表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さよならのワルツを君に  作者: 駄作量産機
4/5

4 遠い記憶の断片

 早朝に仕事を終えて自宅に戻った僕は、ベッドに身をうずめて夕方になるまで目を閉じていた。


 時刻は午後五時。ベッド横のカーテンの隙間から射し込む柔らかな夕光が、瞼の裏を橙色に染めている。昨日は恐怖で身動きが取れなかったが、今日は音楽室に十二年も留まり深夜にピアノを弾いてる美月のことを思い耽って動けなかった。


 自分の中で、美月は音楽室の亡霊という恐ろしいイメージから、思い出のむかつく人にワルツを聞かせてあげたいがため練習を頑張る健気な少女に変わっていた。


 彼女も生きている人間と同じく、誰かのために頑張りたいと思う気持ちがある。それには共感を呼ぶものがあり、なんとかしてやりたいという援助の気持ちを湧き上がらせた。


 残りの勤務期間はあと五日。それまでに『⋯⋯君』のことを少女から聞き出して、彼の居場所を特定⋯⋯否、とそこで僕は思考を閉ざし首を横に振る。たとえ彼が見つかったとしても、会ったこともない奴にいきなり話しかけられ、「深夜の音楽室に来てくれ」なんて言ったら誰だって拒否するだろう。


 この時点で既にアウトだった。僕は頭を抱えて残念に思う。三年A組の同窓会でも開かれれば『⋯⋯君』に会えるかもしれないが、開会される可能性はほとんどないだろう。


 完全に詰んだ、と思い僕はやりきれなさ任せに前髪をぐしゅっと握りしめる。


 「ごめん⋯⋯やっぱり何もしてあげられないかな」


 改めて自分は無力だと自覚し、やるせない気持ちになった。


 美月を助けてやることができなければ、この先何十年、百年経っても学校が残り続ける限り、彼女は永遠に音楽室に囚われの身になるだろう。だが、自分にしてやれることは残念ながら何もない。一週間の勤務を終えたら、自分は美月が永遠のピアノ練習を送る永い日々を見送ることになる。


 何とかしてやりたい、という気持ちだげが胸に残る。


 しかし、それ以上美月のことで思い詰めるのは無駄だと思って、僕は掛布団を被る。日光が遮断された薄闇の中で呆としていると、いきなり睡魔が襲ってきた。昨日の恐怖感が消えて、眠気がちゃんと発生するようになったのだろう。


 あと少しで出勤時間であるのも忘れて僕は睡魔に身をまかし、眠りの淵へと落ちていった。


 ――⋯⋯君、一体どこにいるんだ。あんたが来るのを待って、十二年も待っている人がいるのに。


 歯がゆさに包まれながら、僕は微睡んでいく。


『そっかあ。私のこと、どうでもよかったんだね』


 意識が完全に途切れる寸前、少女の苦笑混じりの声が脳内で聞こえたような気がした。




 ◇ ◇ ◇

 


 僕は夢の中にいた。中学三年生の時、音楽室の鉄扉越しに子犬のワルツを聞いた時の記憶の夢だ。


 中学生の頃の自分と、未来の自分が僕の中で溶け合って一つの自我になっている。そんなあやふやな精神状態で、僕は夢の景色を見ている。


白黒化された廊下に、音楽室の鉄扉がある。僕は扉の前に佇んで、室内から聞こえてくる子犬のワルツを聴いていた。


 今日もあいつはピアノを弾いているのか、と僕は思った。思考は半分、十二年前の僕に戻っているらしい、と意識がぼんやりする中なんとなくそう思う。


 僕は歩き出し、音楽室の鉄扉から離れていった。暫く歩き続けると視界が白くかすんで、また音楽室の前に立っていた。今度は鉄扉が開いていて、厚い扉の防音効果によりくぐもって聞こえていたピアノ音が大音量になっていた。


 入口向こうの窓際には、眩い日差しに照らされるグランドピアノがあった。椅子に座って美月が下手な子犬のワルツを弾いている。彼女の綺麗な横顔と一生懸命弾いている姿に少し心惹かれて、僕は音楽室の中に入っていった。

 

