ヒマワリと少女 一
あれ以来、プライベートとして三人で集まったことはない。どうしてだろうか?きっと些細なことだと思う。理由がわかったところで、何も変わらないから気にしないことにした。というよりも蝉の声がうっとうしくてそんなことを気にしている余裕はない。うだるような暑さがこの世界にのしかかっている。うっとうしい。日本特有の湿度の高さもこのうっとうしさを助長している。今日は何もかもがうっとうしい。まぁよくある話だ。エアコンは自分の家では点けないことにしている(天玄坂の家では気にせずつける)から、この暑さがどうにかならないものかと文句ばかりが噴出する。
「もうそろそろ夕方なんだけどなぁ」
時計に目を遣ると、短いほうが五を、長いほうが七と八の間を指している。……もうそろそろ、どころじゃない。普通に夕方だ。
「えー!?ヒマワリ無いのぉー!?」
唐突に、窓の外から声が聞こえた。どこか懐かしい響きのあるその少女の声は、べたべたとまとわりつく熱気をものともしない清冽な声だった。ヒマワリか……。そういえば昨日買ったな、なんとなく買わなきゃいけない予感に襲われたから。かりそめにもアーティストである俺は、自分のフィーリングを大事にする。というか、子供のころから勘がよかったから自分の勘を信じてるだけなのだが。にしても声のでかい子だな。肺活量が図抜けているんだろう。管楽器に向いている。俺は少女に少し興味を持った。ベランダへ出て、聞き耳を立ててみる。
「昨日売れちゃったんだよ、お嬢ちゃん……」そう言ったのは、このアパートの隣に店を構えている花屋のオヤジだ。困ったように頭をかいているだろう。そういう声だ。声の響きはその人の所作を表している。俺の好きなソプラノ歌手、ロサリオ・カラスの言葉だ。
彼女は盲目の歌手だった。あるインタビューでインタビュアーがサングラスをつけていることに気づいて、その無礼を諌めたという逸話や、ある弟子へのレッスンの日、弟子が挨拶をした瞬間本気で歌手を目指すならアルコールは控えなさいと叱ったという話がある。ちなみにその弟子はそれ以来禁酒をしているらしい。
建物は隣だが、少女とオヤジの姿は見えない。しかし、見えなくとも、オヤジの声はやれやれという動作を表している。俺にははっきりとわかる。
「オジョーチャンじゃないよ!もう大学生だもん」少女は言う。机の上に手をついて身を乗り出している声だ。俺も少女の真似をしてベランダから身を乗り出してみるが、ギリギリのところで二人の姿は見えない。これ以上無理をすると下に落ちるだろう。いくら二階とはいえ好き好んで落下する趣味はない。それに頭から落ちたら大惨事だ。
「見るだけでも良かったんだけどなぁ……」少女の声と体が萎んでいく。隣でヒマワリが太陽を探している。
「それなら……」そのオヤジの声以降声は聞こえなくなった。手招きをして耳打ちをしているオヤジの声はさすがに聞こえないから、どんな話をしているのかはわからない。
代わりに蝉がうるさくなった。……嫌な予感がする。空を見上げると、入道雲が青い空の端からゆっくり近づいてくる。ぱたぱたとサンダルで地面を走る音がする。電線が懸念のように電柱にぶら下がっている。
そういえば話は変わるが、このアパートはたしか一九八〇年代に建てられたものらしい。昔懐かしいユニットバスと、イグサのにおいの立ち込める四畳半のリビング、せせこましいキッチンで一室が構成されている。そんな部屋が二階に三部屋、一階に二部屋(もう一室は管理人室として使われている)あって、家賃は月に五万八千円。値段に対して意見はいろいろあるだろうが、バス停から徒歩七分ほどだから別段文句はない。二階へ上がるためには、古いアパートにありがちな、錆びついた鉄製の階段を上る必要がある。そこを上ろうとするとどうあがいても鈍い軋む音が響く。俺はできる限りその音が聞きたくなかったから、階段から一番遠い部屋を借りた。
さっきから階段が激しく軋む音が聞こえてきている。このリズムは……。どうやら走っているらしい。足音が近づいてくる。この時間帯に帰ってくるこの階の住人はいなかったはずだから、どうやら俺に用がある誰かか。何かを配達する人でもあるまい。走る必要がない。蝉の声が響く。足音がこの部屋の前で止まる。ためらったような沈黙の後、インターホンが響く。
