なでなでは気持ち良いのです。
最悪の気分の時、あまり思い出したくない光景は、嫌でも脳内で繰り返されるものなのですね。
照れたようなお顔とまさしくお似合いだと思われたカナ様との仲睦まじいご様子。
もう何度目になるでしょうか、またもやジワリ、と浮かび上がってきた熱いものを止めることができず、屋敷から持ってきた巾着から新しいハンカチを取り出そうとしました。
わたしが持っているありったけのハンカチを詰めてきたはずでしたが、全てびしょびしょになってわたしの膝の上に山を作り、巾着の中はすでに1枚もありません。
どうしましょう、と思う暇なく白いものがわたしの顔を拭います。
「もう、アタシの可愛いウサギちゃんは、いつになったらまともなお土産話を聞かせてくれるのかしら?」
「…すっすびばせ」
「あーんもういいのいいのっレビィの好きなだけお泣きなさいなっ」
まったく仕方がないわねぇ、と言いながらその声と、涙を拭ってくれる手つきは優しい。その優しさにますます涙が溢れてきて、慌てて押し当てられたハンカチを手に取った。
「……本当にすみません、リィリィ……」
「これ以上謝ったら雷落とすわヨ」
「…ありがと、う」
テオドラの誇る王宮魔法使いの長にして、近隣の国にも並ぶ者はいないと称されるリィリィならば、わたしの頭の上だけに雲を呼んで雷を落とすことなど造作もないことでしょう。
久しぶりに聞いた昔と変わらぬ脅し文句に、涙と一緒に少しだけ笑いがこみ上げて、変な声が出てしまいました。
差し出されたハンカチは、リィリィが纏う香と同じ、花の良い香りがしました。それを涙やら鼻水やらでビショビショにしてしまうことは躊躇われたましたが、仕方ありません。
きちんと洗って返しますからと言いながら、涙を止めようと目頭に強く押し当てました。
少しずつ落ち着いてきて、淹れてくれた2杯目のお茶に口をつけました。懐かしい味にほっと息をつきます。
わたしが王宮に出仕するようになってリィリィと初めて出会った日からわたしが旅に出る3年前まで、こうしてリィリィの部屋に招かれ、おいしいお菓子とお茶を楽しみお喋りをするのがわたしの息抜きの場でした。
賑やかな家族と一緒に住み慣れた生家でのびのび育っていたわたしにとって王宮は、当初はとても気詰まりする場所だったのです。それに加えて奔放な殿下との接し方が分からず、イライラしたり落ち込んだりが続く日々。そんな時、逃亡した殿下を探すうち迷子になって途方に暮れたわたしの前に現れたのが、リィリィでした。
ひっどい顔よ、少しアタシとお茶でも飲まなーい?と強引にこの部屋まで連れてきて、おいしいお茶とお菓子をふるまってくれたのでした。人の懐に入るのが上手いのでしょうか、すっかりリィリィの調子に乗せられ、わたしは初対面だというのに誰にも言えなかった愚痴や不安を吐き出していたのでした。
それから時間がある時にリィリィの部屋に顔を出すようになり、2人だけのお茶会は習慣となったのです。
殿下への想いを自覚した後も話を聞いてくれたり心強いアドバイスをしてくれたり。旅に出ることを後押ししてくれて、反対されていた時もただ1人励まし相談に乗ってくれました。
リィリィは、家族やお側にいることの多かった殿下、わたし自身でさえよりも、わたしのことをよく理解していると思います。大事な、大事な友人です。
王宮の敷地の西側に位置する場所に、王宮魔法使いの方々が働き、居住するための魔法省の棟が4棟建っているのですが、そこに隣接してリィリィが1人で住んでいる建物があります。
一階は研究や仕事をこなす為の部屋で、二階が居住スペースになっているそうですが、わたしは一階の研究室の一室にしか足を踏み入れたことがありません。
様々な実験器具や魔法に使うという吊るされた草や葉や木の実、キラキラと煌めく鉱石、壁一面の本棚に並ぶ古そうな分厚い本、よく分からないものが詰められた瓶の数々、怪しげな雰囲気満点です。
しかしわたしが訪ねる時はいつも分厚く埃っぽいカーテンは開けられ、新鮮な空気が入るよう窓も開け放たれているので、不気味だと感じたことは一度もありません。
むしろ慣れればこの雑多な感じが心地よくさえありました。
リィリィには本当は「リィントリジア・うんたらかんたら(幼い頃に聞いたので長すぎて覚えきれませんでした)」という、立派な名前があるようなのですが、わたしは彼が望むままリィリィと呼んでいます。