 僕は美月に近寄り、彼女が演奏する子犬のワルツを聴いた。美月は演奏に夢中で、こちらに目も向けない。下手な演奏は長いこと続き、なんとか最後まで弾き終わると美月はため息をついて鍵盤から手を放す。


「やっぱり、どんだけ弾いてもうまくなんないなあ。下手過ぎて話になんないわ。ねえ、あなたもそう思わない?」


 いきなりそう訊かれて、僕は返事に困った。美月がこちらを向いて、さらに問う。


「お世辞はいらないわ。いっつも来るあの男子は褒めてくれるけど、絶対本心じゃない。心から上手いだなんて思ってない。ねえ、あなたはどう思う?」


 未来の僕の思考が、『いっつも来るあの男子』とは田中のことだろうかと思った。


 なんだかヒステリックな態度を取られ、十五歳の僕は余計に戸惑った。美月は立ち上がり、僕に一歩近寄る。


「あなたはどう思うのって」


 綺麗な顔が怒りで歪むを見た僕は気圧されて、答えざるを得なくなった。


「途中で止まりまくるし、音間違えまくってたし、下手だと思う」


 すると少女はにっこり笑って、「よろしい」と答える。


 その時、音楽室の入口から数人の女子生徒たちが顔を覗かせ、馬鹿にするように笑い出した。


「ピアチャン、下手なくせによく続けられるもんだわー」


「毎日毎日うっさいのよ。みんなに雑音を聞かせるその悪趣味、早く止めてくれない?」


 美月は椅子に座り、俯いて無視する。僕は急に黙り込んで大人しくなった美月を見て、正直に下手と言えと言ったくせにと思いつつ、でも今の悪口で傷ついているなら彼女らを追い払ってやろうと思い、注意した。


「やめろよ。確かに下手だけど、下手だと自虐しながらもずっと続けられてんだからメンタル凄いと思う」


 変に褒めたら美月に怒られるんじゃないかという恐れと、自虐的な美月を揶揄するつもりでわざと『凄いと思う』と言ってしまった。


 女子生徒たちはげらげらと笑った。


「援護になってないしー」


「まじうける」


 そう言って少女たちは駆け出し、廊下の向こうに消えていった。


 美月は椅子に座って俯いたまま黙っていた。なじられて泣きそうになっているのかなと思って慰めの言葉でもかけてやろうかと思ったが、美月はなぜか楽しそうにくすくす笑い出した。


「何笑ってんの?」


「ちょっと嬉しかったの。下手だと自虐しながらもずっと続けられてんだからメンタル凄いと思うって言葉が」


 若干馬鹿にしたつもりで言った言葉だったんだけどな。でも美月は嬉しそうに笑っていた。


「私、下手なのわかっているけれど、でも馬鹿だから練習諦めきれないんだなって思ったよ。ははは、馬鹿は馬鹿なりに続けてみるのがいいね。⋯⋯ありがとう。ちょっとすっきりした」


 貶したはずなのに、逆に喜ばれて少し僕は戸惑った。


 その時、チャイムが鳴った。美月は慌てて椅子から立ち上がり、音楽室の入口へ向かうとこちらを振り返る。綻んだ美月の綺麗な顔は、胸を掴むような何かがあった。


「それじゃあ、またね」


 少女は廊下の向こうへ消えていった。僕も急いで廊下に出て、教室へ戻る。廊下を進む中、僕は音楽室での出来事を振り返って苦笑する。


(なんなんだよ、あいつは)


 むかつくとは思わないが、随分変な奴だと思った。だから皆からなじられているのだろう、と僕は思う。でも、悪口を言われても一切挫けない姿は、薄っすらとだがどこか印象に残った。廊下を歩いていくその途中で視界が白くなって、また音楽室の光景が目前に広がった。


 美月が窓際のピアノで子犬のワルツを弾いている。下手だと自覚しながらも、心が弾くことを止められずピアノに魂を縛られる少女の姿だった。

 

 最初に扉越しで出会ってから三日ほど、僕は美月のもとへ行って彼女を小馬鹿にした。廊下に毎度うるさい雑なピアノ音が鳴り響いて鬱陶しいし、下手なくせにプライドだけは高い彼女を少しいじってやりたい、といういたずら心があったから。


