45 オルガの涙
「俺は、ずっと後悔しているんだ」
オルガは溜息を漏らすように。
或いは懺悔をするように。そう漏らした。
それを小隊の三人は黙って聞いている。
マリアも、唇を引き結んでいた。
「あの日、スーが母さんを殺した日。俺は間違えたんだ」
手元には武器があった。
その気になればそれでスーを止める事が出来た。
悪い事をしたら叱る。その約束を果たすことが出来た筈だった。
「止めるべきだったんだ。あの時、あの場でスーを。そうすればアイツは今日まで同じような悲劇を繰り返す事は無かった」
あの日。オルガにはもう一つの選択肢があった。
スーの手を手放さない。
彼女を一人ぼっちにしない。
どんなことになろうとも、家族だ。その約束を果たすことは出来た筈だった。
「手を離すべきじゃなかったんだ。あの時、あの場でスーから。そうすればアイツは今日まで孤独に過ごすことは無い筈だった」
だけど現実にはオルガは手を離してしまった。
だけど現実にはオルガはスーを叱ることが出来なかった。
そうして残った結果は二つの約束の両方を破ったという末路だけ。
決して違えてはいけない。決して破ってはいけない。とてもとても大切だった約束を破ってしまった。
「だから、俺は……俺は!」
歯を食いしばって。掌を瞼に押し当てて顔を伏せる。そのまま口を開く事が出来ずにオルガはその姿勢で固まった。
「……アイツを、殺そうとしたのか?」
オルガが言葉に出来なかった箇所を、イオが代弁する。
そうするとオルガは口を再び開いた。
「俺が、やらないといけないんだ。俺がやらなくちゃいけない事なんだ。俺にしか出来ない事なんだ」
だって、そうでなければ。
「アイツが人間だった事を知っている人が居なくなってしまう……!」
スーの家族は今も、戻らぬ娘の帰りを待ち続けているのかもしれない。或いは今は生きていないかもしれない。
魔族になってしまったというのならば尚の事。
オルガだって、あの日の事が無ければ姿を見せなくなったスーの事を心配して。最後に掛けた言葉を何度も思い出して。
そしていつかは忘却していったのだろう。
「他の聖騎士がアイツを斬ったら、それはただ魔族の一人が死んだって言う数字にしか残らない。その程度の記憶しか残らない」
そんな事をオルガは認められなかった。
彼女をただの記録になんてしたくなかった。
「アイツが人であったことを、人だったんだって事を知ってる奴が斬らないと、ただの魔族になってしまう」
それをオルガは許せなかったのだ。
だって。スーだって被害者だ。いきなり人を喰らわないといけないなんて言う難儀な体質になってしまった。
その変化にスーの意思が関与している筈がない。
鳥がいきなり海中で生きろと言われた様な物だ。
その事自体は誰が何と言おうと、スーに否があるなんて認めない。
「そんなの……あんまりじゃないか」
だからオルガは聖騎士になる事を選んだ。魔族と言う名は知らずとも。人型の魔獣を退治するというのならばそれは聖騎士の仕事だ。
スーの行方を追う為にも聖騎士であれば情報も得やすくなる。
そして魔族を討つだけの力を得るためにも。聖騎士になるという事は必須だと当時は思っていた。
「俺はアイツとの約束を破った。だったらせめて、せめてアイツに何かしてやりたい。そう思ったんだ」
だから。オルガは人助けをしていたのだ。
約束を破った償いとして。
そして、スーが望んでいた事の代行として。
困っている誰かを助けたかった訳じゃない。
スーを助けられなかったから、その代わりに別人を助ける事で己の心を慰めていただけだ。
スーが人助けをしたいと言っていたから、その代わりにオルガが人を助けていただけだ。
母が人の為になる事をして欲しいという言葉を、一時でも叶えたかっただけだ。
イオも、エレナも。オルガが自分たちを助けてくれた動機がそれであると知って僅かにショックを受けた様だった。
「でも本当は……!」
瞼を塞いだままオルガは声を震わせる。その手のひらの下に隠されている物が隠し切れなくなってきた。
「誰か、俺を……!」
スーを斬る。
それは約束を破ったオルガがやらなければいけない事。オルガが決めたオルガの目的だ。
でも。
だけど。
それでも。
それを心から望んだ事なんて一瞬だってない。
他人に任せるつもりだって無い。
例え首だけになろうとも喰らい付く覚悟だった。
――そんな覚悟を抱いてもずっとずっと辛かった。
誰か、と。でもそんな誰かを求める資格は無いと。他人に任せられる事ではないと。
ずっとずっと声なき叫びを挙げていた。
何時かエレナが涙を流さずに泣いているのではないかと考えた事があった。
なんてことはない。
オルガの洞察力が特別優れていたわけではないのだ。ただ、自分自身に当てはめて想像しただけ。
我慢強い? 当然だ。オルガが今まで直面してきた事なんてどれも些事だ。
本当に我慢をしないといけない事が何かを知らない人が言っているだけの事だ。
頑固? 当然だ。妥協何て出来るわけがない。
一度でも妥協をしたら、全てに妥協したくなる。やらなければいけない責務にも妥協しそうになる。
プライベートが無い? 当たり前だ。自分は罪人だ。
家族との約束も守れなかった無能なクズ。そんな自分の事なんて考えたくも無い。
人を助けるのだって、そうしていれば自分の事は考えなくて済むからだ。
自分が強ければ。心も体ももっと強ければ。あの日で何かしらの決着が付いていた筈なのだ。
「俺は……俺は……アイツを殺さないといけないんだ。そうするしか――っ」
だって。他に方法がないから。
もしかしたらと言う期待はあった。
聖騎士になるための場所。そこならば――魔獣を元に戻す方法があるのではないかと。
だけどそんな方法は無い。あればもっと積極的に使われているはずだ。
マリアからも否定された時の落胆は一言では言い表せられない。
或いは、捕えて刑に服させるという事も考えた。
しかし魔族の特性を知るにつれて、ただ拘束する事さえ困難だと知る。
有獣種ならば可能性はあった。純粋な膂力ならばまだ拘束の見込みも。
だが有角ではだめだ。そもそも生命の維持に人を喰らう以上、生きているだけで人を害する。
だからもうオルガが取れる選択肢はたった一つだけになってしまった。
もう一度手を掴んで叱る。今まで重ねて来た罪の分を叱って、二度と離さない。
今度こそずっと一緒に居る。その罪を償うその瞬間までずっと。
「アイツを、俺が殺さないといけないんだ」
もうこれ以上罪を重ねさせないために。
破ってしまった約束を履行するために。
それがオルガが聖騎士になった本当の目的。
誰にも言えなかった。オルガの心の最も深い部分。
介錯したい系男子。