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薔薇

作者: 河灯 良平

 僕は防波堤に座り、波が打ち寄せる音と潮風を感じながら夕日を眺め、孤独を募らせる。遥か遠くの水平線に少し姿を隠した夕日が空を茜色に染めている。

 先ほどまで群れをなしていたカモメたちは帰るべき場所へ戻ったのだろうか、今は一羽も見当たらない。

 洋子はここから見る夕日がとても好きだった。金がない高校生の僕らにとってこの防波堤は慎ましくも、最高のデートスポットであった。いつも僕らここで手を繋ぎ、語り合い、幾度となく沈みゆく夕日を見届けた。毎日同じ時間にランニングをする中年の男性に顔を見られるのが恥ずかしくて、その度に肩を寄せ合って二人で俯き、近くで見る彼女の顔に僕は胸を高鳴らせた。その後、顔を上げよ青年、と言うのが洋子の口癖だった。

 そう言えば、初めてのキスもこの場所だったな、そう思い返して、笑みがこぼれる。同時に涙で目が潤み、夕日が溶けだし目の前が茜色になる。

 洋子がこの世を去ったのはちょうど一年前、自動車に轢かれた。即死だった。自動車の運転者からは多量のアルコールが検出され、逮捕された。

 私は洋子のあまりに理不尽な死に憤り、そしてまた洋子の死その物を理解できずにいた。

 彼女の死後、翌日に通夜が行われた。皆一様に沈痛な面持ちで参列し、その参列者に挨拶をする両親の目は赤く、生気を失い疲れ切っていた。そして僕を見つけると嗚咽を漏らしながら泣き崩れた。

 棺の中の洋子は美しかった。彼女の短い髪は綺麗に整えられ、頬はほんのりと赤く化粧されており、口元は少し微笑んでいるようにも見えた。しかし僕の好きだった彼女の大きな黒い瞳は、堅く閉じられた瞼によって、もう二度と見ることができない、そう思うと涙が溢れてきたが、遺体を前にしても彼女の死を受け入れることのできない僕が、心の中に存在し、現実との隔たりが僕を混乱させた。

 夕日は先ほどよりも少し水平線に沈んでいる。まるで夕日が海面に溶けているようだ。

 僕はダウンのポケットから一通の封筒を取り出す。真っ白な封筒に一輪の黒赤い薔薇が描かれている。

 僕はこの封筒を洋子から死ぬ直前に受け取った。当時、僕たちは高校三年生で、受験が終わり、僕は地元である福岡の大学へ、彼女は東京へ進学することが決まっていた。僕は離れ離れになる寂しさと不安を彼女にぶつけ、暴力を振ってしまい傷つけた。今ではなぜあんな愚かな行為をしたのか分からない。彼女からの連絡はなくなり、僕は彼女への反省の念でいっぱいであったが、どうしても連絡することができなかった。

 彼女と連絡を取らなくなってから一週間後、彼女は突然僕の家にやって来た。彼女は僕を見ると、これを読んで、とだけ言って、黒赤い薔薇が描かれた封筒を渡し、去って行った。

 その数時間後、彼女は轢かれた。彼女が轢かれたと知らされた時、僕はまだ封筒を開封してはいなかった。

 そして、未だに開封できずにある封筒が僕の手に握られている。洋子が僕へ最後に残した手紙が別れの手紙だと思うとどうしても開封することができない。彼女が僕を嫌ったままこの世を去った事が肯定されるのが何よりも恐い。そして、開封してしまうと同時に僕の心の中の彼女も消え去ってしまうのではないかと不安に捕らわれる。また、手紙を捨てることができないほど、まだ僕は彼女のことを愛している。

 夕日はまた少し沈んでいる。僕は封筒を再びポケットにそっと入れ、立ち上がり、繋ぐ相手のない手をポケットの中にある封筒と重ねる。

 防波堤を下りて、すぐ脇にある道路に戻る。それを待っていたかのように外灯が点き僕を照らした。数メートル歩いたところに小さな花屋を見つけ、ふと立ち止まる。一年前にこの花屋はなかった。温かみのある木の外装をした店からは、柔らかい光が漏れている。

 僕は何気なく花屋の方向へ歩み始める。

 花屋にはたくさん花が綺麗に陳列されていた。しかし僕にはほとんどの花が何と言う名なのか分からなかった。

 入口の近くでぼんやりと花を見ていると、いらっしゃいませ、と一人の女の子が奥から近寄って来た。ぱっちりした目で幼い顔立ちの彼女は、緑のエプロンの下に制服を着ている。近所にある公立中学校の制服だ。この花屋の娘だろう。

