ススムとレムナリアの少女
全改稿(2014/10/21)
俺は、早朝のレムナリアを散歩していた。
昨日の喧騒が嘘のように静まり返った朝のレムナリアは、聞きなれない鳥たちの鳴き声だけが俺の耳へと届く。
元々、早起きの習慣が身に付いている上に、昨日はさらに早く休んだものだから目が冴えてしまったのだ。
宿の朝食の時間にはまだ少し早く、時間を潰すために今はこうして街を眺めている――まさに文字通りに。
――そう、今俺がいるのは、およそ人が訪れるような場所ではないだろう。
適当に見つけた、高い建物の屋根の上に登っている。
こうして、見晴らしの良い場所から観察すれば、街の造りはおのずと理解できるというものだ。
実際に、自分の目で確かめて分かったのだが、レムナリアは相当に大きい街のようだ。
遠くに見える海――リベア内海だろう、それが遠くまで軒を連ねる建物に隠れて、ほんのわずかしか見えない。
対して、ここからそう遠くない場所に見えるギルド支部――そこを仮に街の中心だとすると、このレムナリアの終端は、相当に離れた場所にあるのだと推測できる。
カインの言う通り、王都が近いといってもこれでは、レムナリアの抜けるだけでも時間が掛かるだろう。
そうして街を眺めていると、ここより少し離れた位置だろう――澄んだ鐘の音が響いてきた。
見ると、教会のような白を基調とした建物が、高台の上に建っていた。
それが、街の朝を告げる鐘だと推測した俺は、宿に戻る為、今居る屋根から飛び降りる。
上から街を見下ろしていたことに、他の目的がなかった訳でもないのだが……さすがにこの時間では希望も薄いようだ。
軽快に着地を決めつつ、そういえば、校舎から同じことをしていたのも懐かしいな――なんて感慨に耽っていると、驚いた表情でこちらを見つめる住人と目が合ってしまう。
雨よけの店舗用テントのリールに手を伸ばしたまま固まっている男は、おそらくそのカフェテリアらしき店の主人なのだろう。
さわやかに「おはようございます」と挨拶を済ませ、そそくさと立ち去ることにした。
こんなことなら、そのまま屋根伝いに宿に向かった方が良かったな――などと考えながら通りを歩いていると、ふと俺はどこかで見たような女の子の姿を視界に捉えたのであった。
「あれ……あの子は……」
少しウェーブのかかったサラサラの長い金髪に、白と紺のワンピースのような服。
服装こそは違うが、おそらくは、昨日俺とぶつかった少女だ。
教会の鐘を聞いて表に出てきたのか、俺は自分の幸運に喜びながら彼女へと駆け寄ろうとするが、その姿は裏路地の方へと消えていってしまう。
すぐさま追い駆けはしたものの、交易都市の裏路地は複雑に入り組んでいて、残念ながら少女の姿は完全に見失ってしまったようだ。
「参ったな……」
まさか、自分が人に撒かれる日が来ようとは……。
意図的にではないことが、返って気配を逃し易くさせたのだろうか。
ついているのかいないのか分からないことを悔やみつつも、前向きに考えるならば、あの少女はこの付近に住んでいるのかもしれない。
それならば、自分たちが泊まっている宿からも近いし、また会う機会もあるはず――と自分を慰めつつ、俺は空腹を訴える胃袋に従って宿へと戻った。
そんな予感が見事的中した訳ではないのだろうが、その日の間に、俺はもう一度彼女と出会うことになるのだった。
●
端的に言うならば、少女との再会は、そう単純に喜べるようなものではなかった。
理由はいくつかある――が、とりあえずはこの現状を何とかしよう。
「ほいっと」
俺の放った蹴りが、男の顎を捉える。
垂直に身体ごと顔を跳ね上げられた男は、そのまま後方に縦回転を決めて昏倒した。
「て、テメェ……それ以上動いたらこいつの命は――」
「そい」
少女の首に腕を回して短剣を突きつけていた別の男は、続く言葉を言い終えることもなく、俺の放った金貨が眉間へと吸い込まれそのまま後ろのめりに倒れていった。
親指で弾くという極めてシンプルな俺の得意技なのだが……どうやらこの金貨というやつはかなりの重量があるようで、迂闊に力を込めすぎると殺傷性までありそうな威力だった。
「まぁ、治療費代わりに金貨はやるよ。――で? お前はどうする?」
「ひっ、ひぃっ……!」
俺は、いまだ無事な三人目に向き直ると、男は小さな悲鳴を上げて逃げ出そうとした。
すぐさま俺は先回りをし、
「待て待て。お前がいなくなったら、誰がこいつらを連れてくんだ――よっと!」