「だってリィリィの方が可愛いでしょっ」というのが彼の言い分です。リィントリジアという名前も、可愛らしくも気品のある響きで、ピッタリだと思うのですけれど。
そうです、リィリィは彼、つまり性別は男性なのですが、口調が女性言葉なのも相俟って、見た感じは嫋やかな美女にしか見えません。よくよく見れば意外に広い肩幅や形の良い手から男性だと分かるのですが。
長い紅茶色の髪を指に巻きつける仕草や、その爪が綺麗な桃色の塗料を塗られているのを見ると、わたしも時折本当に男性なのかと確かめたくなるのですが。
しかしこれまでリィリィとわたしの性別の違いについて違和感を覚えたことは一度もありません。リィリィとのお喋りは楽しく気楽で、兄や弟しかいないわたしにとってはリィリィは昔から姉のような存在でした。
わたしが幼い頃から姿形が変わらず、しかも聞くところによると父が子供の時から同じ姿だというので、実際の年齢についていつかは聞き出したいと思っているのですが、昔聞いた時、怖い笑顔で誤魔化されたのが少しトラウマで、未だ年齢は謎のままです。
趣味は料理とお菓子作り、というリィリィの作ったお菓子は、王宮御用達のお菓子屋さんのお菓子よりも美味しくて、淹れてくれるお茶は、わたしが何度真似しようとしても同じ味は出せないのでした。
窓際の古びた木のテーブルに2人向き合って座っています。行儀悪く片肘をついて焼き菓子をつまみながら、リィリィは笑っています。自分の作ったお菓子を自画自賛する様子が可愛くて、こちらまで笑みが零れてしまいます。
「これまでの修行の成果は出たんじゃないの?」
「……どうでしょうか、分かりません。そうだと良いのだけれど…あまりにも、突然で、予想外の出来事でしたから……」
わたしは殿下やカナ様にお会いした時、自分の身体の一部を、……獣の耳と尻尾を……ちゃんと制御出来ていたのでしょうか。
愛しの殿下と再会出来た喜びに尻尾がブンブン動いてしまったり、その後のカナ様との恋人宣言の衝撃で、情けなく垂れ下がってしまったりしなかったか。
感情のまま無意識に動いてしまう耳や尻尾を制御できるようになることが、わたしの修行の旅の目的のひとつだったのです。
特に殿下やカナ様から何も言われなかったので、制御は出来ていたと信じたい。
殿下が恋人…カナ様を紹介されてからはわたしは笑顔を作るのに一生懸命で、その後は殿下とカナ様をご夕食に戻られるよう促し、わたしは王宮内に与えられていた部屋に逃げ帰ってしまったのであります。
一緒に食べようと誘ってくださった殿下の言葉を、疲れたからすぐにでもお休みしたいのです、と辞退してしまいました。
一晩、何も考えないで疲れた身体を休めることに専念し、一緒に朝食をと殿下から誘われる前に、朝の早い内から実家に帰りました。
それからまた王城に戻ってきましたが、まだ殿下と顔を合わせていません。心配をかけたであろう大切な友人のリィリィに帰還の報告をしなければと心の中で言い訳をして。
……情けないことこの上ありません。
久々に会うなり泣き出したわたしを、リィリィは部屋に招き入れ、「おかえりなさい」と言ってただ抱きしめてくれたのでした。
「実家はどうだった?さぞサザやハユルちゃん、兄弟たちも喜んだことでしょうねぇ」
「えぇ、まぁ…あまり便りを送らなかったことには拳骨をくらいましたが」
父からは文字通り星が飛ぶような重い一撃を何よりも先にもらってしまった。ハユルちゃん、こと母は変わらない笑顔を見せてくれましたが目尻に涙を浮かべていたし、兄上たちからは代わる代わる背骨が折れんばかりに強く抱きしめられ、ベッドから飛び起きて突進してきた弟たちが3年の間に自分より大きくなったことに驚きました。
「そうよぉ、反省なさいな。せっかく通信用の魔道具もあげたのにアタシに連絡くれたのは最初の1年だけだったでしょ。しばらく…半年だったかしら?実家にも便りが来てないって聞いてすっごく心配したんだからっ」
「う…それに関しては本当に、申し訳ないです…」
奴隷商人に捕まって持っていた荷物を全部奪われてしまったのです。
あの時はとても困った。何とか逃げ出したはいいが自分の荷物まで探す余裕はなく、一文無しで逃げ出したのでした。
そう説明すると、大変だったわねぇとリィリィは頭を撫でてきました。久しぶりのなでなでの気持ちよさについ目をつむってしまいます。
獣の耳の付け根も軽く引っ掻くように撫でてくれます。これが絶妙な加減なのです…きもちいい。