「この店は最近できたの?」

 僕は女の子に訊ねる。

「そうなんですよ。先月オープンしたばっかりなんです。うちのお父さんが急に会社を辞めて、昔から夢だった花屋をやりたいって言いだしたから。もう家族は大変ですよ」

 女の子は、ふう、と言いながら額の汗をぬぐう仕草をしたが、明るい表情からは家族が大変な様子は窺えなかった。

「それにしても、店の手伝いをするなんて、偉いじゃないか、一人で店番なの?」

「それがお父さんもお母さんも風邪で寝込んじゃって、それで私が店番しています。困った親を持つと子が大変です」

 でも店番代はばっちり貰っているの、そう言って舌をぺろっと出す姿が可愛らしい。

「仕事と急に辞めて花屋を始めるなんて、君のお父さんはなかなか凄い人なんだね」

「ちっとも凄くなんてないですよ。ただの変人です。何でもうちのお父さんは学生時代ずっと園芸していたみたいで、おかしいですよね。男の人なのに園芸なんて」

 女の子は笑いながら、足もとの花壇に視線を落とす。そんなことないよ、と小さく言った僕の声は聞こえただろうか。

「私のお父さんはずっと花屋になりたかったらしいんです。でも大学卒業して企業に就職しちゃって、それをずっと後悔していたみたい。それで就職した後も今までずっと花屋やりたいなって思っていて、それでもって今頃花屋をやるって決めた理由が、お父さんはランニングが日課なんですけど、いつも防波堤で夕日を見ているカップルがいたんですって、そのカップルを見て、自分の青春時代を思い出したらしく、俺はあのカップルの彼氏が花をプレゼントしたくなるような花屋をやるんだ、って思い立ったそうです。それを聞いたお母さんも、あなたが決めた事なら最後までお付き合いするわ、って、もう滅茶苦茶です。子供もいるのに」

 あの時のランニングの男性は、この子の親だったのか。

 彼の中では僕等の関係は続いていて、いつか僕ら二人がここに来るのを待っているのかもな、そんな考えが頭を過り、目頭が少し熱くなる。ぼっとしている僕に女の子が、どうしました? と不安げに下から顔色を窺うように覗いていた。僕は慌てて、さりげなく眼をそっと拭う。

「おっと、ごめん。僕は君のお父さんの事を素敵だと思うよ」

「それは他人事だからですよ」

 女の子は頬を膨らませて怒ったふりをしたようだが、嬉しそうだ。

「ところで」

 そう言い、僕の顔を見て話を続ける。

「何かお花をお探しですか? まさかここまで来て何も買わないとは言わないですよね」

 彼女のいたずらな笑顔はとても可愛い。何も考えずにこの店にやって来た僕だが、彼女にこう言われたら買わないとは言えない。今の僕に思いつく花はただ一つだ。

「赤い薔薇をください」

「赤い薔薇ですね。お幾つ用意しましょうか?」

「一本ください。百本と言いたいけど、そんなにお金がないから」

「お兄さん貧乏なんだ。金の切れ目が縁の切れ目って言うんですよ」

 なかなかきつい冗談を言う彼女だが、花を扱う時の目つきは真剣だ。縁の切れ目か、洋子との縁はいつまで続いていたのだろうか。

 僕に手渡された赤い薔薇には綺麗な包装がされていて、丁重にリボンまで付けてくれてある。女の子は後ろで手を組み、僕の顔を見て、ふふふ、と笑う。

「どうしたの?」

 僕は堪らず訊ねる。

「赤い薔薇をプレゼントするなんて、お兄さんもなかなか恰好いい事しますね」

 そして、女心を分かっているわ、と続ける。

「どういう意味?」

「あれ? お兄さん知らないんですか?」

「たぶん知らないと思う」

「赤い薔薇の花言葉はね、『あなたを愛します』ですよ」

 女の子の笑顔が洋子と重なる。洋子ありがとう、気がつくと僕はそう漏らしていた。涙に気づかれないように、代金を払い足早に店を出る。後ろから、ありがとうございました、と声が聞こえる。

 僕は再び防波堤に戻り、腰を下ろす。波が打ち寄せる音と潮風は変わらず僕を包み込む。洋子からの封筒を取り出し眺める。封を切ろうと力を入れるが、一抹の不安が指先に伝わり封を切れない。

 どのくらい時間がたったのだろう、日は完全に沈んでしまった。僕の手元にはいまだ未開封の手紙が残されている。一思いに開封してしまおう、そう決意し封筒の端を破こうとしたその時だ。自転車のベルを後ろで鳴らす音が聞こえる。

 振り返ると、花屋の女の子が不思議そうにこちらを見つめている。

「お兄さん、まだこんな所にいたんですか? 薔薇は渡さなくていいんですか?」

「いや、会えないんだ」

 そう言うのが精いっぱいだった。

「そうですね。今日はもう遅いですしね……」

 この子は僕が彼女との予定が合わなかったか何かと思っているようだ。

「じゃあ、次回彼女と会うときは、また店に寄ってくださいね」

「ああ、そうさせてもらうよ。それにしても君は花言葉に詳しいね」

「これでも花屋なんですよ。知ってて当たり前です」

 彼女は頬を膨らます。確かに花屋だったら当然かもしれない。くだらない質問だったなと反省する。

「薔薇でも、色によって色々な花言葉があるんですよ。白い薔薇なら、心からの尊敬、とかです」

「へぇ、それは知らなかった」

「あとですね、赤黒い薔薇は……」

 彼女は続ける。その時風が止み、冷たく重い空気が僕を包む。


「赤黒い薔薇は『死ぬまで恨みます』」


以前に書いた黄色い薔薇をホラーぽくしてみました。

読まれた方は「読みました」だけとでも評価してただけると、大変嬉しいです。



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― 新着の感想 ―
[一言] どうも、掲示板より参りました青柳です。 先に気になった点ですが、封筒の薔薇が前半では「黒赤い薔薇」で後半では「赤黒い薔薇」となっています。色としては同じですが、これは統一した方が良いのでは…
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