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 キャシーが去ってしばらくしてから、レイも席を立った。勘定を済ませてコースターを見たが、地図が簡単すぎて、よく分からない。まあ、どうにかなるだろう。

 店を出ると、いくつかの路地を通り抜け、どこをどう間違ったのか、レイはいつの間にか暗い倉庫の立ち並ぶ人気のない路地に迷い込んでしまった。

 路地には黒っぽいトラックが一台止まっているだけ。運転席には誰もいない。荷台には長い鞭を持った不気味なピエロのイラストが付いている。後ほど、レイはこのマークに深く関わることになるが、その時は嫌な絵だな、くらいにしか感じなかった。イラストを眺めながら車の横を通り抜けようとした時、前方から聞き覚えのある声が聞えてきた。

「ねえ、クリフ。これはいったいどういうこと? こいつ、一体何なの?」

「大人しく車に乗れ。お前はもう売られたんだ。せいぜい可愛がってもらうんだな!」

「いや! 何するのよ! やめて!」

 キャシーだ。レイはトラックの横を急いで走り抜けた。トラックの後方に三つの人影が見えた。キャシー、白っぽい上着で銀色の髪を長く伸ばしたハンサムな男。ちょっとゲイリー・オールドマンに似ている。そして黒いTシャツにジーンズ姿の体格のいい黒人。街灯に照らされたキャシーの腕をハンサム男が掴もうとした瞬間、キャシーが宙に舞い上がった。キャシーは呆然としている男の後ろにひらりと舞い降りると、その首筋に強烈な回し蹴りを浴びせた。

「うお!」

 男の身体がレイのすぐ前まで飛ばされてきた。黒人がキャシーに飛びかかる。キャシーが振り上げた足をがっしりと受け止めると、あっという間に彼女の身体は地面に投げ出された。

「このアマ、いい気になりやがって。少し痛いめにあわせてやるぜ」

 黒人の身体が突然変形を始めた。筋肉が動き、全身に真っ黒な毛が生え始め、服が破れ、男は黒い豹の姿に変わった。キャシーはゆっくりと起き上がる。彼女の身体にも灰色の毛がびっしりと生え始めた。耳が尖り、目は青緑色の光を放ち始め、次の瞬間、そこにはしなやかな灰色の猫が長い尻尾をゆっくりと揺らしながら黒豹を睨んでいた。お互いの唸り声が暗い路地をジャングルに変えるかのように響き渡る。やっぱり。彼女は猫族だったんだ。

 レイがキャシーに駆け寄ろうとした瞬間、飛び掛ったキャシーの身体を黒豹の鋭い爪が襲った。

「ギャ!」

 キャシーが血を噴いて地面に叩きつけられた。

 キャシーの首筋を狙おうとする黒豹の尻尾をレイは両手で掴んだ。

「グルゥ……」

 気付いた黒豹がレイの方に振り返る。レイの目が青い光を放ち、するどい二本の牙が伸び始める。

「グワァァアア!」

 レイは黒豹を睨みつけて咆哮し、その身体を振り回して倉庫の壁に激しく叩きつけた。だが、黒豹は素早く起き上がると、レイに向かってまっすぐに襲い掛かり、即座に押し倒してしまった。後脚でレイの足を押さえつけ、前脚の鋭く尖った爪をレイの胸にずぶりと突き刺すと、首筋に噛み付こうとしたが、レイは黒豹の喉を掴んで腕を伸ばし、その攻撃をかわした。だが、黒豹の力はとてつもなく強く、その牙は次第にレイの首に近付いてくる。レイはいきなり手を離すと身を捩り、バランスを崩した黒豹の身体を素早く押さえつけるように回転させてひっくり返し、逆に豹の首筋に噛み付いた。

「グオオ!」

 空気を震わせる咆哮。激しく暴れていた豹の身体はやがて動きを止めた。レイは顔を顰めながら、豹の食い込んだ爪を抜くとゆっくりと立ち上がった。

「殺さないで! お願い」

 キャシーの声に振り向くと、彼女は人間に戻っていた。変身したときに服が破けてしまったために真っ裸だ。その身体を両手で抱えこむようにしてキャシーは泣いている。左肩から胸にかけて痛々しい傷が見えている。

「愛してたのよ。だから殺さないで」

 レイはキャシーに近付くと、コートを脱いで肩に着せ、震える身体をそっと抱きしめた。そうか。この黒豹が恋人だったのか。

「大丈夫。眠らせただけだ。それより、傷が酷い。早く手当てしないと」

「平気よ。猫族は治りが早いの。あなた達、ヴァンパイア族には敵わないけどね」

「そうか。ああ、ちょっと待って」

 レイはキャシーの身体を離すと、まだ横たわって呻いているハンサム男の横まで歩いて行き、その胸倉を掴んで持ち上げた。

「おい、お前らはいったい何者だ?」

 男はレイの顔を見て、にやり、と歯を剥き出して笑った。

「さあね」

 次の瞬間、男の口は大きく裂けた。そこには鋭い牙と、長く細い先割れした舌。危険を感じたレイが男を突き放すと、男の吐き出した透明な液体がレイの首にべちゃりと掛かった。強烈な熱さと痛み。と、同時に目の前が真っ暗になってきた。目が見えない。突然、後方から男の笑い声が聞え、硬い触手のようなものがレイの首に強く巻きついて締め付けてきた。