「才能ないやつは頑張るなって言葉があるけど、馬鹿だから同意できない?」


 僕がそう言うと、美月はにやにやしながら言い返す。


「一体どの部分を指して才能ないと断定しているのか、詳細を言えない空見君も説得力のある言葉を言う才能ないね。今は下手だけど、練習を重ねればそれなりに腕は上がると私は思うけど?」


 僕が何度なじっても彼女はああ言えばこういう、という状態が繰り返された。そして二日目も、休み時間が暇だったのでまた僕は美月を馬鹿にしに行った。


「やぁ、雑音量産機ピアチャン」


「残念、あだ名のセンスがないのでがっかりしませんでした。それに、私はこれからもピアノやめないもん」


 美月は鼻で笑って、私馬鹿だから諦めないもんと自虐し返した。


 そして三日目、毎日毎日よく諦めないものだと呆れ半分に感心しながら僕は音楽室の中に入る。ピアノのそばへ寄り、僕は美月を馬鹿にしてみた。


「下手なのが嫌だったら、ピアノの先生に教えてもらえばいいだろ。自力でやるよりましじゃねえの。どうせこのままじゃ上手くならないんだろ?」


 美月は手を止めて、首を横に振る。


「いいえ。他人の力なんて借りたくないもん。私馬鹿だから、自分で何とかしたいの。少しでも上達できるなら、死ぬまで練習をやってやるわ」


「あっそ。無駄な努力になるかもとは思わないわけ?」


 すると美月は鍵盤を乱暴に叩きつけて椅子から立ち上がった。ガーンッというよく聞く効果音と似た大きな音が音楽室に鳴り響く。


 美月は形の整った目を鋭く細めて僕を睨み、言った。


「うっさい。あんたほどのネチネチ嫌味野郎ははじめて。いっつも私を馬鹿にするあの女どもよりめっちゃむかつく」


「だってあんたが正直なことを言えっていうから⋯⋯」


「でもむかつく! もういいわ、こうなったらあんたを土下座させてやるから、必ず!」


 僕は嘲笑い交じりに「土下座?」と返す。美月は腰に手を当てて微笑み、頷いて続けた。


「私、卒業する前に完璧なワルツを弾けるようになってやるわ。あんたに聞かせて土下座させてやるの。いい? 約束よ」


「わかった。どうせできないと思うけど」


「できるようになるまで頑張るよ。だって私、馬鹿だもん」


 そう言って美月は微笑んだ。明るい態度で自虐を続ける彼女に根負けした気持ちになり、僕は折れて音楽室から出ていく。背後から美月の声がした。


「約束、忘れないでねー!」


 僕は無視して音楽室から抜け出す。途端にまた視界が白くなり、今度は美月が泣きながらピアノを弾いている光景が見えた。


 白くきめ細かい肌を涙で濡らし、嗚咽を上げながら美月は泣き言を漏らす。


「やっぱり⋯⋯できない⋯⋯できないよぉ⋯⋯」


 美月は片腕で目を拭い、また鍵盤に手を置いて子犬のワルツを弾きはじめる。前の威勢はきっと強がりだったのだ、と僕は美月の泣く姿を見てそう思った。


 他人の前では自虐しつつ胸を張っていたが、知らないところでは自分の無力さを嘆いてめそめそと泣いていたのだ。自分自身で言っていたように馬鹿だからか、それとも根性があるから強がれたのか。


「⋯⋯君、あの人に、完成したワルツを聞いてもらうまでは諦められない。できなきゃ負けだもの」


 できなきゃ負けだもの。そうか、その言葉の意味は嫌味を言いまくってきた「⋯⋯君」をぎゃふんとさせたい気持ちから来たものだったのかと僕は納得する。


 音楽室の日差しが一瞬輝きを増して、僕の視界を覆う。場面が変わり、僕は三年A組の教室の自席に座っていた。教壇では、美月が亡くなった知らせを涙ながらに告げる教師の姿があった。


「三年B組の雪原さんが亡くなりました」


 むせび泣きながらそう告げる教師とは反対に、生徒たちは騒いでいる。美月の死にショックを受けたというより、むしろ人の死に直面し普段では味わえない非日常感を楽しんでいる様子であった。


