エッセイ(essay)
やることなくて暇なので書きました。
エッセイが嫌いだ。
序盤、まず著者の間抜けな話で読者油断させる。中盤、あてもない話をいきなり展開。終盤でいきなり序盤から中盤にかけての複線を回収し、趣き深い結末を迎える。「趣き深い」という文字を入力したところ、「趣部会」と変換した私のパソコンよ、「趣き深い」というのは、「しみじみ」であったり「ほろりと涙する」であったりのことである。教養がないとPC界でも足元を見られるからしっかりと辞書に登録しておいた。
そんなことはさておき、私はこのエッセイの構成に納得がいかないのだ。例えば序盤「自分が近隣から忌み嫌われる悪童で、母親が自分が何か危ないことをするたびに怒られたエピソード」を話す。中盤で「北極で見た親子のシロクマの母ぐまに威嚇されビビッておしっこをちびった」という話をいきなりぶち込む。ここまでは悪童の著者が大人になってシロクマを見てちびったという、「趣」というよりは「面白味」の方が勝る話である。終盤でこの「面白味」が「趣」に一転するのだ。「シロクマという生物は、オスが自分の子孫を残すために、母ぐまの連れている子供を食べてしまうことがある。シロクマが私たちを見て威嚇したのは、母親が子供を守るための決死の行動だった。その時、母親が自分を怒っていたのは、自分を守るためだったのかもしれないとふと思った」これが終盤だ。まるで魔法である。
私はこの現象を「母親のオセロ」と名付けることにした。私の家は幼少期にテレビゲームほぼ皆無な家だった。経済的な理由なのか、教育的な理由なのかは不明だが、DSやプレイステーションの類がなく、小学2年生の時にサンタクロースから頂いた「ズバズバブレード」というタイミングよく網を切り落とし「猪」を捕獲するというゲームを極めていた。小学校は6年間。当然「ズバズバブレード」のみで乗り切れるわけもなく、ボードゲームに手を出すことは自明の理であった。しかし、ボードゲームは相手が必要なのだ。私の家は、父、母、兄、自分、妹、妹、妹で構成されているのだが、父は仕事のため相手にはなりえない。兄はサッカーと筋トレに明け暮れていたため、相手にはなりえない。一番上の妹はじっとしていられない子供であったため相手にはなりえない。他の妹はまだ文字も読めない年齢だったため、必然的に私の相手は産休中の母親が務めることにことになる。
母のオセロはおおよそ愛息を相手にしているとは思えないほど理不尽であった。まず、「本気・中気・弱気」の3段階から強さを選択できる。私は大貧民で負けてまじ切れする「湘南乃風」のような負けず嫌いな子供だったので、当然「弱気」を選択した。すると、試合の序盤、中盤私の字ゴマである「黒軍」が盤面をほぼ支配することが出来る。8~9割の駒が白になっており、母親がかわいそうになったほどだ。しかし、試合の終盤戦局は一転する。一つの角への侵入を許したと思ったら、ドミノ倒しかのように、我が軍勢は瞬く間に寝返っていった。
終局後もはや肌のシミ程度になってしまった「黒軍」を前に「本気でやらないと言ったではないか」と号泣する息子に対して、母は高笑いをしながらこう言い放った。「本気でやらないとは言ったけど、負けると言った覚えはない」。まるでエッセイ。「最初はふざけているけれど、最後までふざけているつもりはない」。最初から本気でやっていると騙っている分エッセイの方がたちが悪い。私はコツコツ日々更新しているマイランキングを入れ替えざるを得ないと感じた。これはよっぽどのことである。私の人生の意地悪いランキングがエッセイ→母→井ノ本に代わってしまう。今まで不動の1位であった母、大学に入った当時、純真無垢であった私に都会は恐ろしいという事を教えてくれた井ノ本を抜き去っての1位。名誉なのか不名誉なのかわからないが、偉業である。
ただ、「エッセイ(essai)」の原義は「試み」であり、「試論(試みの論文)」という意味を経て文学ジャンルとなった。つまり私がこんな毒にも薬にもならないことを徒然に書くことが出来るのも、ひとえにエッセイのおかげなのだとしたら複雑な気分になる。
暇になったら書きます。