「へへ。美形のヴァンパイアか。いろんな意味で使えそうだ。お前も一緒に連れてってやるぜ」

 強烈な締め付けで息が出来ず、苦しさで気が遠くなりそうになる。だが、こんな奴にやられるわけにはいかない。それはヴァンパイアとしてのプライドが許さない。レイは触手を掴むと、渾身の力を込めて引き千切った。熱い血がレイの顔に降り掛かる。

「ギャ!」

 男が悲鳴を上げた。

「……きさま、よくもやりやがったな! おい、クリフ。こいつをバラバラにしちまえ!」

 なんだって? あの男は眠らせたはずだ。身構えるまもなく、鋭い牙が右腕に襲い掛かり、再びレイは押し倒された。黒豹は今度はレイの右の脇腹と左腕に爪を食い込ませて押さえつけ、容赦なく右腕を引っ張り、噛み千切ろうとしている。

「く!」

 腕の骨が砕ける音が聞えた。レイは激痛に耐えながら頭を起こすと、左腕を押さえている黒豹の右前脚に思い切り噛み付いた。

 畜生! 絶対に負けるもんか!

 左腕を曲げて、力の弱まった豹の右前脚を掴んで振りほどいた。足を素早く曲げ、豹の腹を強く蹴り上げる。豹の牙が右腕から離れた瞬間、レイは身体を転がして豹から逃れ立ち上がった。黒豹の唸り声が聞える。噎せ返るような獣の臭い。咆哮。

 

 黒豹が地面を蹴ってレイに飛び掛る。だが、次の瞬間、数発の銃声が響き渡り、黒豹の身体はどさりと地面に落ちた。だが、今度は標的をキャシーに変えたらしい。キャシーの小さな叫び声と、黒豹の唸り声、そして弾の切れた銃の虚しい音。

 レイは神経を研ぎ澄ます。あいつはあそこだ。後ろから黒豹に飛び掛かり、押し倒すと再度、喉に噛み付いた。だが、今度は容赦しない。こいつの血を死ぬまで啜り、吸い上げてやる。人間の血しか受け付けないヴァンパイアにとって、猫族の血を吸うのはかなりの苦痛だったが、吐き気を堪えて血を飲み下す。やがて黒豹は身体を痙攣させて動きを止めた。レイは男から身体を離して立ち上がった。


「くそ!」

 男の声。車のドアが閉まる音。甲高い音をたてて車が走り去る。

 やがて、静まり返った路地に女性のすすり泣く声だけが響く。キャシーだ。

「すまない。でも、もう生かしてはおけなかったんだ」

「いいのよ。仕方ないわ」

 キャシーの手から銃が落ち、硬い音がアスファルトの道路に響く。レイは身をかがめ、手探りで銃を拾う。よくは分からないが、ずいぶんコンパクトな銃だ。ベレッタの22口径だろうか。

 レイは泣きじゃくるキャシーの身体を左腕で優しく抱き寄せる。

「あんな男だったなんて。愛してたのに。本当に愛してたのに……」

 キャシーはすでに人間の姿に戻っている元恋人の骸をじっと見つめて涙を拭った。

 

 

「ここよ。足元に気をつけて」

 キャシーはレイを部屋に入れると、ベッドに座らせた。

「酷い傷。凄く痛そうだわ。目のほうはどう?」

「ああ、少しだけ見えてきた。大丈夫だよ。それより、君の傷の方が心配だ」

「私は平気よ。心の傷はなかなか治りそうにないけれど。何か食べる?」

「いや、それより眠りたい。すごく眠いんだ。ソファを借りてもいいかな」

「いいのよ。気にしないで、ベッドを使ってちょうだい」

「ありがとう。そうするよ。それにしてもあいつらは一体何者なんだ?」

「さあ。あたしにも分からないわ。彼は猫族だし、この間まではすごく優しかった。もうひとりの男は蛇族だったみたい。髪が触手みたいになってたから、メデューサの系統なのかもしれない」

「どこかの裏組織に所属してるんだろうな。あのピエロのマークはいったい何なのか……」

「そうね……。でもとにかく、今は寝たほうがいいわ」

 キャシーは自らの肩の傷口を庇うようにタオルを当て、薄いサーモンピンクのパジャマを着るとレイのシャツを脱がせて腕にタオルを巻きつけた。

「スーツケースから着替えを出してもいい?」

「ああ。お願いするよ。パジャマが入っているはずだ」

 キャシーはスーツケースを開け、きちんと畳んで詰め込まれた服の中から肌触りのいいライトグレーの絹のパジャマを取り出した。うわ、この人、こんなの着て寝てるのね。レイにパジャマを渡すと、キャシーは湯を沸かして熱いコーヒーを淹れた。

 やがてレイが毛布に潜り込むと、キャシーはレイの横にするりと身体を滑り込ませた。

「キャシー、俺は……」

 戸惑ったレイが何か言おうとするとキャシーが人差し指でレイの唇を軽く押さえた。

「いいのよ。勘違いしないで。抱いて欲しいわけじゃないの。でも、今夜だけは手を握っていて欲しいの。お願い」

 レイは両手でそっとキャシーの手を握る。柔らかくて暖かい手だ。

 キャシーは身体を丸めて泣いていたが、やがて静かな寝息を立て始めた。レイは目を瞑りロザリーのことを思い出していた。

 毎夜、毎夜、彼女は俺と抱き合ったあと、俺の横で身体を少し丸めて安らかな寝息をたてていた。愛しいロザリー。彼女は無事に暮らしているのだろうか。

 恋……か。デビィは、彼はもしかしたら恋をすることを諦めてしまったのだろうか。だからこそ、ただ欲望を満たすだけのセックスに溺れるのか。俺は彼のことを十分に理解してはいなかったのかもしれない。

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