41 0-3
十二歳になった頃。
オルガは夢を忘れた。
「ねえオルガ」
「……何だよ」
ちょこちょこと後を着いてくるスーに、オルガは若干疎まし気な視線を向けた。
「今日も仕事?」
「……ああ」
「昨日もそう言ってた……」
「忙しいんだよ」
そう忙しいのだ。金が、必要になってしまった。
「母さんが体調を崩してるんだ。薬代を稼がないと」
「お母さん……大丈夫?」
「本人はちょっと風邪ひいただけだって言ってる」
が、それが嘘なのは医学の素人であるオルガにだって分かる。ただの風邪で布団から起き上がれなくなるという事は無いだろう。
「家に寝かせておくにしろ、医者に診せるにしろ……金が要るんだ」
元々、母親がオルガを養っていたのだ。その働き口については――不明だが、収入が途絶えたのは間違いない。
多少の蓄えはある様だったがそれも出て行くばかりでは何れ干上がる。
金。
金。
金。
今動けるのがオルガだけな以上、オルガが稼がなければ遠からず内に飢え死にする事になる。
この年齢ならばまだ働くのは半日程度と言うのがこの辺りの慣例だが、それを無視してオルガは日中フルタイムで働いていた。
それでも尚、まだ足りない。子供の稼ぎなど微々たるものだと笑う様に。
「オルガ……その」
スーが何事か言いかけた。その内容を察したオルガは鋭く睨む。
「それ以上言うなよ」
「でも……」
「絶対に言うな」
スーの家が裕福であろうことは、もうこの時のオルガにだって分かっていた。
きっとそれは、スラムの二人暮らしに施すのだって出来る位なのだろう。
オルガが必死になって稼ぐ金額を、もしかしたらスーは小遣いで貰っているかもしれない。
だけどもしもそんな事をされたら。
オルガはもう二度とスーの事を友達とは言えなくなる。ましてや、彼女を守るなどと言う事は口が裂けても。
だからそれだけは絶対に言わせない。
「分かった……」
「それから、もうあんまりこっちには来るな」
オルガがそう言うとスーは泣きそうな顔をした。
「何で……?」
「危ないからだよ」
この前十一歳になったと喜んでいたスーは、その年齢相応に背も伸びた。
幼い頃から優れた器量を持っていた童女は成長して、その器量を花開かせつつある。
長く伸びた銀色の髪は、この辺りでは見ない美しさだし。そもそもの話として健康状態からして違う。
スラムに居る同年代とは一線を画した肌艶。
多少は馴染むように気を遣っているのであろうがそれでも上等な衣類を纏っているだけでこの辺りでは噂になる程度の美少女だ。
必然、邪な視線を向ける者も増えて来た。こうして隣で歩いているとそれをオルガは感じる。
決して治安が良いとは言えない。
流石に日の出ている内から何かするようなバカはいないとは思うが――。
「大丈夫だよ。私強いもん」
「それは知ってるけどな」
未だ勝てない。確かに、暴漢の一人や二人ならどうとでも出来るだろうなとは思う。
「大勢に襲われたらどうするんだ」
後先考えない連中は何処にだっている。
食い詰めた連中が纏まれば何をしでかすか分からない。そうなってからでは遅いのだ。
「実際、ここしばらくスラムも物騒なんだよ」
突然、姿を消した者が居る。
「逃げたのか誘拐されたのか殺されたのか……どっちも分かんねえから何とも言えないけど」
スラムの中には大雑把に三つのグループが存在している。それがそれぞれ縄張りを主張して一種の秩序を作り出している訳だが。
そのグループの一つの中でそこそこの立場の人間も一人消えたらしい。
借金で首が回らなくなって逃げるということは有り得ない。
誘拐か殺害だとしたらそれは他の二つのグループどちらかの仕業だと言って非難するし、残りの二つは自作自演だと言って取り合わない。
結果、急速にスラム内では空気が悪化していた。
それこそこのままだと抗争になりかねない程に。
「兎に角行方不明事件をきっかけに大分ヤバい事になりそうなんだよ」
「行方不明……」
スーがその言葉を繰り返す。
「それに来たって俺も仕事してるから遊べないぞ」
それは他の連中も大体同じである。あの頃遊んでいた内の幾人かはそれぞれ仕事をしていて、中々集まれなくなっている。
それに今となっては、彼らもスーとは余り遊ぼうとしない。表通りの人間であると。良い所の子供であると。
そう気付いてしまえば他意無く過ごすことは難しい。
オルガだってそうだ。
隣に居ると自分がとても情けなく思えてくる。
「早いとこ一人前になってもっと給料もらえるようにしないと……」
そう呟くとスーが足を止めた。
先行する事になったオルガが振り向く。
「どうした?」
「オルガ、このまま働くの?」
「お前俺の話聞いてなかったのかよ。母さんが――」
「そうじゃなくて。そうじゃなくて……」
ここに来るなと言われた時以上に悲しそうな顔をしながら。
「聖騎士、ならないの?」
その問いかけにオルガは表情を顰めて視線を逸らした。
彼女の真っ直ぐな視線を見て居られなかった。
「なれないよ」
働いて、金を稼いで。人伝に聖騎士になるための方法を調べてはいた。
オルガが働いているのは酒場だ。人は集まるのでその点で苦労はしなかった。
そうして分かったのは、とても無理だという事。
「だって、養成学院は誰でも入れるって――」
「入学試験を受ける事が出来ればな」
その為の金額は――凡そ現在のオルガが二年間働いて稼いだ金額と同等だ。
一般的な家庭ならば恐らくはそこまで苦労しない。
だけどこのスラムにおいては……大金だ。そんな金は、オルガの家のどこにもない。
「そんな金……うちには無い」
立ち尽くすスーにオルガは背を向けて歩き出す。
仮にあったとしても、伏せっている母親を一人置いていくわけにもいかない。
結局のところ。住む世界が違ったのだ。
オルガはスーに手を引かれなければあの光景を見る事が無かった。
スーが居なければ聖騎士に憧れる事も無かった。
ほんの一時、オルガはスーを介して見果てぬ夢を見ていただけなのだ。
「だから諦めたよ」
そう言うとスーはこれまで聞いた事の無い様な大声を出した。
「オルガの馬鹿! 嘘つき!」
そう言って、来た道を戻っていく。追いかけようかと一瞬迷った。
だがここで追いかけたら仕事に遅れる。
これでいい、とオルガは思う。胸にぽっかりと空いた孔を無視して。
お金が無いと進路を選べないのは割とよくある話……
オルガ、心が折れる