第三日:権現を拝す
熊野本宮~高野山編です。
私は十二のころより剣道を習い、高校までは部にも所属していた。その道に青春をささげたと言えば明らかな過言があるが、さぼらず稽古はしたつもりである。
浪人なんかをしているあいだに竹刀を握る機会は減った。用具はすっかり埃に忍んで、いずれまたその藍染に汗の滲む日を待っている。ところが手ぬぐい達だけは、しょっちゅう洗濯籠に行く。これらは私が常日頃、使い続けているためだ。
面と頭の狭間に巻かれ、我らの汗を一身に受け、それはその都度ぐっしょり濡れる。しかし日向でばさばさ振って、しばらく置くともう違う。
これは大変便利なもので、スポーツタオルもハンケチも、この薄布一枚で良い。帰りが朝型になっても、蛇口でじゃばじゃば濯いでしぼれば、居眠りするあいだに干せる。むしろ剣道部員のほかでも、もっと流行るべしと思う。
私の旅において、手ぬぐいが頼もしき御供となっていることは言うまでもない。
夕べは大浴場から戻ると、それをしぼって窓際に干し、明日は早しと思ってすぐ寝た。明くる朝の八時には、熊野本宮大社への送迎車が出るのである。
迎えて本日、八月五日。
私の起床は七時五十分。携帯電話の目覚まし時計は、屁の突っ張りにもなりはしなかった。こりゃしまったと跳ね起きて、出掛け支度は血眼でする。
荷物を大きく広げるほうではないので、支度は上首尾のうちに済んだ。アザマシタ! ――と鍵を返して私は「まつや」を飛び出した。
私が泊まった「まつや」の隣の「みどりや」前に送迎は来る。これらは系列の宿であるが、後者の方が本元だ。車はそちらで発着するし、施設も綺麗でなお且つ大きい。次来るときにはここを取ろうと、心に決めた次第であった。
あれよあれよと遠ざかる、川湯の旅館を尻目に一瞥。運転手の爺さんは、ご機嫌に鼻歌を奏でている。前に座った奥様方は、まだまだ涼しいわネとご歓談。
本宮大社へ立ち入る前に、寄っておくべき所があった。
私はその門前にて降りるや、くるり背を向け脇道に入る。路地を抜けると眼前に、一面、田野が広がっている。朝日を浴びて浅葱色にきらめく、若い稲穂が視界をうめた。そしてこれらを貫くごとく、私の足元からは参道が延びている。この参道の果てに在るのは、巨大きわまる鳥居であった。
たとえば大型竜脚類の参詣にも堪えようかという、比類なき偉容だ。
ここぞ、熊野権現が明治なかごろまで社殿を構えた大斎原である。
中には末摂社があるのみだが、広々としたさら地にさえも、厳かなる空気が漂う。かの一遍上人が悟りを得た地としても名高い。
私は思いきり深呼吸をした。土の香りが芳しい。この心地のまま本宮に行き、先の安全を祈願しよう。清々しくそこを後にし、足早に次の鳥居へ向かった。
ついに私の両脚は、熊野大権現の地を踏んだ。八咫烏の旗が風になびき、石段上まで吹き抜けている。
巫女に話を聞くなどしつつ、四つの祭殿に詣でた。
ようよう日が高くなってきたので、招霊の木の陰にて休む。ところが暑さに喘いだ矢先、私はあることに気がつく。この滝汗を拭かんとするに、手ぬぐいが見当たらぬではないか。
どうしたことかと、しばし黙考。しかしてハッと洞察を得る。
川湯の宿に忘れてきたのだ。あれを窓辺に吊るしたままに、急いで出てきてしまったのである。
我が愛用の手ぬぐいは、鎌倉の円覚寺で買った縁起の良いものであった。愛着の程はかなりのもので、伊勢に降り立ってからこちらも私の汗をぬぐいつづけた、相棒といって差し支えない。
あれとの縁もここまでか、と肩を落とした私であった。
本宮前のバス停で、その時刻表を凝視する。時計の針は九時半を指すが、次の便は八十分も後だ。今日はこの先、移動が長い。目指すは遥か高野山である。
しかしここにて暇をつぶすも、何だか時間の浪費な気がする。見るべきものは大方見たし、熊野土産も買い終えた。はてさてこれからどうするか。いささか途方にくれていると、売店の親父さんがこんなことを教えてくれた。
「川湯の温泉なんか、行ってみるとええ。こっから歩って一時間……いや、若けえ足なら四十分やな」
さながら天啓かと思われた。どうせボーッと待つくらいなら、旅館に戻れば良いではないか。さすれば忘れ物は手に戻るし、山野の景色もよく眺められる。
私は満腔の礼を述べて、炎天下の道へと歩みだす。熊野川のほとりを下り、車道の端をひたぶる進んだ。
山々の雄大なるに感嘆しつつ、大日山トンネルに差し掛かる。私の真横を車がゆくと、後からぶわっと風がくる。その涼風が頬を叩けば、快いことこの上ない。
私が再び宿に着いたのは、十時十五分頃だった。
飲泉場で飲む熱い湯の、まあ旨いこと、旨いこと。無事手ぬぐいを受け取るおりには、私は欣々然としていた。
さてこの先はいよいよ移動だ。旅路はまだまだ彼方へ続く。最寄りのバス停を求めて、渡瀬温泉まで徒歩十分。昼飯をすませしばらく待つと、紀伊田辺駅ゆきの便が来た。
これに揺られて一時間半、のどかな田舎の車窓が続く。さらば熊野と心に唱え、私はしばし昼寝した。
田辺という所は、かの武蔵坊弁慶出生の地として知られる。ほかにも芦田均であるとか、植芝盛平であるとか、偉人のゆかりに事欠かない。高野山への電車を待つ間、市内観光と洒落混みたい。
とりわけ興味の赴くところは、博物・民俗学者、南方熊楠の実績を蔵する顕彰館である。
今は「田辺湾の生物」なる企画展をやっているらしく、沖合の島々に住む生き物たちの資料が多く展示されている。これのみならず彼の研究は大変そそるものであるから、寄り道にしてここに立ち寄れたのは行倖だと言えた。
南無三。そうこうしているうちに、急行発車の十分前だ。これを逃せば後がない。私は連日のことに懲りず、こたびも列車に滑り込む。
開けた海辺の景色から、農村地帯の脇をかすめて、車窓は深山幽谷に変わった。熊野の山が森閑ならば、高野の山は鬱蒼である。数多の下草が茂って、雑木林に絡まっている。計四回の乗り換えの果て、満を持して高野山に至る。
今宵の宿は、金剛峯寺よりほど近い普賢院の宿坊である。そこを経由する終バスが、図ったかのごとく来ていた。
暮れなずむ高野山は寂寞としていた。ひぐらしの声に囃されながら、私が一人下車をする。どこへ行くのか婆さんが、ぽつりとバスに残っている。
若い僧が出迎えに表れる。何だか引き締まる思いがして、挨拶の句もままならない。言葉は三秒固まった後、「おせわになります」とだけまろび出た。