ドスン! と男に軽くボディブローを決める。
ひとりだけ無傷で帰しては、倒れている二人に申し訳ないので、一応、悶絶程度はさせておくことにした。
加減をしたのは、二人を連れ帰って貰う為で――つまるところは、労働サービスといったところか。
「よーし、片付いたな」
首をコキコキと鳴らしながら、成り行きを見守っていた少女の方へ視線を向ける。
怪我がないのは分かっているが、俺は決まり文句を吐いた。
「……うむ。怪我とかは大丈夫か?」
そうして、男たちの魔の手から少女を救い出して向かった先は、近場にあるカフェテリアだ。
俺としては、他の店の方が良かったのだが、生憎とこの世界の地理には疎い。
こちらの顔を見て、カチャカチャと震える手でドリンクを持ってきた店主に礼を言いつつ、俺は少女に何があったのかを尋ねることにした。
「あの……先ほどは、助けていただいてありがとうござました」
少女は、身体に見合う小さな声で礼を言うと、席を立って頭を下げた。
それを制止しながら、続きを促す。
「彼らは……ここ一帯を纏め上げている男の……手下なんです」
少女の言葉から推測するに、ギャングやマフィアとかそういったグループの使い走りといったところだろうか。
てっきり、街のゴロツキに絡まれていた程度に認識していた俺かすると、いきなり交易都市の闇を覗いてしまったようでいまいち心象は宜しくない。
そして、相手がそういう明確なグループとなってくると、少女に絡んでいた理由も単純なものではなくなるということだ。
「父が……彼らに多額の借金をしているのです。一向に返す目処の立たないことに苛立ちを見せた彼らは……最近では、こういった見せしめのような手にまで及んできて……」
「そうか……」
返答に困った俺は、無難な態度を取ることしかできなかった。
つまり、彼女はこれまでにも頻繁に危険な目に遭ってきたというのだろう。
元を正せば、借金をした父親が悪いのだが、それを取り立てる為に娘にまで危害を加えるというのは看過できるものではない。
それに、こういう闇金まがいには過剰な利子が付きものだ。
その金額次第では、借金そのものに対する事情も考慮しなければならない。
……とはいえ、一介の高校生に果たして何ができるのだろうか?
本拠地に殴りこんで大暴れすることは可能だが、この世界の警察や法律事情についてはさっぱりだし……下手をすれば、ギルドにあった張り紙のように、むしろ俺がお尋ね者になってしまうのでは……。
さすがに、カインたちにまで迷惑が及んでしまうような事態は避けたい。
そこで、あまり直球に聞くべき内容ではないのだが思いついた案もあり、俺は彼女に問うことにした。
「その借金ってのは……いくらくらいなんだ?」
「……そ、それは……」
聞いてはみたものの、少女は、やはり言いにくそうに口を噤んでいた。
会話の流れから、父の汚名を自ら晒させるような質問だったのだろう。
「ごめん、俺の言い方も悪かったな。興味本位で聞いてる訳じゃないんだ。先日、ちょっとした棚ぼたがあって……俺の手持ちで足りるなら立て替えてもいいかなと思ったんだ」
言って、棚ぼたの意味なんて通じないだろうと気付いたのだが、そのような言葉を気に掛ける風もなく、
「ええっ!?」
少女は驚き、先とは打って変わった様子――気のせいか、わずかに目を輝かせ、ガタンと席を立った。
「あっ――あの、あんまりにびっくりしてしまって……すいません。いえ、でも……到底、手持ちで足りるような金額ではないと思いますよ」
「そっか……まぁ、それならしょうがないか」
言われて俺は嘆息した。
正直、いくら世界の共通貨幣と説明されたところで、現実世界の金貨ですら高校生には縁のないものだ。
俺の手持ちである一五〇〇枚という金貨に、どれの程度の価値があるのは分かるはずもない。
「いっ、いえ……でも、お気持ちは大変ありがたいです。でも、手付け金ですら払えないわたしたちには、お借りしても返せる目処もありませんし……」
「うん? まぁ、別に返せなんてせこい真似はしないよ」
「ええっ!! ほ、ほほ、本当に……いいんですか……?」
「あぁ」
元々、自分の手元に転がり込むような当てのあったものではないし、誰かの役に立つというなら本望だ。
言ってしまえば、楽をして稼いだようなお金だし。
「えーと……それで、手元には金貨しかないんだけど、それでも大丈夫かな?」
「は、はいっ。全然、大丈夫です!」
