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さよならのワルツを君に  作者: 駄作量産機
5/5

5 月夜のコンサート

 僕は夜道を全速力で駆け抜け、夜の中学校へ向かった。校庭に隣接する玄関の夜間来客者用扉を開けるカード―キーを使って、中に入る。土足のまま上がったが、マナーのことを考える余裕は僕になかった。


 懐中電灯で廊下を照らしながら階段へ向かい、三階に駆け上がる。既に上から子犬のワルツが聞こえていた。美月がいる。


 美月、僕だよ。僕が「⋯⋯君」、空見だよ。


 三階に上がって音楽室の鉄扉前に立つと、急に緊張と恐怖に襲われた。僕が美月のずっと会いたがっていた「……君」だと知ったら、彼女はどうするだろう。再会を喜ぶか、それとも呪い殺すだろうか。


 いや、自分がどうされるかなんてもうどうでもいい。美月を十二年間も孤独にし、音楽室に呪縛させてきたのはこの僕なのだから、どんな罰を受けても文句は言えないだろう。


 自分にそう言いつけて、死を恐怖する本能を頭の片隅に押しやって僕は音楽室の扉のドアノブを回す。


 扉が開かれると、満月の青白い光に照らされる仄白い音楽室が現れた。窓際のグランドピアノは独りでに動き、子犬のワルツを奏でている。僕はスマホを取り出してカメラ機能を立ち上げ、ピアノに画面を向ける。月光と同じ輝きを放つ美月が、そこにいた。


「美月ちゃん!」


 美月は鍵盤から手を放し、こちらを見て微笑んだ。


『警備員さん! こんばんわ。どうしたの、息荒いよ? 走ってきたの?』


 僕は美月に近づき、丸い瞳でこちらを見上げる美月を見下ろしながら言った。


「美月ちゃん、あんた僕の顔に見覚えがあるんだろう?」


 美月は眉をひそめて僕を見つめた後、頷いて答える。


『うん⋯⋯私のよく知っている人と面影がよく似ていると思いました』


「やっぱりそうか」


『やっぱり? どういうことですか?』


 僕は固唾を呑んで黙り込む。僕が空見だと言った時、飛んで来るのは罵倒か、泣き声か、幽霊の死の刃か。本当のことを言わなければという思いと、死の恐怖が葛藤して僕は何も言えなくなる。


 美月は眉をひそめて僕を見つめ、どうしたんですか? と訊いた。あの可愛らしい顔が泣き顔、或いは憎悪に豹変するかもしれない。


 だが、それでも。適当に約束してすっかり忘れ、結果的に少女を十二年も孤独にし未練に捕らえさせ続けた罰は受けなければ。そう心の奥から訴えてくる自分の声に助けられて、僕は恐怖を押し退け口を開く。


「あ、あのね⋯⋯僕が⋯⋯」


 喉が震えて言葉が出ない。続きの言葉を言った瞬間、そこで人生が途絶えてしまったらどうすると訴える本能が、喉の筋肉を固まらせた。それでも償いの気持ちを消せない僕は意思の力で口を動かし、思い切って真実を口にする。


「ぼ、僕が⋯⋯僕が空見だ! あの時、完璧な子犬のワルツが引けたら土下座すると約束した少年は、この僕だっ!」


 美月は肩を震わせて顔をひきつらせ、両手を胸の前で合わせる。交差された手は小刻みに震えていた。告げられた真実に打ちのめされたのか、美月は固まって黙り込む。


 言ってしまったという後悔と、でもこれでよかったんだという達成感が混じった矛盾する気持ちが込み上げ、僕は溜め息をつく。


 僕らの間に張り詰めた緊張と静寂が訪れる。


 窓の向こうに広がる紺碧の夜空を過ぎっていく雲が、満月を数秒ほど隠した。光が遮断されて、音楽室が束の間薄暗くなる。再び月が現れて淡白い光が室内を満たした時――美月の泣き顔が僕の目に飛び込んだ。