わたしの中に流れるアグミュールの血が騒ぐのが、気を許した人から頭を撫でられたり背中を撫でられたりすると、安心感や満足感、もっと撫でて!という気持ちになるのです。
わたしのように普段は狼の耳と尻尾を生やし、時には獣の姿にもなれる父や次兄、上の弟、獣人の血を色濃く受け継ぎ最も獣人らしい姿をした長兄、反対にあまり受け継がなかった末の弟も、なでなでにはどうしても抗えないと言っていました。
母からはよくなでなでしてもらうのですが、よくなでなでの順番を争って、父を交えての兄弟勝ち抜き戦を行ったものです。
クセのある髪の毛をぐちゃぐちゃにされるのは困りものですが、しかしわたしは昔からこのリィリィのなでなでが、母のなでなでの次に大好きでした。
「せっかく下さった魔法具を、なくしてしまってすみません」
「もーまた謝ったわね!いいのよう、無事に帰ってきてくれただけで嬉しいの。3年もよく頑張ったわね」
優しい言葉にまたもや目頭が熱くなり、今度は耐えることができたと思いましたが、リィリィにはお見通しだったようです。
頭に置かれていた手は頬にまで落ちてきて、目尻に浮かんだ涙を親指で拭われてしまいます。
「うう…泣いてばかりですね、わたし」
昔から、リィリィの前ではなぜか涙腺がゆるむのです。
辛い時や愚痴りたい時、リィリィに会うと話す気がなくとも、洗いざらい話してしまいます。
するととてもすっきりするのです。いつからかリィリィは、わたしの大事な友人であると同時に頼もしい相談役になっていました。
情けない気分になりながら、それでも甘やかしてくれるリィリィにさらに甘えたい気分で、頬を包む手に触れました。
人よりも少し体温の低いリィリィの手はひんやりとしていて、泣きすぎて熱くなった頬を冷やしてくれてこれまたとても気持ち良いです。
リィリィは目を細めて肘をついていた方の手もわたしの頬に当ててくれました。
「大人になったかと思えば、まだまだ子供ねぇ。でもいいのよ。長い間レビィがいなくて、ずっと寂しかったんだから。もっともーっと、甘えてちょうだい」
「リィリィ……」
じーんと感動していたのに、リィリィが両頬に当てた手に力を込めたので、わたしの唇がむぎゅっと突き出た変な顔にされてしまいました。
「うふふ変な顔〜カワイイ〜」
「むー!!」
さすがに恥ずかしい!ので軽く手の甲を抓ってやっとやめてもらいました。
仕切り直しで焼き菓子を口にします。甘酸っぱいジャムの程よい甘さと香ばしいナッツの歯ごたえが絶妙です。さすがリィリィ、暫く会わない間に菓子作りの腕を上げたようです。お腹は空いていませんでしたが何枚でも食べてしまいそうです。
「……わたし、思い上がっていたんです」
「殿下は変わらないままでいらっしゃると……テオドラに帰ってきたら、また殿下のお側について、いずれは…」
殿下と結ばれる、と。公私共に殿下を支えている自分を夢見て旅を続けてきました。
というのも、テオドラから発つことを決心する少し前に、陛下が側近の方たちと、殿下とわたしの結婚について話されているのを聞いたことがあったからです。
いずれはわたしと殿下に婚約してもらおう、と。
わたしの生まれは有難い事に、殿下の妃に相応しい身分であるし、何より殿下と1番仲の良い女性はわたしであるから、と。
陛下の話を聞く前にそういう、いずれは、の噂話を王宮のあちこちで聞いてはいたが、陛下の口からそのことを聞いて、初めて実感が湧いたのでした。
だからこそわたしは殿下にふさわしくあらねば、と修行の旅を決意しました。
今思えば、なんと安直すぎる考えだったことでしょう!
旅に出たこと自体を後悔するつもりはありませんが、なぜ陛下に直接婚約の話をお聞きしておかなかったのか、旅に出なければわたしは殿下と今頃婚約できていたのか、などと考えるとさらに気分はドン底、ドン底にさらに穴を掘って隠れたいくらいです。
殿下と婚約…したかった…などと考える自分が猛烈に浅ましく、恥ずかしく、腹立たしい!
「アナタは昔からアレクちゃん一筋だったもんねぇ…」
アグミュール家は狼獣人の家系です。
なでなで大好き。
なでなで勝ち抜き戦では年の功でレビロ父が勝利することが多いようです。
レビロ母はなでなでテクニシャンです。
テオドラ国の貴族には他に猫っぽい獣人一族がいます。
国民の大半は普通の人間ですが、中には遠方の獣人の国から移住してきた獣人もいます。テオドラは小国ですが、住みやすいと評判の国です。