「今のが、虫の知らせか……」次はもう少しうまく知らせてほしい。とりあえず得体のしれない相手には居留守を使うのが俺の流儀だ。まずは無視する。すると、もう一度インターホンが鳴る。間の空き方がいい。催促しすぎず、かといって催促しないわけでもない、駆け引きのうまいセールスマンのような間だ。
「あなたは完全に包囲されています!」予想通り、少女の声がした。内容は予想の斜め上をいったが、まぁ十中八九今の少女だろうと考えていた。……あのオヤジは「個人情報保護法」というものを知らないんだろうか。今更何を言おうが無駄だが。俺が言うことは一つだろう。
「開いてますよ」
「そうなんですか?不用心な人ですね!」少女は俺のことを信じ切ってドアノブに手をかけ、思いっきりドアを引っ張った。ドアは大きな音を立てて、しかし開かない。なぜなら俺は嘘をついたからだ。
「しまってるじゃないですか!うそつき!」少女は割と本気で怒っているようだ。
「君が開けようとした瞬間閉まるようにできてるんだよ」
「そんなセキュリティシステムがこんなボロアパートについてるわけないじゃないですか!」なんてひどいセリフを大声でいう子なんだ。歯に衣着せないというか。
「今日管理人来てるよ」
「え?ほんとですか?あ、あー、いい、アパートだなぁー!」少女はお世辞がひどく苦手らしい。こんな程度のお世辞も声が上ずっている。
……まぁ今のも嘘なんだが。
「ていうか話を聞いてください!」少女は管理人が来ないことを確認してから本題に戻った。
「そういえば、今この部屋には誰もいませんよ」俺はしれっと言う。
「なんですかそのウソ!」少女はあきれたような顔で言う。
「ヒマワリを見に来たんだろ?」俺が言うと、
「へ?あ、まぁそうなんですけど、なぜそれを?」少女は不思議そうに首をかしげる。
「今花屋でなんか話してたでしょ?君。大体聞こえた」
「耳いいんですねぇー、話が分かってるなら話が早いです!」少女はドアに詰め寄って言おうとするので
「断じて断る」先に釘を刺しておいた。
「おねがいしま、早いですよ!なんも言ってない!」少女は不満そうに声を荒げた。
「だって見ず知らずの女子大生なんか家に上げたら俺の貞操が危ういじゃない?」
「逆ですよ!危ういのは私です!それも覚悟の上でヒマワリが見たいんです!」少女は言う。
「じゃあ俺が体を求めたら応じる?」俺は好奇心で訊いてみる。
「走って逃げます」少女の表情は一瞬で真顔に戻った。
「じゃあ入っていいよ」
「やっぱそういうのがないと……、あれ?いいんですか?」少女は悲しそうに話し始めて意外そうに疑問をぶつけた。
「貞操観念もないバカ女と関わり合いになりたくなかっただけだから。じゃあ鍵開けるね」俺は重い腰を上げ、玄関へ向かった。
「で、どちら様?」
「こんにちっ……!」少女は顔を真っ赤にし、目を手で覆いながら飛び退く。不思議に思って下を見ると思いのほか肌色が多い。ああ、そういえば暑すぎてパンツ一丁だったっけ。完全に忘れていた。
「服、着たほうがいいかな?」俺は訊いた。
「当たり前っ!!」少女は激怒した。俺は、生まれて初めて、十以上年下の女に顔を真っ赤にして怒られた。ごめんごめんと適当に頭を下げながらドアを閉め、どんな服で行くか思案してみる。やっぱり裸エプロンかな。いや、流石にやめておこう。暑いから半袖半ズボンで行くことにした。もう一度ドアを開ける。
「ヒマワリ……、見せてください……」少女はおずおずとこちらを見ながら言う。本当にヒマワリが好きらしい。どこかあか抜けない、繊細な顔立ちだ。少女の顔をじっと見ていると当然ながら目があった。少女は一瞬何か重大なことに気づいたような顔をした後、子供が悪戯を思いついた時のような顔になり、普段の表情に戻った。
少女と俺の間には沈黙が漂った。しかし、少なくとも俺は気まずさを感じなかった。楽章と楽章の継ぎ目のような、次はどんな音が流れるのかに対する期待があった。ソロの苦手なオカリナ吹きとしては一音目は少女に任せたかったが、少女はプレッシャーに押しつぶされそうだった。これ以上は聴衆もざわつき始めるギリギリのところで、俺は意を決して声をかけた。
「……そんなに見たいなら、入る?」少女の顔が一瞬間に笑顔に変わる。
「うん!」精いっぱいの笑顔でうなずく少女。少女の笑顔は、ヒマワリのようだと思った。