 美月の青白く透けた頬を涙の線が伝っていく。彼女は微笑みながら泣いていた。


「何だ⋯⋯やっぱり、あなただったの。どうりで顔立ちが似ていると思ったの。十二年で随分変わったね。三十手前になって老けたせい?」


 彼女の話し方が、同年代の友達と会話するようなものに変わる。


 美月は僕に近寄り、少し怒ったような口調で言った。


「もう、空見君。どれだけ私を待たせたと思っているの、馬鹿」


 美月の片手が僕の頬を叩こうとするが、幽体なのですり抜けてしまう。十二年分の怒りを込めたビンタの痛みを食らいたかったな、と僕は残念に思う。


「ごめん、約束したことすっかり忘れていたんだ。美月とは三日間しか会っていなかったし、おまけに自分馬鹿だからーとか自虐するし、やたら態度でかいし、あんまり良い印象じゃなかったからいらん記憶として処理されて忘れたって感じになっちゃった」


 正直なことを言わないと怒り出す美月の性分を思い出し、僕は素直にそう告げた。美月がどんな態度に出るか緊張したが、彼女はくすくすと嬉しそうに笑って言う。


「あはは、むかつく性格も十二年前と何も変わってないんだね」


「何だよ、失礼な」


 そう言って僕も笑う。いつの間にか死の恐怖や緊張は吹っ飛んで、心は楽しい気持ちで満ちていた。

 十二年前、美月が交通事故に遭わなければこんなふうに二人で笑い合っていたことも有ったのだろうか。


 そして友達になる、ということも有り得たのだろうか。


 有り得たかもしれない未来を想像していると、美月がピアノの椅子に座って鍵盤に手を置いた。


「じゃあ空見君、十二年前の約束、果たしてもらうからね」


 十二年前の約束。完璧な子犬のワルツを弾いて僕をぎゃふんと言わせ、土下座させるという内容だったはずだ。しかし――。


「完璧な子犬のワルツ、弾けるのか? つい昨日まで突っかかりまくりだったのに?」


 美月は鍵盤に置いた手のひらを蜘蛛の足のように開き、真剣な表情を浮かべて言った。


「⋯⋯めっちゃむかつくあなたに土下座させるって未練を拭うには、もうそうするしかないの」


 自分を音楽室から開放するには、もうそうするしかない。という意味に受け取れた。


 僕は念を押すように言った。


「本当にやれるのか?」


 美月は頷き、意地悪な微笑みを浮かべる。


「あんたが土下座して泣く姿を見たいもの」


「そうか。できるかどうかわからないけど、やれば?」


 美月は意外そうに言った。


「あら、前みたいにどうせできないでしょって否定しないのね」


「だって⋯⋯完璧なワルツを弾けるようにならなきゃ、美月は⋯⋯」


「わかってるよ」


 美月は目を閉じ、息を長く吐いて無言になった。すると美月の幽体から放たれる青白い光の輝きが増し、彼女の周辺が白く明るんだ。集中力を研ぎ澄ましたことで、霊力が増したのかもしれない。


 暫しの静寂が流れた後、美月は目を見開く。


「じゃあ、いくよ」 


 いよいよ始まるのだ、十二年前の約束を果たすときが。僕は固唾を呑んで美月の両手を見据えた。 


 美月を呪縛から解く、月夜のコンサートが開幕する。


 美月は一瞬両手を少し浮かした後、子犬のワルツを引き始めた。


 いきなり高速で難解なメロディーから始まるが、一切突っかかることはなかった。

 美月の指は肉体という物理的制限がないせいか、残像が見えるほど速い動きで鍵盤を叩く。目にも止まらぬ速さを維持したまま、ほとんど緩急のない息もつかせぬほど素早い曲を紡いでいった。


 今まで突っかかってばかりで己の未熟さに泣いていた美月は今、全身全霊で集中しているようだった。一切の雑念と感情と劣等感を取り払い、瞑想するように意識をワルツの演奏に没入させている。そんな感じだ。 


 子犬のワルツのメロディーはいつの間にか中盤に入っていた。最初と違い音域や引く鍵盤の幅が広がって、より複雑難解な曲になっていく。


 それでも美月は一片たりとも音を間違えることも抜かすこともなく、難なく乗り越えていく。僕は呆気に取られた。これが、今まで自分は馬鹿だの才能がないだのと罵ってめそめそ泣いていた少女の姿なのだろうか。


