3 懐かしさと既視感
中学校へ五時に出勤してから七時間後の深夜零時。三階の廊下を歩いていると、音楽室のほうから子犬のワルツが聞こえてきた。昨日ほどの激しい恐怖感はなかったが、それでも音を聞くと鳥肌が立ち動悸が速くなる。
音楽室に行き、少女から「⋯⋯君」についての情報を聞き出さないと。僕は固唾を呑んで音楽室へ続く廊下を歩いていく。
廊下の窓から射し込む月光が、壁と床の白いリノリウムを照らしている。淡白い光と薄闇が入り交じる廊下の向こうに、音楽室の鉄扉が見えた。扉に近づいていく度、下手な子犬のワルツが段々と明瞭になっていく。
息を呑んで扉をそっと開けると、青白い月光に照らされる音楽室が現れる。窓際のグランドピアノの鍵盤が独りでに動き、きごちないメロディーを奏でていた。
僕はスマホのカメラ機能を起動し、画面をグランドピアノに合わせる。青白く光る少女が椅子に座ってピアノを弾いていた。恐怖に心臓を高鳴らせながら、僕は少女を呼ぶ。
「お⋯⋯おーい」
少女は鍵盤を止め、こちらを振り返る。あどけなく可愛らしい顔が僕をじっと見つめた。
『あ、警備員さん』
スマホのスピーカーから、少し驚いたような少女の声が聞こえた。緊張と恐怖で口元をひきつらせ、声を震わせながら僕は言った。
「き⋯⋯訊きたいことがあるんだ。教えてくれないか?」
少女は小首を傾げて言った。
『訊きたいこと、ですか?』
少女の情報については田中から大方聞けたので、『⋯⋯君』について訊きたい。しかし名前だけだと彼の詳細な情報を辿ることができないので、少女が死んだ年代、『⋯⋯君』のいたクラスを聞き出さなければ。
「あんたは何年前に死んだ? 何年何組だったんだ?」
『えっと⋯⋯』
生前の記憶を思い出したのだろう、少女は悲しげな表情になり俯く。途端、少女の青白い光から白い稲妻がほとばしり、一瞬全身が消えかかった。一体何が起きたのか、と僕は目を丸くする。暫く沈黙した後、少女はゆっくりと口を開いた。
『⋯⋯二〇〇八年。今から十二年前です。交通事故で亡くなりました。クラスは三年B組です』
田中がメールに書いていた情報と一致する。
僕はさらに訊く。
「あんた、名前は?」
少女は顔を上げ、悲しげな目で僕を見ながら答える。
『雪原美月、といいます。雪に草原の原、美しいの美に月と書きます』
「雪原、美月⋯⋯」
白銀の月光を透過し青白く輝く少女に似合う、綺麗な名前だと思った。
少女の無邪気でまん丸な瞳が僕を見つめる。恐ろしさは微塵にも感じられず、むしろ可愛いと思えた。あの時は怖くて仕方なかったが、冷静に彼女を見れば怖いとは思わなかった。
少女――美月は椅子に座り、再び子犬のワルツを奏で始める。月の光を浴びながらピアノを弾く彼女の姿に引き込まれて、僕は火に誘惑される蛾のように美月のもとへ近寄る。
恐怖心はいつの間にか消え去り、代わりに少女に対し神秘的な美を感じていた。
僕は少女のそばに寄って、彼女の奏でる子犬のワルツを聴く。人前で集中力と緊張感が高まっているのか、一切突っかからなかった。
僕は少女に訊いた。
「十二年間もここでピアノを弾いているの?」
少女は目を見開いた。
『もう、そんなに経ちますか。そんな感覚ないですね。幽霊になってから、時間の感覚わからなくなりましたから』
「今まで、ずっと独りで?」
『はい⋯⋯私の姿は誰にも見えないし、声も聞こえませんから』
少女は悲しげな笑みを浮かべる。誰かに話しかけても、その声は聞こえない。姿は見えない。誰とも関わることができないまま、孤独感を抱いて、少女は音楽室でずっと演奏する日々を送ってきた。そう考えると、幽霊だけれど可哀想だと思えた。
少女が目を伏せたまま沈黙してしまったので、僕は彼女に聞きたかった質問をした。
「あんたが子犬のワルツを聞かせてあげたいって思った相手の名前を教えてくれないか?」
少女は手を止め、驚いたような表情で僕を見上げて訊いた。
『なぜそれを⋯⋯?』
「夢で見たんだ。あんたが泣きながら『なんとか君に聴かせてあげたかったのに』って言ってたのを見た。たぶん、あんたの思念が見せたんだと思う」
『私の思念⋯⋯』
美月は俯き、沈黙する。そして制服のスカートを両手で掴みながら、言葉を絞り出すように言った。
『確かに十二年前、ある男の子に子犬のワルツを完璧に弾けるようになったら、聴かせてあげると約束しました。約束を果たすために私は一生懸命、ワルツの練習をしていたんです。でも、交通事故で死んでしまって、約束を果たすことはできませんでした。だけれど、あの人はいつかきっと私を思い出して自ら来てくれると信じています。彼が来るその日までに、完璧なワルツを弾けるようにならなきゃって』
夢の中で見たのは、生きていた頃の美月が「⋯⋯君」に完璧な子犬のワルツを聴かせてあげたいがため、一生懸命練習していた姿だったのだ。やはり、死んでからも美月は「⋯⋯君」に完璧な子犬のワルツを聴かせたいという未練から逃れられず、幽霊になっても音楽室で練習を続けていたのだ。十二年も⋯⋯。
