序:春に咲くひまわり
「おじちゃん、こんなとこでどうしたの?」
そう少女は俺に声をかけた。当時の俺はおじちゃんというほどの年ではなかったが、とにもかくにもそう言われてしまったのだからどうにも仕様があるまい。田舎道の木陰で空腹によりうずくまっていた俺の顔を、少女のくりくりとしたかわいらしい瞳が見上げる。少女は大体五、六歳くらいだろうか。
「おなかいたい?いたいのいたいのとんでけ、する?」
「大丈夫だよ」
俺は少女に微笑みかけ、軽く頭を撫でた。そうすると少女はくすぐったそうにはにかんだ。少女の柔らかそうなほほが少し紅潮する。当時(無論今もだが)俺には少女に興奮する癖はなかったはずだが、少女のかわいらしさが胸を打った。そうして、少し空腹を忘れさせてくれた。
俺は隣に置いておいたカバンからオカリナを取り出した。
「?それなあに?」
少女はオカリナを知らなかったようで、初めて見るオカリナに興味を示していた。きらきらと目を輝かせて食い入るようにオカリナに見ていた。俺からすると、商売道具ではあるもののうまくいっていなかったせいで嫌いになりかけていた代物だったが。
「オカリナだよ」
「おか、りな」
聞きなれない発音を耳に焼き付けようとするように何度か呟くと、俺に向き直った。
「なにするもの?」
そういえば言っていなかった。
「楽器だよ」
「しってる!がっき!ぴぴーっとか、ばばーんとか、じゃらーんってなるやつ!」
俺には少女の言っている楽器がはたして何を指しているのか皆目見当もつかなかった(恐らくはそれぞれ違う種類のものだったろう)が、
「おっ、すごいなぁー」
と言って頭を撫でておいた。できてなくても肯定するのは子供に対する正しい反応だ。きっと。ほら、『風姿花伝』で世阿弥も似たようなことを言ってるし。少女はえへへーとはにかむ。
このくらいの幼児は八割がたかわいい(二割は生意気だと勝手に決めつけておく)ものだが、この子はとりわけかわいい気がした。木漏れ日に映える、少女の肩まで伸びた黒い髪は深い緑を照り返し、風が吹くとふわりとなびいてやわらかい香りが漂った。
俺はオカリナを構えて少女に言う。
「なんだか少し元気になってきたから、お嬢ちゃんに素敵な曲を聞かせてあげよう」
「『オジョーチャン』じゃないよ!『ハルネ』だよ!」
少女はそうまくしたてた。膨らせたほほのかわいらしさと、可憐な、よく通る高い声が俺をたしなめたミスマッチがなんだかおかしくて、俺は笑った。少女はなぜ俺が笑っているのかわかっていないようで、きょとんとした表情で俺を見ていた。当時は食うのにも困るような状況だったし、自分の才能の認められないことに絶望もしていたから、すっかり笑っていなかったのだけど、ずいぶん久しぶりに笑った。不覚にも涙が出そうになったが、そっちはなんとか制御できた。
「そうか、じゃあ、『ハルネちゃんに』、だな」
「うん!」
そういってハルネは花の咲くように笑った。ハルネの笑顔はヒマワリのようだった。俺はとびきり明るい歌をハルネに聞かせた。当時の即興曲などほんの拙いものだったろうが、誰かの曲を聞かせるよりは、自分なりの曲を聞かせて、喜んでほしかった。ラブレターみたいなものだ。拙くとも自分の言葉で…みたいな。そしてハルネも、その曲を聴いて笑顔だったからきっと喜んでいたのだろう。そのことが無邪気に嬉しくて、その後も何曲か即興で吹いて聞かせた。
それは、うららかな春の昼下がり。誰も知らない田舎道での、二人ぼっちのコンサート。聴衆は一人で十分なのだと知った日だった。
大体、十二、三年前のことだ。