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デビィは窓から差し込む日の光で目を覚ました。
くそっ、眩しい。世界中がまっ白になってしまったみたいだ。
頭が疼くように痛いし、吐き気もする。ううっ、畜生。あの女の持ってきたコークのせいか。ベッドの脇の小さなテーブルには白い粉とストロー。純度の高いコークだなんて嘘つきやがって、粗悪品だぜ、きっと。
昨晩、女はデビィが何度も挑んできて、その上、嫌がっているのに肩や胸に何度も噛み付いてくるのにうんざりしたのか、三度目のセックスの後、四度目を迫るデビィの頬を平手打ちにして帰ってしまった。
まあ、いいさ。どうせヤるためだけに連れ込んだ女だ。セックスさえしていれば人を食いたいという衝動をどうにか抑えられる。中途半端な化け物になってしまった俺には、もう恋なんて無縁だ。でも、構うもんか。恋なんか出来なくたって俺にはレイというかけがえのない友人がいる。そういえば、レイはどうしたんだ?
「レイ! 帰ってるのか?」
デビィはベッドから抜け出てキッチンを覗いた。レイはいなかった。いつもの朝ならレイが淹れたコーヒーの香ばしい香りと、オムレツのバターの匂いがするはずだが。
そうか。俺は昨日、レイを追い出したんだ。ラリってたからいったい何を言ったのか覚えていないけど、女を帰したくはなかったからなあ。まあ、そのうち帰ってくるさ。
シャワーを浴び、着替えを出そうとクロゼットを覗いたデビィは何となく違和感を感じた。やけに広い。ぼんやりした頭で数十秒かかって、ようやくレイのスーツケースがなくなっているのに気が付いた。おかしいな。
首を捻りながらドアの傍まで行くと、隅に紙袋とビニール袋が置かれているのが目に入った。ビニール袋の中には冷え切ったチキンバーガーがいくつかと、ワインの瓶。急いで紙袋を開き、中にあった箱の包み紙を開けると、そこには腕時計とデビィ宛てのバースディ・カード。これは……そうか。昨日は俺の誕生日だったんだ。
『そういえば、今日は俺の誕生日だったよ。母さんはいつも俺のためにご馳走を作ってくれたっけ』
昨年、俺がぽつりと呟いた言葉を、レイはしっかりと覚えていてくれたんだ。俺自身がもうすっかり忘れていたというのに。
なのに俺は何て酷いことを! 不意に、レイの最後の言葉を思い出した。
『荷物を取りに行ったらすぐに出て行くよ』
あいつ……まさか、本当に?
時計を持つ手が震え、胸に熱いものが込み上げてくる。
何としても連れ戻さなくては。デビィは急いでシャツとジーンズを着ると、外へ飛び出していった。
キャシーは目を覚ますと、ベッドから出て窓のブラインドを上げた。
朝の柔らかな日差しの中で眠るレイの顔を、魅せられたように眺める。
この人、本当に綺麗な顔をしてる。彼の相棒のデビィってどんな人か知らないけど、ストレートだって、しょっちゅうこの寝顔を見せられたら、あらぬ妄想を抱くに違いないわ。
「ああ、おはよう、キャシー」
レイが目を覚まし、身体を起こして軽く伸びをした。
「傷の具合はどう? レイ。目は見えるようになった?」
「ああ、もう大丈夫だよ。君は?」
「あたしも大丈夫。もう塞がってるわ。でも、しばらくの間、ショーには出れないわね」
「そう。それは残念だ。夕べのショーは素晴らしかったよ」
「ありがと。気に入ってもらえて嬉しいわ。ねえ、レイ、これからどうするつもり?」
レイは黙ってベッドから降りると窓から外を眺めた。
「この街を出ようと思ってる」
「思い直すことは出来ない? デビィって人、あなたを探してるかもしれないわよ」
「どうかな。まだ女といちゃついてるかも」
「ねえ、彼もヴァンパイアなの?」
「いや。なんというか、前は人間だった。今は違うけどね」
レイはデビィとの出会い、デビィがゾンビになった経緯、そして、今日までの暮らしのことをキャシーに話した。キャシーは黙って頷きながらそれを聞いている。
「そう。あなた達って、何だか大変な暮らしをしてるのね」
「まあね。ハンターに追われながらの暮らしは気が抜けないけれど、それなりに刺激的だし食料も手に入る。いつかは杭に刺し貫かれて死ぬのかもしれないが、その時はその時だ」
「強いのね。あたしもハンターは怖いけれど、あなた達みたいに開き直れないわ。死ぬのは嫌だもの。ああ、お腹すいてるでしょ? レイ。TVディナーでよければ暖めるわよ」
「ありがとう。それでいいよ」