借金が返せる展望がついたせいか、少女の声は可憐なものからハキハキとしたものに変わっていた。
「そうか、それなら良かった。どれくらいあればいい?」
「えーと……五〇〇枚……ほど……」
少女の言葉は、尻すぼみに小さくなっていく。
なので、こちらから言ってやることにした。
「あぁ、五〇〇なら――」
「い、いえ! 父が借りたのが五〇〇枚で、今は利息が膨らんで一〇〇〇枚に……!」
言うと、こちらが終える前に少女の言葉が飛んできた。
「なるほど、一〇〇〇枚か。すぐに持ってくる」
言うこちらを、少女はぽかーんとした表情で見送るのだが、それほど凄い金額なのだろうか。
背を向けた瞬間に、「こ、こんなことなら……!」といった声が聞こえた気がするが、最後まで聞き取れなかったので留めずに店を出た。
そういえば、つい勘定を払うのを忘れていたが……まぁ、またすぐ戻るのだし、少女もいれば問題はないだろう。
この先、どうしてもお金に困ることがあったら、また竜族の助力を請うことになってしまいそうだが……それまでに何らかの成果を得ないと、こちらとしても心苦しい。
とりあえず、俺は、お金を置いてある宿へと急ぎ戻ることにした。
●
「――か、金がない!?」
ものすごい険相でこちらに迫るのは、それに全く似つかわない、可憐な少女だ。
場所は、カフェテリアだと目立ってしまうので、人通りのないところへと移している。
「いや、ないわけじゃないんだが……宿のベッドの下に置いといたらだな……」
「き、金貨をそんな風に放置しておいたら、『どーぞ、持ってって行ってください!』――って暗に言ってるようなものじゃねーか!」
先とは、随分口調も印象も変わったように思えるが、向かいにいるのは間違いようもなく、先の少女だ。
「あぁっ、くそっ……お前が手持ちもないって言うから、飲み代までこっち払っておいたっていうのに……」
「あぁ……そりゃ……本当にすまん……」
この世界の通貨を持っていない俺は、カインに言われポケットに一枚の金貨を忍ばせておいたのだが……少女を助ける際にそれを使ってしまったことを思い出した。
「ったく、どうすんだよ…………ぁああ、大金が……ちくしょー!」
清楚なワンピースにそぐわない仕草で、大仰に悪態をつく少女。
「いや。持ってった人物さえ見つかれば、すぐに返して貰えると思うが……」
よほど切羽詰っているらしい彼女を宥めようと、俺は声を掛ける。
「お前の腕が立つのは認めるが……そんなの、すぐ見つかったら誰も苦労しねーだろ……」
「まぁ、そうそれはなんだが…………街のどこかには居ると思うぞ?」
「そりゃあ、昨日の今日の出来事なんだから、まず間違いなくレムナリアのどっかにはいるだろうけどよ……」
喜びがぬか喜びに変わったせいか、酷く沈痛な表情を浮かべる少女。
どう説明をすれば、安堵して貰えるだろうか。
言葉を探し、
「行き先は聞いてないから分からないが、もしかしたら、ギルドに居るの可能性はあるな」
何となく、思いついた場所を口にした。
「聞いてないって……持ってったのが、ハンターだって証拠でもあるのか? だとしても、ギルドに駆け込む理由にゃならないと思うぞ?」
「いや、無用心だからって連れのハンターが預かって行ったみたいなんだ。宿も出なきゃいけなかったみたいで、やむなくそうしたらしいが……」
「………………は?」
口をあんぐりと開げと、こちらを見上げる少女。
ややあって、
「……や、やだぁ! そ、それを早く言ってくださいよぉ! も、もうっ、お茶目さんなんですから!」
両手を胸元に揃え、それを左右に揺する仕草を取るのであった。
はて、昨日はこんな子だったっけか……。
「と、と、とりあえず、お仲間さんと合流すれば……その、お金は戻るんですね?」
「あぁ。確実にギルドにいる――って保証はないが、今日は口座ってのを作る予定だったしな。場所は知ってるし、もしかしたらそっちに向かってる可能性もあるかな」
宿前で待っててくれればもっと手早く解決したのかもしれないが……さすがに金貨袋をぶら下げて店前で人目を引くのは遠慮したかったのだろう。
こっそり抜け出した上に、朝食の時間になっても戻らなかった自分の責任を問いこそすれ、彼らに感謝こそすれど文句を言う筋合いなど微塵もない。
「じゃ、じゃあ、すぐに向かいましょう! ねっ?」
「そうだな。とりあえず、先に近い方から行ってみようか」
「ここからだと、“金の後光”の方が近いですね!」
金の後光?