 見違えるほど綺麗なメロディーを奏でる彼女に驚愕するあまり、脳が、思考が、身体が停止して僕は空っぽになり、何も考えられなくなった。初めて美月に遭遇した時、恐怖するあまり周囲の時間が止まったようなあの感覚に囚われながら、僕は美月の演奏に意識の全てを向けていた。 


 ワルツのメロディーはいよいよ終盤に入り、フィナーレを迎えようとしている。メロディーは今までにないほどの猛烈な速さと難解さに跳ね上がり、美月の表情が段々と苦渋に満ちていくのが見えた。しかし苦悶の顔とは反対に、手はもはや指先が見えないほど加速されていき、さらに微塵にも精度を落とすことはなかった。


 人間離れした速さと繊細さで奏でられるメロディーは最後の瞬間に向け、荒れ狂う急流のようになっていく。


 美月の洗練されたワルツが、怒涛のような勢いの水流となって僕の脳を洗い流していくようだ。脳細胞の全てを呑み込んで分解し、音の海に溶けさせるような表現し難い感覚が僕を囚える。 


 そしてワルツはいよいよ終盤の締め部分に入り、今までにないほど複雑なメロディーと速さになっていく。


 これが最後だ。僕は息を殺して、猛烈なワルツのラストスパートを見守った。


 最後の瞬間に向けて異次元のスピードとカオスさに飛躍するワルツの締め部分は、音の海に溶かされた僕の脳細胞が渦巻に呑まれ、分解され、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていくような錯覚を与えた。僕そのものがワルツの渦巻に呑み込まれて、形を無くしてゆく。最後の瞬間に向けて。


 締め部分が終わりへと近づく。美月は顔の筋肉を引きつらせ、歯を食いしばって、鍵盤が壊れんばかりに叩く。


 あと、少しだ。


 僕は無意識に拳をぎゅっと握る。


 頑張れ、美月。 


 ラストスパートが終わる。


 あと、少しで――。




 その瞬間、一拍の大きな音と共に美月の両手が大きく上に上げられた。


 終わったのだ、美月の完成されたワルツが。


 静寂が訪れ、風が窓を叩く音がした。  


『空見君。弾け⋯⋯たよ。私、弾けたよ。完成された子犬のワルツを』


 スマホから、美月の驚きと喜びの混じったような震えた声がした。


 緊張が解け、脱力した僕はその場に座り込んで俯く。


 美月は無事、完成されたワルツを引き終えた。約束通り、僕は美月に頭を下げなくてはならない。


 僕は姿勢を正し、美月に向かって正座しゆっくりと頭を下げる。すると美月が立ち上がって、僕のほうへ近寄ってきた。


 美月の夜風のように涼しい幽体の手が、僕の頭に触れる。


『はい、よくできました』 


 その時、さらさらと何かが崩れていくような音がスマホから発せられた。 


 同時に、僕の頭に触れていた美月の手の感触が薄らいでいく。


『もう、これで⋯⋯』


 何が起きたのかと悟った僕はスマホを手に取り、画面を美月に向ける。


 美月の幽体が青白い光の粒子を散らして、消えていくのが見えた。


 未練を浄化し、美月は成仏していく。


「美月ちゃん⋯⋯」


 小さな水泡に包まれるように消えていく美月は、涙を流しながら僕を見つめて言った。


『ははは⋯⋯これじゃあ子犬のワルツじゃなくて、さよならのワルツだよね』


 今まで美月が弾いていたのは、僕とこの世の全てにさよならをするために弾き続けたワルツ。


「ごめん⋯⋯ごめんね、美月ちゃん⋯⋯」


 美月は首を横に振り、言った。


『約束、思い出してくれてありがとう』


 美月の身体の形が歪み、光の水泡の塊と化する。


『さよなら、空見君⋯⋯』


 青白く輝く光の水泡は窓をすり抜けて、夜空の彼方の満月に吸い込まれていく。


 美月は無事、昇華したようだ。


 僕はゆっくりと立ち上がり、美月の消えていった夜空を見つめた。


 偶然の出逢いが、束の間の触れ合いが、たとえ僅かな間で、自分にとって特に思い入れのないどうでもいいものだったとしても。

 それは誰かにとって、一生忘れられない宝物のような時間だったかもしれない。


「さよなら、美月ちゃん」


 満月の白銀の輝きが、もう二度と深夜に奏でられることのないピアノを黒曜石のように照らしていた。

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