カロリーカットのパンケーキにポテトフライのセット。キャシーの好物のブルーベリーのアイスクリーム、それにコーヒー。レイは食べながら部屋を見渡した。まっ白なシーツに豹柄の毛布。ベッドの枕元にはアニメのキャラクターのぬいぐるみがいくつか。落ち着いたブルーのカーペット。白いテーブルと椅子。若い女性らしさの感じられる素敵な部屋だ。簡単な食事を済ませるとキャシーはレイにバスタオルを投げて渡した。
「さあ、先にシャワーを浴びちゃって。今日は予定なんてないんでしょ? ぐちゃぐちゃ悩んでないで、外に出ましょうよ。いい天気だし」
「ああ、そうしようかな。コートを買いたいんだ。破れちゃったしね」
「あたしも。まったく散々だったわね」
そう言って屈託なく笑うキャシーをレイは強い、と思った。本当は悲しくて仕方がないだろうに。それに比べて俺はなんだ。大した事じゃないじゃないか。
デビィは思いつく限りの場所を探し回った。レストラン、図書館、公園、駅。レイの写真を持って何時間も歩き回った。だが、見かけたという人がいても、それは夕べのことではなかった。 畜生。やっぱり奴は行っちまったのか。不覚にも涙ぐみそうになるのをじっと堪える。
既に昼近くになり、慌てて勤め先のスーパーに電話をする。こっぴどく怒られたが、これは仕方がない。とにかく腹が減った。レイがお気に入りだったカフェに寄っていこう。
「いらっしゃいませ」
窓際の席に座ると、細面の中国系の若いウェイターがニコニコしながら近付いてくる。
「いつものでよろしいですか?」
「ああ」
ウェイターは声を低くしてデビィに囁いた。
「あの、先ほどレイさんがお見えになりましたよ。セクシーな女性とご一緒でした。何かあったんですか?」
「何だって!」
デビィがいきなり立ち上がったので、ウェイターはびくっと身体を震わせた。
「どっちへ行った? 早く言え!」
「え、ええとあの、ショッピング・モールの方へ……」
デビィはあっけにとられているウェイターを置き去りにして店を飛び出した。ショッピング・モールに入り、走り回って店を覗く。買い物客がびっくりしたような顔でデビィを見る。
そういえば、髪を梳かしてこなかった。俺ってずいぶん酷い顔に見えてるんだろうな。それにしても奴はいったい何処だ? セクシーな女性って誰なんだ? くそっ。もう店を出てしまっていなければいいが。レイとこのまま別れてしまうなんて絶対に嫌だ。
デビィが若い女性向けのブティックの前まで来ると、場違いな服装の連中が店に入っていくのが見えた。ハンターだ。思わず店の中を覗く。あれは……あいつらの先にいるのは……。
「ねえ、レイ。これなんかどうかしら」
「いいね。よく似合うよ」
キャシーは淡い紫色のフェイク・ファーのコートを羽織って、嬉しそうにくるりと回って見せた。レイはすでにベージュのトレンチコートを買って身につけている。それほど高価なコートではなかったが、レイが着ると高級なブランド品に見える。キャシーはレジでお金を払うと、レイと並んで歩き出した。
「おい、お前。ちょっと待てよ」
レイの前に突然、男が立ちはだかった。
黒く広い鍔のついた帽子に中世風の衣装。腰には剣を差している。二人の仲間も同じようなスタイルで、ひとりは杭をつがえたアーチェリーを持っていた。典型的なハンターだ。
「お前はひょっとしてレイ・ブラッドウッドじゃねえか? 性悪だって噂のヴァンパイアのよ」
レイは立ち止まり、男の顔を見たが、何も言わなかった。
ヴァンパイアという言葉に店にいた客が一斉に振り向く。仕事の手を止めた女性店員が驚いたようにレイ達を見た。近くにいたカップルは不安そうに抱き合い、若い女の子の二人組は興奮したように囁きあっている。
――ねえ、ヴァンパイアだって! あたし、初めて見たわ。すごい、かっこいいじゃない。
――何いってんのよ。人の血を吸う化け物よ! っていうか、あのハンター、早くやっつけちゃえばいいのに。
「おい、何とか言えよ!」
「ちょっと、何よ! 失礼じゃないの!」
「黙れ! 俺はこいつに聞いてるんだ!」
ハンターは腰から剣を抜こうと身構えた。
キャシーはおどおどと辺りを見回した。レイがすっと目を細める。困ったわ。どうしよう。
「喋れないんなら、喋らせてやるぜ!」
ハンターが剣を抜いた。その瞬間、
「ハイ、レナ! 待たせちゃってごめんよ。寂しかった?」
誰かがそう叫ぶと、レイに飛びついて抱きしめ、頬にキスした。デビィだ。
レイは驚いたようだったが、すぐににっこりして頬に軽くキスを返し、裏声でこう言ったのだ。
