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破綻は余りにも唐突で。
自分がその前兆を見落としていたのかどうか。
そんな事さえ後になってからでも分からない。
スーが来なくなってから一週間ほど。
金周りが改善されたオルガは少しばかりの余裕を取り戻せていた。
少なくとも夜寝るときに明日の食事の心配をしなくていいくらいには。
夜になったら雨が降り始めた。久しぶりに空腹を満たして寝ていたが、今一寝付けない。
雷が煩いと、オルガは思った。
ガタガタと。裏通りの安普請な家が風に揺られて。
だから彼は気付く事が出来なかった。
これが晴れの日ならば彼も気付く事が出来ただろう。
だけど雨の音に紛れてきた侵入者に彼は気付けなかった。
この頃この辺りで行方不明事件が多発していた。
いつも以上に用心が必要だと分かっていたのに。
気付いた時にはもう手遅れだった。
「母さん?」
深夜、隣の部屋から物音。寝返りを打っただとかそんな物じゃなくて、もっと激しい……もみ合う様な音。
オルガは跳ね起きて、母の部屋へと向かう。机の上に置いてあった護身用の短刀を手に。
10秒にも満たない時間。
だけどオルガは間に合わなかった。
扉を蹴破る。
そこで彼が目にしたのは。
「母さん!」
幼馴染が、母親の首を断ち切る瞬間。
振り切られた刃から飛んだ血しぶきが、オルガの頬に張り付く。
「……オルガ?」
顔の周りに返り血を浴びて、佇む幼馴染の姿。
どうしてここにと、その瞳が驚きに見開かれていた。
オルガはその視線と声を無視して、母親の元に跪く。
転がってきた、首を直視する勇気がない。どんな顔をしているのか見るのが怖い。
だから首だけがなくなった母親を抱く。
微かに残った温もりが急速に冷えていくのが分かる。
それと比例するように己の心が冷え切っていくのも。
「どうしてここに……違う。母さんって。じゃあこの人はオルガの……」
首を振りながら彼女は後退る。
それが演技でなければ、今しがた彼女が命を絶った相手の素性を詳しくは知らなかったのだろう。
だけどそんな事はオルガには関係ない。
知っていようがいまいが。
起きてしまった出来事は変えようがないのだから。
好ましく思っていた幼馴染が母親を斬った。
そんな悪夢のような光景は、どうあがいても変わらない。
「……何でだ」
母の身体をそっと横たえる。
友人だと思っていた。
少なくとも六年以上の時を共に過ごしてきた。
だからこそ、この凶行をオルガには理解できなかった。
どうしてこんなことを。
その動機を。
答えろと視線に込めて睨んだ。
俺を納得させられる理由があるならば言ってみろと。
「答えろよ、スー!」
その名を呼ぶことで、彼女は――スーと呼ばれた幼馴染は覚悟を決めた様に眦に力を込めた。
その口元が引きつった笑みを浮かべる。
「何で?」
その口からオルガの疑問が繰り返される。どこかタガの外れた様な調子で。
「オルガはいっつも言ってたよね。どうして私の力は強いのかって」
何故、そんな事を今言い出すのか。全く関係の無い様な事をどうして。
「ねえオルガ。魔獣は知ってるよね?」
当たり前だった。知らない筈がない。
「思った事は無い? どうして人間は魔獣にならないんだろうって」
「それ、は」
ある。あるけど常識がならないと言っている以上追求できなかった。
「答えは簡単。人間が魔獣になっちゃうと、強い上に賢いから見つかんなくなっちゃうだけ」
そう言ってスーは両手を広げた。頬に母の返り血を付けながら。まるで化粧の様に。
「私がそうなんだよ」
その瞳がオルガを捉える。
「人を食べちゃう悪い魔獣。人を殺しちゃう悪い魔獣。そんなのになっちゃった」
歌う様に、スーは己が悪であると。そう告げてくる。
