに気づいた瞬間、オルガはマリアの忠告の意味を理解した。
なるほど。自分が動揺しないわけがない。
そしてその動揺は様々な媒介を通して相手に伝わったらしい。
「誰ですか!」
鋭い誰何の声にオルガはみっともなく慌てる事しかできない。
「な、なにも見てないです!」
『せめて何か言い返しなさいよ。そっちこそ誰だ! とか』
マリアの呆れたような声がオルガの胸に刺さる。
『ダメダメねオルガ。そんなんじゃ色仕掛けされたら瞬殺されるわよ』
両眼を塞いでみない様にしているオルガへ追撃の嘆息。
「……その声、オルガ様ですか?」
そこで漸くオルガも影の主が見知った相手だと気付く。
「え、ヒルダさんですか? って事はウェンディもこの辺りに?」
思わず見渡そうとしてまたオルガは自ら目を塞ぐ。もしもウェンディまで水浴びしていたらもう自分は気絶するかもしれない。
「これはお見苦しい所を……少々お待ちください」
ぶっちゃけ月明かりが逆光になっていてシルエット以外は何も見えなかったので見苦しいも何も無かったのだが。
背後で衣擦れの音。ほんの数瞬の後にヒルダの声が届く。
「お待たせしました。もうこちらを見ても大丈夫です」
そう言われて振り向くと、何時も通り顔以外はきっちりと覆ったメイド姿のヒルダがそこにいた。どうやってこの短時間で着たんだこれと思わないでもない。
真夜中の森の中にメイド。ミスマッチ感が酷い。
「えっと……奇遇ですね?」
「ええ。オルガ様もこの辺りを拠点に?」
その言葉に一瞬オルガは返事に詰まった。素直に教えても良い物かどうか迷ったのだ。
だが、真夜中に森をうろつく人間はそうはいない。この辺りに拠点を構えているのは筒抜けだろう。
そう思い、素直に頷いた。
「ヒルダさんとウェンディもこの辺りに?」
「ええ。お嬢様も恐らく」
「……恐らく?」
妙な言い方だとオルガは思った。その怪訝が表に出たのか。
ヒルダは溜息混じりに答えを明かす。
「実は、今私とお嬢様は別行動中なのです」
「え。別行動って……」
試験中なのに? と疑問を抱く。今回のような小隊を対象にした試験の時こそ小隊として動くべきなのではと思わないでもない。
何かの作戦かとも疑うが、そんなウソがどんな利に繋がるのか。全く予測も出来ない。
と考えると本当なのだろう。俄かには信じがたいとオルガは思った。
「……これは私の個人的なお願いなのですが」
「?」
「もしもお嬢様を見かけたら少しで良いので気にして貰ってもよいでしょうか。私は側に居られませんので」
「喧嘩でもしたんですか?」
「試験中は一人で切り抜けると。そう言われてしまいまして」
何とも意外といえば意外だ。ウェンディがそこまで独力に拘るとは。
思えば、小隊戦時もウェンディは一人だった。あの時も同じだったのだろうか。
「……うん? って事はアイツ、一人で野営していると?」
「恐らくは。どこかの小隊と協力していない限りは、ですが」
他小隊との協力はオルガも一度は考えた可能性だ。
複数小隊で協調出来ればこの試験は大きく難易度を下げる。
例えば極論、一人である事のデメリットを徒党を組むことで補える。
人員が増えるというのはそれだけで夜間の見張りの負担は減る。
無論デメリットもある。非常にシンプルな、協調相手を信じられるか。
相手は同じ小隊の仲間ではない。油断している時に円環を奪われたらそこで脱落だ。
敢えてヒルダを遠ざけたウェンディがそんな手を取るとは思えない。という事は一人だろう。
それは余りに危険だ。
「……ウェンディの奴は見つけたら捕まえておきます」
小隊として勝負をしてはいるが、流石に一人でこの森の中を彷徨うのは危険が過ぎる。
何なら、オルガの負けで良いので護るべきだと感じた。
それにその条件はヒルダも同じはずだ。
「って事はヒルダさんも一人じゃないですか。危ないですよ」
「ご心配なく。私は一週間程度不眠不休で動けますので」
冗談の筈だ。だがヒルダが言うと冗談には聞こえない。
それに怯んでいると、小さく鳴子の音。
何かが引っかかったらしい。
そちらに一瞬気を取られた。
そうして振り向いた時にはもうヒルダの姿は消えていた。
『本当に神出鬼没ね……私、今目逸らして無かったんだけどな』
探すかと迷う。だがこの闇の中見つけられる保証はない。それよりも今は小隊の仲間を護らないといけない。
鳴子の鳴った方向へオルガは走る。
――ちなみにその正体はリスだった。
シルエットじゃなければオルガは失神していた可能性が……