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第一話 登別

 一日の中で最も貴重な時間はいつだろうか。俺は入浴時だと思う。身体を温めて汚れを落とすことだけに集中できる時間は珍しい。主にインターネットのせいで現代人は四六時中社会に縛られているから、本当の意味で一人になることが少ない。だが、入浴中は確実に一人になることができる。誰の目も気にしなくて良い。誰の発言も耳にすることがない。貴重とはこのことだろう。かけがえのないひとときだ。だからこそ、漫然と入るのではなく快適さを追い求めるべきなのだ。

 入浴剤を入れるのが良い。毎日同じ香りだと飽きるから、俺は何種類かあるものを用意する。最近は温泉地の名前が冠されている、いわゆる温泉の素を使っている。今日は“登別”だ。

 乳白色の湯は普通の透明な湯より柔らかい気がした。香りはゆず。湯がゆっくりと揺蕩う音がする。快適さだけがここにある。まるで天から褒美として与えられた魔法の泉に浸かっているような気分になる。たとえ人工的であっても構わない。足の指まで包みこまれる。疲労が溶けて消えてゆく。しばらくインスタントな温泉を満喫しよう。

 しばらく浸かっていると気が抜けるように汗が出てくる。天井を見上げれば後頭部まで湯に浸かって大変心地よい。首も疲れていたのだと実感する。腕も腰も疲れているはずだ。今日は化学肥料を二十袋ばかり運んだ。客が来たから途中でレジを打って、常連の老人と寒くなってきましたね、もうすぐ冬ですねなんて話をしたのだ。実際は全然寒くなかった。化学肥料だの腐葉土だの鶏糞だのの袋の運搬作業をしているとむしろ暑いくらいだ。ホームセンターの外売り場の担当は好きな仕事というわけではないが、一年近く務めてそれなりにやりがいを感じている。自分なりのペースが板についてきたし、やるべき作業は身体が覚えて久しい。なにより、一人でこなせるから良い。店内の担当だったら常に他の従業員の視界の中にいなければならないから窮屈だろう。俺は一人で花を並べ、水を巻き、レジを打ち、客と挨拶を交わす。

 ただ気になることがある。今日店長と主任の様子が明らかにおかしかった。俺のことを話していたところを、本人が来たから慌てて中断する様子がうかがえた。そのことを帰り道で深刻に考えた。俺は何もやましいことはしていない。むしろよく働いていると思う。だがひょっとすると問題があるのかもしれない。売り上げが落ちているとか、クレームが入ったとか、人件費を削減する必要があるとか。入り口前のレジ係は男よりも女の方がふさわしいということになった可能性もある。とにかく何らかの理由で俺は解雇されるのかもしれない。不安で不安でたまらない。今の生活を変えたくないのだ。やることが決まっていて、リズムを掴んでいるからこそ前進しようと思えるのだ。食うに困る恐れがあったら今の希望も幸せもみんな消えていってしまう。クビになるのだけは嫌だ。

 思わずため息をついた。やめたやめた。入浴中くらいは楽しいことを考えよう。目を閉じて視覚情報を絶ち、気分を切り替える。

 

 頭の中で楽しいことを探し始めたその瞬間、遠くでただならぬ気配を感じた。低い振動音。しばらく耳を澄ませていてもまだ聞こえる。電話が鳴っているのだ。

 何てことだ。風呂を出なければならない。湯船から出てタオルで身体を拭き、居間へ戻った。すねを伝っていくつからのしずくが床に落ちていった。

 誰かと思えば倉田であった。一瞬切ってやろうかと思ったがそうもいかない。画面からわざと目をそらして肩をすくめそれから出た。

「もしもし」

「もしもし八木さん。大変なことになったんですよ」

「俺は今気持ちよく風呂に入っていたところを慌てて出る羽目になったんだがそのことについてどう思う?」

「んなこと言ってる場合じゃないんスよ」

「何があった」

「実は彼女と喧嘩しちゃって」

「そんなことかくだらない」

「くだらなくないっスよ大変なんだから」

「原因は何だ」

「なんかちゃんと働けとか言われて」

「働けばいいじゃないか」

「働いてますよ。バイトバイトで練習すらもままならないくらいなのに。なんか、そろそろ将来を真面目に考えろ、正社員目指せ、せめて資格とって給料上げろっていうんですよ。でも今ですら時間ないっつうのにこれ以上無理だろ、活動できなくなるってそう言ったら、まともに働けないならバンドやめろとか言うんスよ意味分かんねえ」

「真っ当な意見だろう」

「ひどいっスね。こちとら音楽やるために生きてるんスよ。働いてるのは活動支えるため以外何の意味もねえ。音楽やめて働くなんて本末転倒もいいところっスよ」

 俺はタオルを腰に巻いてベッドに腰掛けた。濡れていた身体が乾き、冷えてくる。肌は妙にさっぱりして中途半端だ。

「しかしその様子じゃあいつまでも平行線だろう」

「ホントっスよ。いきなりあんなこと言われてわけわからねえ。しゃあねえから今日当番じゃなかったのに夕飯作ってやったんスけどあんまし機嫌直してくれなくて友だちんち行っちまったんですよ。もう俺どうしたらいいか」

 何とアドバイスしたらいいだろう。適当に納得させるようなことを言って早く風呂に戻りたい。頭の中で答えを探す。だがいきなり言われたものだから的確な返しが思いつかない。

「もしもし?」

「最近寒くなったな」

「まあまだ本格的な冬じゃねえと思いますよ。最悪なのはあと二ヶ月くらいしてからだろうな……」

「倉田」

「はい」

「彼女のことはどう思っているんだ?」

「と言いますと?」

「別れたいのか?」

「んなわけないでしょ。リホちゃんいねえと生きていけねえっス」「だったら妥協するしかないだろう」

「って言われても仕事増やせやしませんよ」

「その調子だと最悪の事態に直結するぞ」

「うわあ嫌だなあ。じゃあもう少しシフト入れようかなあ……嫌ですけど」

「そう言って彼女に詫びるんだな」

「うーわかりました。突然すまなかったっス」

「ああ」

 電話を切ると思ったよりも時間が経っていた。緊急の要件ではなくて安堵すると同時に脱力した。ああいう話は電話でなくてメッセージにしてほしい。身体が冷えた。震えながら風呂に戻るとせっかくの入浴剤入りの湯がすっかり冷めていた。何てことだ。

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