聞きなれない単語だが、おそらくは、こちらの世界の金融機関の名前だろうと適当に予測をつける。
しかし、昨日チラ見をした時は、もっと別の名前が振ってあったように思うのだが……。
●
「ようこそ。【金の後光】へ」
店内に入ると、さっそうと現れた女性が軽やかに挨拶を交わしてきた。
少女とやってきたのは、金融機関の方だ。
彼女は、店外で待つと申告してきたので、そうして貰っている。
俺は向かいに立つ女性を見た。
何処かで見たようなブロンドに何処かで見たような左右非対称なひとつなぎの赤の装束。
「――って、あれ? アイリカさん?」
俺は、ひとりしか心に当たりのないその名前を口にした。
「まぁ、わたくしを存じているのでございますか? 残念ながら人違いでございます」
「いや、どう見てもアイリカさんだろ」
思い返すと、薄暗くてはっきりと確認はできなかったが、向かいにいるのは間違いなく向こうの世界で最後に会ったアイリカさんだ。
というより、こんな奇抜なセンスを持つ人がそう頻繁に存在しては堪らない。
「確かに……お客様のおっしゃる通り、わたくしの名前は“アイリカ”と申します――が、あなたの存じている彼女とは別人でございます」
「はぁ……」
要領を得ない彼女のいいように、俺はなあなあな頷きを返した。
「というのも、わたしは、この世界――ルビリカの担当を命じられているアイリカ。他の世界のことは、申し訳ありませんが、存じ上げておりません」
「…………えーと、よく分からないけど、同名で見た目もクリソツの別人さん?」
「左様でございます」
嫌味のつもりで言ったのだが、きっぱりと答えられては揚げ足を取ることもできない。
なので、思いついた別のことを尋ねる。
「表の看板には、“ハローゴールド”って書いてあったけど……。向こうにあった“ハロークエスト”とも何か関係があるのでは?」
「まぁ、お客様はあの言葉が読めるのですね。エクセレントでございます。……ちなみに、とても素晴らしいと褒めているのでございますよ?」
「…………ありがとう、って言っておけばいいのか?」
なんだろう。
なんかもう、このチグハグなやり取りが既に本人としか思えない。
「ところで、お客様。お客様がお客様――というからには、何かご用事があって当店に来訪されたのではないでしょうか?」
「え……? っと、あぁ。そうだった」
あまりに素っ頓狂な展開にすっかり忘れていたが、俺は、同行している仲間を探してここにやって来たのだ。
正面にカウンターのある待合室を見るが、目的の人物たちは見当たらない。
ここなら金貨袋を下げていても目立たないだろうと思ったのだが……。
「あるにはあるんだけど、どうも違ったみたいなんだ」
「違った? とは、一体どういう意味でございましょう。時に、当店にお越しになられた――ということは、口座の開設――が目的ではないのですか?」
「あー……」
確かに、そんな用事もあったことをさらに思い出す。
言われてみると、人探しに銀行に訪れるというのも妙な話だ。
ついでに、口座を作っていってもいいのかもしれない。
しかし、いきなりそれを指定してきたということは、彼女は俺が口座を持っていないことを知っていたのだろうか。
「言う通り、それも目的のひとつだ。手元に持ち合わせがないが……それでも作れるのか?」
「もちろん、でございます」
アイリカが左手で宙を掴む動作を取ると、何もなかったはずのそこには一冊の本が存在していた。
同様に、いつの間にか右手には羽ペンが握られている。
人ひとりをあっさりと別の世界に飛ばすような人間だ――そんな人間のすることに、いちいち疑問を抱いても仕方がない。
「既に、あちらのアイリカを通してこちらに訪れているということは本の中に…………あぁ、見つかりました」
アイリカが本をパラパラと捲る。
もちろん、手でページに触れている様子はないのだが、それがとあるところでピタリと止まった。
「ゼオフレア・メルハザード様――で、ございますね?」
「断じて違う!!」
即座に否定を放ったが、まさか異世界にまで来てその痛名を聞くことになろうとは。
「おやおや、これはこれは。…………ふむ。とんでもない出自のようでございますね」
ふんふん、とまるで聞いていない様子でページを覗き込む。
呟かれた不穏な言葉に、俺は耐えられずに呟き返した。
「とんでもない出自って……」
一介の高校生に、一体どんな大それた設定を後付けしたというのか、あの二人は……。
前世は魔王だとか紅蓮の炎だった――とか、そんなオチか?