「寂しかったわ。アドルフ。ごめんなさい、風邪ひいちゃって声が変でしょ?」
うわ! まさかレイがここまでやるとは思わなかった。くそ、なんでどきどきしなくちゃいけないんだよ。それにアドルフってヒトラーじゃないんだから。いや、今はそれどころじゃない。これはあくまでも演技なんだ。
「彼女は俺の恋人だけど、あんた、何?」
デビィはレイに抱きついたまま、ハンターを睨みつけた。
「嘘をつけ! そいつは男だろう!」
「あらあ、酷いわね。セクハラで訴えるわよ!」
レイはデビィを見つめて妖艶に微笑んだ。
「まったく、嫌な人達。んねえ、アドルフ?」
「まったくな。お~い、店員さ~ん。ここに剣を振り回そうとしてる人がいますよ~。警察呼んでくださ~い」
「え? 剣ですって? 誰か~助けてえ~」
キャシーは噴出しそうになるのをかろうじて堪えた。緊迫した場面のはずなのに、抱き合う二人の様子が可笑しくってしょうがなかったからだ。さっきまでとは別人みたいよ、レイ。何だかとっても楽しそう。
「ちっ、ただのゲイかよ。気色悪い。おい、行くぞ!」
ハンターはうんざりしたように呟くと、仲間と共に店の外へ向かって歩き出した。 仲間が追いかけながら、大声で問いかけた。
「いいのか? あいつはレイじゃないのか?」
「ああ、てっきりそうだと思ったんだが、レイって奴はゲイじゃないらしい。それに冷酷な奴で人前で笑うこともないと聞いてる。あの男はどうみてもただのバカなゲイ野郎だ。残念だが人違いだな」
レイは苦笑した。
俺ってずいぶんイヤな奴だと思われてるんだな。まあ、そのほうが好都合だが。
店の客達が興味を失い、目を逸らす。女性店員はほっとしたように仕事に戻り、カップルは抱き合ったまま見つめ合い、二人の世界に入ってしまった。目を輝かせて成り行きを見守っていた女の子二人組もがっかりしたように肩をすくめ、立ち去った。
「……おい、デビィ」
「ん?」
「離せよ。もうハンターはいないぜ」
「あ、ああ……」
デビィはレイから急いで身を離し、顔を横に逸らすとほとんど聞き取れない声で呟いた。
「すまなかった、レイ。帰ってきてくれないか」
「え? 何?」
「俺が悪かったよ。謝る。だから帰ってくれよ」
「なんだか、よく聞えないなあ」
レイはそっぽを向いて答えた。
「だから、謝ってんだろ! お前がいないと部屋が汚れて困るんだよ!」
「俺は家政夫じゃないぜ、デビィ」
相変らず目を逸らしたままレイが呟くと、デビィは言葉に詰まって、うな垂れてしまった。
いたたまれなくなったキャシーが、横からレイに話しかける。
「レイ、これだけ謝ってるんだから、もう許してあげたら?」
レイはデビィの様子を見て、にやりと笑った。
「デビィ」
「何だよ」
「俺さ、夕べ彼女と同じベッドで寝たんだよ」
デビィは口をあんぐりと開けて額に手を当て、レイの顔を呆れたように見つめた。
「ええっ! なんだって! それじゃ、お前と彼女は……もう? ちっくしょう、手が早すぎるぜ……」
「何言ってんだ。手が早いのはお前のほうだろ。まあ、とにかくそういうことで、もう帰らなくても全然平気なんだ。ごめんよ、デビィ」
「ちょっと、レイ! もうよしなさいよ!」
レイは腰に手を当てて睨んでいるキャシーと、弱り果てた顔で天を仰ぎ、溜息をつくデビィを見て、ついに噴出してしまった。
「残念ながら、彼女とは文字通り一緒に寝ただけだよ。まあ、それは後で説明するけどね。それじゃ、改めて」
レイはキャシーの手を取って優しく微笑みかける。
「紹介するよ。キャシーだ。素敵な娘だろ? 俺達の部屋に連れて行ってもいいかな」
デビィはレイの顔を見てほっとしたように笑った。
「もちろんだよ。初めまして、キャシー」
「初めまして、デビィ。思ってたよりハンサムね」
デビィはキャシーに腕を絡めて歩き出す。レイは少し遅れてついて行く。
「おい、デビィ。これから誕生日のお祝いランチだ。もちろん、お前の奢りだぞ」
「ええっ。なんでそうなるんだよ~」
「当然だろ。お詫びのしるしってやつだ」
「まあ、いいや。あんまり高いもの頼むなよ! あ、キャシー、君は何でも好きなもの頼んでいいよ」
これでいい。デビィの生活態度は、すぐには変わらないかもしれない。
でも、デビィと共に過ごすことが、今の自分には一番必要なんだ。
自動ドアを抜けると、晩秋の冷たい風が吹き付けてくる。レイ、デビィ、そしてキャシー。三人の後を追うように枯れ葉がふわりと舞い上がった。