幽霊は生前に未練があると、それをずっと引きずってこの世をさまようという話は心霊系のメディアでたくさん聞いてきた。美月もその一人なのかもしれない。幽霊になって時間の感覚が無くなり、生前の未練を消化できずにいるのだろう。
予想が当たり、胸の奥がきゅっとなるような感覚を覚えた。僕は幽霊の彼女の悲しみに同情し、胸を痛めている。僕は美月を普通の人間のように哀れんでいるのだ、と自覚する。
美月は両手で顔を覆って泣き始めた。その時、少女の青白い身体からまた眩い発光が生じると共に姿が薄くなり、消えかかる。
『でも、私にはピアノの才能がないんです。いつまで経っても完成された子犬のワルツが弾けなくて、もう、どうしたらいいか⋯⋯』
美月の姿はどんどん薄くなり、透けて背景と同化していく。消えてしまうと焦った僕は、慌てて訊いた。
「待ってくれ! あんたが会いたい男の子って誰なんだ? 名前を教えてくれ!」
輪郭さえ朧げになってきた美月は、小さな消えかかった声で答える。
『彼は三年A組の人で⋯⋯あなたにちょっと似ている人でした。そして、|物凄くむかつく≪・・・・・・・≫人でした』
最初、田中の名前が出てくるのではと期待したが、A組と聞いて予想は破られた。さらに「⋯⋯君」が美月にとってむかつく人であったことも意外な事実だった。
「三年A組の、名前は?」
『名前は⋯⋯』
美月は口を開く前に消えてしまった。彼女がいた場所には、ピアノの椅子がぽつんと置かれている。
僕は美月を呼んだ。
「美月ちゃん! おい! 消えるな! おい!」
それから何度も叫び呼んだが、美月が姿を現すことはなかった。
僕はとうとう諦め、その場に佇んで愚痴を吐く。
「何で消えんだよ、馬鹿」
せっかく『⋯⋯君』について知れるチャンスだったというのに。そして少しでも早く美月を音楽室から解放してやれるチャンスでもあったのに。
僕は溜め息をついて音楽室から出ると、再び校内警備の仕事を始めた。
廊下をライトで照らして歩き回りながら、僕は少女の言葉を思い返す。
――彼は三年A組の人で⋯⋯あなたにちょっと似ている人でした。そして物凄くむかつく人でした。
名前は聞けなかったが、でも『⋯⋯君』が僕と同じA組にいたという情報は得られた。
そして、僕とちょっと似た顔の人であったということも。
「僕とちょっと似た顔の人、か」
美月と最初に会ったあの夜、彼女は『どこかで会ったことあります?』と僕に訊いてきた。知っている誰かの顔を思い出してそう訊いたのだろうか。僕の顔立ちは至って普通で、細い一重に形の整っていない眉、突き出たような唇が少しださい。どこにでもいそうな顔だし、他人と勘違いされる可能性は高そうだ。
美月も他の誰かと勘違いしただけだろう。
でも、田中は美月に何度も話しかけていたというし、彼女と他に仲良くしていた子は見かけなかったと言っていた。美月の思い入れの人なら、田中だと思うのだが。
いや、物凄くむかつく人だったという発言からして田中でもなさそうだ。
それに、なぜむかつく人のためなんかに一生懸命ピアノの練習を続けているのだろう。思い人のために完成されたワルツを聞かせてあげたいという美談を想像していたが、どうやら違うようだ。
美月の考えていることはよくわからない。
「ま、いいか」
そう思って考え耽るのを止めるが、心の奥底で何かが突っかかるような違和感を覚えた。自分は何か大切なことを忘れていやしないか? と心の内側からそう問いかけてくるような何かの気配を感じる。気配の元はあまりにも深すぎて、正体は掴めない。
それでも、だんだんと気になって仕方なくなってきた。廊下の窓から射し込む月光の中に佇み、僕は気配の元をサルベージしようとする。
目を閉じて意識の深い部分に集中してみる。すると、中学時代、音楽室の扉越しから聞こえてくるワルツの音色を聞いた時の記憶が蘇った。胸の奥に感じる違和感の正体は、この記憶の断片なのだろうか。それに集中してみると、なんだか懐かしい気持ちになった。その感じは、あの懐かしさと既視感に似ていた。
遠く、朧気でどうでもいいような記憶なのに、どうして懐かしいのだろう。懐かしい、という感情を感じるということは、記憶に何かしらの感情が添付されているということかもしれない。今はどうでもいいけれど、あの時は何かの感情を抱いていたのだ。
そこではっとする。僕は美月の弾く子犬のワルツを初めて聴いた時、懐かしいと思った。そして、十二年前のその記憶も懐かしいと思える。
美月の子犬のワルツと十二年前の記憶に生じる懐かしい、どこかで訊いたことがあるという感情は、一致するのではないか。
僕は十二年前のあの時、音楽を聴いた後興味が失せてその場を去ったはずだ。あの時も、どうでもよかったはずだ。それなのに、どうして懐かしいという気持ちになる?
わけがわからなくなってきて、僕は首を横に振って思考を遮断する。
「わからん⋯⋯何もわからん」
今ならもう一度、美月の子犬のワルツを聞いたら懐かしい感情の根源が無意識から浮かんでくるかもしれない。
僕は後ろを振り返り、遠ざかった音楽室を見る。暫くしたら、彼女はまた出てきてくれるだろうか。
そう思ったがその後、音楽室から子犬のワルツが聞こえてくることはずっとなかった。