 僕も別に悲しいとは思わなかった。彼女と触れ合ったのは出会ってから三日間のみで、さらに性格がヒステリックで、高圧的な変な女という嫌な印象しかなかったから。内心、ふーんとしか思っていなかった。


 だが、中学三年生の僕の中にいる未来の僕の意識は今、後悔と罪悪感に苛まれていた。


 そうだ。十二年前の僕らにとって、美月の死なんてそれほどどうでもいいものだった。いつもピアノを弾いている変な女の子ピアチャン、美月という女の子は僕らにとってその程度のものでしかなかった。


 だから美月と話した三日間の出来事など、受験の忙しさにあっという間に埋もれ、卒業する頃にはすっかり忘れていた。そして高校の三年間では新しい友達や美月みたいな可愛い顔の彼女も出来て、大学の四年間でも友人たちと充実した毎日を送った。就職してからは、仕事を五年以上転々として忙しい日々を送り続けた。


 中学卒業から十二年の長い歳月が経ち、美月といた時間よりも大切で楽しい数百もの記憶の山に、彼女との印象薄き三日間は埋もれていった。無意識の奥底にまで三日間の記憶は沈み込み、未来の自分にとっては美月との会話も、約束も無かったことになったのだ。


 いつの間にか、僕の中から雪原美月という少女はいないものになっていたのだ。


 場面は教室の中から、また音楽室に切り替わる。室内では、たくさんの生徒たちが机に座って教壇に立つ先生の話を聞いている。生徒たちの前方の窓際には、青白く輝く美月の姿があった。彼女は寂しげな表情で生徒たちを見ている。


 美月が死んだ後の光景だろう。彼女は音楽室に留まり、誰からも認識されずひとりぼっちで日々を送ってきたのだ。


 僕が美月を忘れてしまったせいで。


 胸に広がる後悔の色が濃くなる。僕は美月を見つめて謝る。


「ごめんね、美月ちゃん⋯⋯」


 すると美月がこちらを見て、悲しげな微笑を浮かべ言った。


『どうでもよかったんだね、私のことなんか。いちいち私に文句を言いに来たねちっこいあんたなら、忘れないと思っていたのに』


 途端、意識が浮上し僕は現実に戻った。



 ◇ ◇ ◇



 夢で見た内容が、そのまま現実世界の僕に持ち越される。


 全てを思い出した。この十二年間、ずっと無意識の奥底に封印されていた美月との三日間を思い出した僕は、上半身を飛び起こして顔を覆う。


 目の奥が熱くなって、涙が指の隙間からぼろぼろと零れ落ちる。夢の中で感じた後悔と罪悪感はより強烈なものになり、涙をとどめなく溢れ出させた。


 三年A組、物凄くむかつく人、約束⋯⋯。


「⋯⋯君」は僕だったのだ。


 僕は腕で涙を拭い、謝罪する。


「ごめん⋯⋯ごめんね、美月ちゃん」


 あの時、適当に約束なんかしなければ。僕が高校、大学で人生を謳歌している十二年の間に、美月はたった独り誰とも話せず、孤独に耐えながら子犬のワルツの練習をし続けることはなかった。


「⋯⋯君」すなわち僕、空見君を待ち続けることもなかったのだ。


 音楽室の怪を作り出したのは、僕だったのだ。


 今までどうでもよくてすっかり忘れていた少女に対し、僕は取り返しのつかない過ちを犯してしまったと酷く後悔していた。


 胸の張り裂けそうな思いに翻弄されて、僕は狂ったように泣いた。


 どれくらい泣き続けたことだろう。涙で歪んだ視界が、カーテンの隙間から零れる月光に照らされて仄白くなっていることに今更気づく。今、何時だろうと思って部屋の時計を見ると、深夜零時だった。


 美月は今、音楽室で僕――空見君を待っている。


 行かなきゃ。美月に会いに行かなきゃ。彼女を解放してやるために。僕はベッドから降りて涙を拭い、警備員服に着替えた。


 窓から射し込む月光を放つ満月は、紺碧の夜空の中でまるい金剛石のように輝いていた。


 十二年の自縛が解かれる夜は、すぐそこまで迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