前編
もう、幾日に及ぶのだろう。
閉じきる前の瞳に、あなたの姿を焼き付けた日々は。
肌にかかったまつ毛の微々たる影が愛おしい。
少し湿り落ちた前髪が愛おしい。
背筋の伸びた正座に、手のひらを上にして重ねられた骨張った両の手が愛おしい。
閉じられた瞼の中で反芻するのは、数秒前に瞳に映った先輩の姿。
「やめ!」
皆、先輩の掛け声と共に目を開ける。
「正面に、礼!」
前方にいる先生に膝前で指先を揃えて深々と礼をする。
頭を下げながら考えていることはただひとつ。
阿吽の呼吸で上げた視線の先には。
「今日もお疲れ様でした」
そう発する先生の隣で正座している、藍染の紺色道着と袴に身を包んだあなた。
主将、真中先輩。
私はあなたを、想っています。
稽古後に行う『黙想』という心を静める時間に、今日も先輩のことを考えていた私は、白色道着に紺色袴姿のままで部員の女の子と談笑していた。
私が所属する剣道部は、運動場を挟んで中学校の真向かいにある道場で活動をしている。道場入り口の外にはステンレス製水飲み場がひとつ設置されており、他部の生徒が利用することも多々ある。今日も道場の玄関であるガラスの両開き扉越しに、男子テニス部数人の中にいるあいつのおちゃらけた姿が見えた。
「三浦―っ」
小学校から一緒のあいつはガラス扉越しにくぐもった声で、無意味に私を呼ぶ。
もうーっ、呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな。
あいつは私の視線に気づくとすぐに、嬉しそうに鼻をつまむ仕草をした。そう、剣道部は汗の匂いと切っても切れないのだ。でも今は冬だから扉は閉まってるし、匂うはずがないだろうがーっ。
「三浦―っ」
例の仕草をやめないあいつが出した、さっきよりも大きな声に思わず周りを、真中先輩を見た。あ、また真理ちゃんといる。
声の聞こえるままに瞳だけをあいつに向けていた真中先輩は、その後ゆっくりと私に視線を移しかけた。
思わず私は、その視線を断ち切るように玄関へ小走りする。
あいつの失礼な振る舞いは私に向けてのもので、違うんです、違うんです、真中先輩は臭くなんかありませんからああああああーっ。
勢いでガラス扉に両手をバンッとひっつけて、あいつに口パクで抗議する私。うう、だめだ、この後ろ姿を見られているかもしれないことさえ恥ずかしい。
今あいつが起こした失礼な事にだって、どんな出来事にだって、日々私は心の中で真中先輩に向けて叫び続けている。でもひとつとして声という音にはならないんだよ。
恥ずかしくて、恥ずかしくて。
「好き」という音は、一生出ないよ。