39 声無き叫び
エレナが目元を拭う。
その手の甲が濡れているのを見て、オルガは少し怯んだ。
泣いていたらしい。
泣いている相手は苦手である。
それが女子ともなれば、経験値皆無のオルガにとっては最早魔獣よりも恐ろしい相手だ。
『ほら、ぼんやりしてないで。何か言いなさいって』
マリアにそう促されて、オルガは自分が硬直している事に気付いた。
努めて、気付かなかった振りをしようとは思うのだが、じゃあ何を言えば良いのか。
そう迷っているとエレナの方から口を開いた。
「……聞かないんですね」
その言葉に。オルガは寧ろ聞いて欲しいというサインでは無いかと思えた。
だから先ほどまでの考えを捨てて尋ねる。
「聞いて欲しいなら聞くけど」
どうする? と声にしなかった問いかけは相手に伝わったのだろう。
しゃがみ込んだままエレナはぽつぽつと喋り始めた。
「私は、私の家は代々聖騎士を輩出している家なんです」
「へえ」
『ああ。うちみたいな感じね。家その物がお役目を抱えているような』
さりげなく、初耳となるマリアの家庭事情も明かされた。そっちも気になるが、今はエレナの言葉の続きを待つ。
「それで、えっと。ブラン様は我が家の本家筋に当たる人で。その……」
「逆らえない?」
「と、までは言いませんけど……」
だがやはり、その言葉にはどうしたって強制力が伴うんだろう。
本人がどれだけエレナへの影響を考えているかはさておいて。ブランが白と言えばエレナも白と言う。
そんな関係性が垣間見えた。
「だから、私はブラン様と一緒に聖騎士にならないといけないんです」
やはり、なりたいではないのだなとオルガは思った。
相手が望んだからだとエレナは言外に告げていた。
「我が家には私しか子供が居ません。だから、両親の為にも私が立派な聖騎士にならないとダメなんです」
誰かの為にエレナは聖騎士になるのだという。
「でも……」
エレナは苦しそうにあえぐ。まるで息が出来ないと言うように浅い呼吸を繰り返す。
「私は、自分を過大評価してました」
身を震わせて。自分の身体を抱いて。
「私の聖剣<オンダルシア>は、私の傷を直ぐに癒してくれます。どんな怪我だって一瞬で元通りです。でも――」
その手が身体のあちこちをなぞる。それは、さっきの戦いでエレナが傷を負っていた場所だと気付いた。
「痛みは残るんです」
「っ!」
オルガはてっきり、<オンダルシア>の治癒は痛みも取り除くのだと思っていた。
だが思い返せば。オルガが彼女の治療を受けた後も痛みは残っていた。
複数回の致命傷の痛み。
その全てが身体に残るというのはどれだけの苦痛なのだろうか。
「でもそれは本当に痛くない。本当に痛いのは……隣を見ても、後ろを見ても誰も居ない事なんです」
肩を並べる戦友も無く。
背後に守るべき人も無く。
じゃあ一体自分は何のために戦っているのだろう。
そんな虚無感にエレナは度々襲われていた。
それは肉体的な苦痛よりもエレナにとっては尚辛い。
たった一人で戦い続ける。そんな未来を夢想しては吐きそうになる。
「あんな痛みに一人で耐え続けないといけないなら。私は聖騎士に何て成りたくなんて無い」
それは。ある意味で現状の完全否定だ。この学院は聖騎士を養成するための場所。
それ以外の全てを切り捨てていると言ってもいい。
それなのにその最終目標に恐らくは最も近い所にいる人間がそれを否定している。
涙を流さずとも、泣いていた。
「なりたくないなら……無理する事は無いと思うんだけど」
オルガは心の底からそう思う。
ほんの僅か、ライバルが減ればと言う思いがある事も否定はしない。
だが、逆にそんな覚悟のままこれからの競争に挑んでも辛いだけだろう。
全てを投げ出して聖騎士を目指して尚、届かないかもしれない世界なのに。
いや、それ以上に。
「そんな痛みを抱えてまでどうしてまだ聖騎士を目指すんだ……?」
聖騎士を目指し続けられるんだ。そんな声にならぬ疑問。
オルガの言葉にエレナは首を横に振る。
「だって、私両親大好きですから。一杯愛してくれた人達に私が出来る一番の恩返しをしたいんです」
だから頑張るのだとエレナは言う。
そんなエレナのたどたどしくも。
必死な言葉。
主君筋に当たる人の為。
両親の為。
ああ、だけれども。
そこにはエレナの為が抜けている。それじゃあダメだと。オルガはそう思った。
だけど言えない。誰かの為じゃなくて自分の事を考えろなんて偉そうなことを言える立場じゃない。言えるはずがない。
そうして答えあぐねている内に、エレナは顔を上げて立ち上がった。
「ごめんなさい。愚痴みたいなことを言って」
そう言ってエレナは笑みを浮かべた。
「ちょっとだけ、弱気になっちゃいました。流石に中型魔獣と戦った後だと疲れちゃいますね。でも、もう大丈夫です」
取り繕う様な笑顔。口元へ柔らか笑みを浮かべながら力こぶを作って見せた。
とても、中型魔獣を制圧できる剣士の腕には思えない細腕だ。
「お話、聞いてくれてありがとうございました。オルガさん、聞き上手ですね」
「いや……」
違う、とオルガは思う。
聞き上手なんかじゃない。ただ何も言えなかっただけだ。
誰かの為にやるべき事。
それを否定したくて。でも否定できなかっただけだ。
「……私、お風呂入ってきますね。実は帰ってきてから直ぐに花壇の世話をしてたので汗を流したくて」
そう言い訳するように言って挨拶もそこそこにエレナは立ち去っていく。
その背を見送ることも出来ず。
オルガはその場に立ち尽くす。
『……そんな事やめちまえって言わなかったことは褒めてあげる』
「心の中ではそう思ってたさ」
『そう? でも口に出さなかっただけでも偉いわよ。家の為って、多分オルガが考えているよりも重たくてどうしようもないのよ』
妙に実感の籠ったマリアの言葉。
「お前も、そうだったのか?」
『……言ったでしょオルガ。私はやれるから穢れを魔獣を狩ってた。そのやれるって言うのは私自身の心持も含めてよ』
少しマリアはそこで笑った。
『それでも、オーガス家って言う名前は重たかった。何時だってそれは私の肩を押さえつけて来てたわ』
だから、今は少し軽くて落ち着かないとマリアは言う。
オーガス流の名は途絶えて。ずっとあった重石が消えてしまった様な感覚だという。
「でもだからって、あのブランとかいう奴にそこまで忠義立てする事も無いだろ」
『これ、私の時に実際にあったんだけど……誘拐事件があってね』
誘拐。嫌な言葉だとオルガは思う。少し表情を硬くしたオルガに気付かずにマリアは続ける。
『人質を救出して、犯人を確保した時とか。結構人質が犯人を庇うのよ』
「え、何で?」
『詳しい事は良く分かんないけど、生殺与奪を握っている犯人と仲よくしよう見たいな意識が働くみたいよ』
「エレナもそれだと?」
どう見てもアレはただ使い捨てるかのような扱いをしているだけだが。そこに至るまでに何かあったのだろうか。
流石にオルガもそこまでは分からなかった。
『それで、オルガはどうするつもり……何て聞くまでも無いか』
エレナに、聖騎士を目指す事はやめろなんて偉そうなことは言えない。
その資格も無い。
だが――。
オルガの中の謎ポイントが溜まっていく……