「既にご登録が済んでおられるようなので、あとはこちらにサインだけ願います」
そうして、こちらの手元にアイリカが持っていた羽ペンと本が差し出される。
受け取った俺は、開いてあったページにそのままサインを記入するが、
「やり直し――でございます」
「なんでだよ!」
書き終える前から何故かダメ出しを食らった。
「名前が間違ってございます。きちんと『ゼ・オ・フ・レ・ア、メ・ル・ハ・ザ・ー・ド』と敬称略でお願い申し上げます」
「だが、全力で拒否する!」
一字一字に精細なイントネーションを置く彼女に、俺はそう返した。
「では、大変残念ながら開設は行えません。明らかに詐称と見られる行為を許容する訳には参りませんので」
「なんでだよ! 葉飼進でいいだろ!?」
「それは、あなたに刻まれた魂の名前ではないのでエヌジー、でございます」
……この一派は、どうあっても俺をそっちの世界に引きずり込みたいらしい。
「…………あぁ、くそっ! 分かった、書くよ! 書けばいいんだろ、ちきしょー!!」
俺は、胃から血を吐くように震える手で痛名のサインを行うのであった。
この時、頭から全ての目的を消失していたのは言うまでもない。
そんなやり取りを経て、店外へよろよろと退出した俺を迎えたのは、かの少女ではなく探していた同行者たちであった。
「ススム……一晩見なかっただけで、随分とやつれたな?」
夕べは寝付けなかったのか――と、と問い掛けるカインに、俺は「そうでもない」と力を振り絞って答えた。
実際、説明して共感を得られるとは思っていない。
「それより……なぁ、カイン。ここに、女の子がいなかったか?」
「女の子?」
カインが首を傾げる。
周囲を見回すが、全く関係のない通りすがりを覗けば、少女に該当するような人物は存在しない。
居るのは、俺とカイン。そして、ベイルにマーガスと……そこでふと、一行のメンバーがひとり増えていることに気が付いた。
「……えーと。カイン、その子は?」
俺が指し示したのは、カインに襟首を掴まれている少年だった。
頭には茶色のバンダナ、そこから見えるのは、耳を覆う程度のショートの金髪。
服装は、やはり茶色を基としたチュニックと無地のハーフパンツ。
あどけない表情は、憎々しげにカインを捉えている。
「あぁ。ちょっと、知り合い――というか身内が迷惑を掛けたようで……」
「ちくしょー! くそっ、離せよこんにゃろー!」
カインがそう言った途端、少年が暴れ出す。
彼の知り合いということは、少年もハンターなのだろうか、それとも個人的な知り合いなのか。
俺は、少年の声に何となく引っ掛かりを覚える。
「……む。この声……?」
少年がドスを利かせたようなトーンに、このぶっきら棒な口調。
何かを思い出そうと、俺の思考が記憶の海を泳ぐ。
「………………はて、何処かで会ったっけか?」
しかし、シナプスは答えてくれなかったようだ。
少年は、掴まれたまま器用にも転ぶ真似をした。
「……あ……あのなぁ。いい加減に気付けよ……」
「うん?」
言って、少年が頭のバンダナを外した。
そこから長い髪が零れてくるわけではなかったが、少年が前髪を下ろすと、何処かで見たような顔になる。
「…………あぁっ! 借金に悩んでた女の子――!?」
「今頃気付いたのかよ…………へへっ。まっ、俺の変装の腕――ってヤツだな!」
得意げに胸を張ってみせるが、そんな動作は、次の俺のひと言で極大の怒りへと変わる。
「…………女装だったのか」
見事に騙された――というように、俺は頭を振った。
「て、て、テメェ! 今、言ってはならんことを言ったな!?」
「いや、だって胸盛ってたじゃないか……」
「死にたいんだな!? 今すぐ死にたいんだな!? あぁん!?」
どうやら少年ではなく少女だったらしい彼女は、捲くし立てながらもカインに何処か人気のないところへずるずると引きずられていき、しばらく戻って来ることはなかった。
俺はというと、とりあえず折角作った口座なので、カインたちから受け取った金貨をハローゴールドに預けてくるのであった。
……利用するたびに、あの痛名を見る羽目になるのか、今後は。
そう思うと、少女の件などどうでもいいくらいに気が重くなってきたぞ。