怪物であると。そう言ってくる。
「スラムはとてもいい食事場所だったよ? 一人や二人いなくなっても……誰も気づかないんだもん」
「お前、まさか……」
スーの露悪的な言葉に、オルガの中で一つ繋がった。
連続行方不明事件。その犯人はつまり――。
「そう。こっそり悪い魔獣は人を攫って食べていたのでした。オルガの夢を邪魔する人を食べちゃえば更にお得だよね?」
オルガの知るだけでも十人以上。人知れず消えた者も含めれば更にもっと。
それだけの数を。
そしてそれらの多くが所謂マフィアの一員だった事。
スーの言葉が繋がっていってしまう。
「お前が……?」
「お腹が空くんだもの。お腹が空いて、お腹が空いて。何を食べても飢えが満たされない……分かるでしょ? それがどれだけ苦しいのか」
飢餓の苦しさは良く知っている。餓死寸前までいった事は無いが、それでも飢えている時間の方が長かった。
その告白を聞いて尚。信じられない。
目の前で母親を斬ったところを見て尚。信じ切れない。
この幼馴染が。目の前で兄弟が喧嘩しているのを見るだけで泣いてしまう幼馴染がそんな事を本当に……?
「ねえオルガ」
スーの視線が、オルガが手にした短刀に移った。
「それ、どうするの?」
ハッとなる。その言葉に反射的に構えてしまった。まだそれをどうするのかも決めていないのに。
「私を、刺すの?」
連続行方不明事件の犯人がスーだというのならば。
そんな罪を犯したのだというのならば。
オルガが止めないといけない。もしもスーが悪い事をしたら叱る。そう約束したのだ。
あの時こんな事になるなんてこれっぽっちも考えていなかったけど。
叱ってどうにかなるとは思えないけど。
これ以上彼女に罪を犯させないためにもここで止めなくてはいけない。
剣を持った相手にこんな短刀一本で。遊びの中でさえ叶わぬ相手に立ち向かうというのが、最早自殺だと理解していても。
その上で相手を取り押さえることまでを望むのはいくら何でも奇跡を安く見過ぎだろう。
「……それとも、オルガが私を守ってくれる? 色んなものから」
そう言ってスーが手を差し出した。その右手が震えている。
きっとスーはこれから追われる。聖騎士がきっと追いかけるのだろうと。オルガは漠然とそう思った。
その追手からスーを護る。そんな道を彼女は示していた。
スーを護るという誓い。それを果たすならば――その道しかない。
シンプルな二択だ。
スーを護るか。
スーを殺すか。
その二択を前にオルガは。
「俺、は」
これまでの思い出が蘇る。
初めて出会ったときの事。
沢山遊んだ事。
多くは他愛のない、ありふれた物だ。
だけどオルガの思い出の中には何時だってスーが居た。
その彼女が伸ばしてくる手を、振り払うなんてオルガにはできない。
だけど。
母の顔を思い出す。つい数時間前にも無理をしないでと己の頭を撫でてくれた手を思い出す。
それが奪われた。
その事実を、無かった事にはできない。
「俺は……」
誘拐未遂の時に、護ると誓った。
自分よりもスーの方が強いとしても何時か強くなると。
ああだけど。その誓いをオルガは一度投げ出してしまった。
聖騎士になるという約束を破った。強くなる事を放棄してしまった。
悪い事をしたら叱ると約束した。
スーが悪い人にならないようにすると。
ああだけど。今の自分はどうか。彼女を叱るに値する人間か?
あの男の誘い。それが最終的にどういう事になるのか。自分は想像して頷いたはずだ。
スラムを纏めるグループの一つが、まさか慈善事業で成り立っているはずがない。清廉潔白である筈がない。
それを理解して頷いた自分に、誰かを叱る権利などあるのだろうか。
自分が彼女との約束を果たそうとしていたらこうはならなかったのだろうか。
「俺は……!」
その短刀を。その右手をオルガは。
オルガは見落とした。