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「お客様、これなどいかがですか? とてもいい品ですよ」
ニューヨーク近郊の中堅都市 オールドオーク。かつては街の真ん中にひときわ大きい樹齢数百年の樫の木があったらしいが、今は枯れてしまって街の名前だけに面影を留めている。
レイは店主の勧める腕時計を手に取った。ここは繁華街にある老舗の時計店。白髪交じりの黒髪の店主は穏やかな笑顔で、レイの様子を眺めている。
銀色の腕時計はシンプルな濃い青色の文字盤が上品な輝きを放っている。ロンジンのスタンダードタイプだ。今風ではないが、落ち着いたデザインなのでいつの時代になっても使える。
ちょっと値は張るけれど、今日は金も入ったばかりだし、デビィはずっと腕時計を欲しがっていた。きっと喜んでくれるに違いない。
「これにします。包んでいただけますか? プレゼントなので」
「ありがとうございます。お誕生日ですか?」
「ええ。大切な友人なんです」
「カードをお付け致しますが、ご友人のお名前は?」
「デビィです。綴りは……」
店主が少し微笑んだ。
その笑みには『友人ではなく恋人でしょう?』という含みが多少感じられる。
男ふたりで暮らしていると、まず世間はゲイ・カップルだと思う。レイはそれをいちいち否定することをあまりしなくなった。本当の理由を説明することは出来ないし、第一、面倒くさい。逆にそう思わせておいたほうが都合がいい場合もある。
レイはデビィと暮らし始めて一年数ヶ月を過ぎたばかりだ。初めはデビィの食人衝動を抑えこむのにかなりの苦労をしたが、今はデビィも少しずつ自分でコントロール出来るようになってきていた。
昼間はデビィがスーパーなどで働き、夜はレイがカウンター・バーでバーテンダーの仕事をする。そんなパターンが定着したのもつい最近だ。
レイは満月になると吸血衝動が最大になる。そんな時でも、人間を殺すまで血を吸うことだけはしなかった。殺人は自分達を危険に陥れる。だから人間が生きていくのに支障のない量だけ血をもらう。ほとんどは後ろから襲うので相手に自分を目撃されることもない。もちろん、ハンターだけは別だった。彼らを生かして帰すことは絶対にしない。
だが、デビィはそうはいかない。殺さずに腕だけ頂戴することは事実上不可能だ。だから、普段は極力、衝動を押さえ込み、ハンターを倒した時だけその肉を食べるしかなかった。
人間だったデビィには耐え難い苦痛だったろう。でも、やっと何とかこの状況に慣れてきたようだ。このプレゼントはそんな彼への労いでもあるのだ。
「お支払いはカードで?」
「いえ、現金で」
レイが一番、不便を感じるのはカードを作れないことだ。居場所の足がつきやすいカードは大変、危険なのだ。
「ありがとうございました」
黒い包装紙で綺麗に包まれた箱には銀色のリボン。それを小さな黒い紙バッグに入れた店主は満面に笑みを浮かべながらレイに手渡した。
店を出ると、午後七時を過ぎていた。商店街には様々な人種の人々がそれぞれの思いや欲望をかかえて店を覗き、通り過ぎていく。ショーウィンドーにぼんやりと映る自分の姿を眺め、トレンチコートの襟を直しながらレイは考える。
もし、人間になれるものならなってみたい。その思いは今も時々心の底から沸き上がってくる。誰からも追われず、自由に生きて、恋をして、年を取って死にたい。少しだけ髪をかきあげて叶わぬ思いを振り払う。実現しない夢を追うことは虚しいだけだ。
デビィの誕生日を祝うために休みを取ったことは内緒にしてあった。いつものようにバーテンダーの服装で出てきたから、帰ってきた自分を見てデビィは驚くに違いない。レイはゆっくりと歩きだす。イタリア産のワインとチキンバーガーを買って帰ろう。
11月6日。街には早くも晩秋の気配を含む風が吹き始めていた。
ダウンタウン。
このあたりは低所得者が多く住む地域で、それなりに家賃も安かった。ところどころ壁が剥げ落ちたアパートの暗い階段を、足元に散らばるゴミを避けながら上る。エレベーターなんてものはついていない。三階から部屋のある四階まで上る途中、隣に住むゲイ・カップルの痩せこけた青年がちょうど上から降りてきて、びっくりしたような顔でレイを見た。
「あ、は、早いですね。レイ」
「ええ、今日は休みなので」
青年は落書きだらけの階段の壁に貼りつくようにしてレイを通すと、急いで下に降りていく。いつもは愛想のいい男なのにどうしたんだろう?
レイがドアノブに手を掛けたとき、中から微かな笑い声が聞えた。女の声だ。鍵を外し、そっとドアを開ける。薄暗い部屋の中はむっとするような嫌な臭いが漂っている。安っぽい香水と煙草の混ざった臭い。窓際にあるベッドにふたつの影が見える。デビィと、そして他の誰か。デビィの奴、また女を連れ込んでるな。
レイはドアの隅に紙袋とビニール袋を置くと、ベッドにずかずかと歩み寄り、勢いよく青いチェックの毛布を引き剥がした。
「うわ! なんだ!」
「きゃっ!」
そこにいたのは真っ裸のデビィと、うつ伏せになって煙草を吸う裸の女。長いブロンドの髪は白っぽくて艶がない。たぶん脱色したものだ。
「ちょっと、デビィ! これどういうこと? こいつ、誰なの?」
真っ赤な口紅のついたタバコをシーツに擦り付け、身体を起こして怒鳴る女を無視してレイが言った。
「デビィ、話がある。ちょっと来い」
そうして、デビィの腕をきつく掴むと、無理やりキッチンへと引っ張っていった。
「な、何だよ! レイ。彼女に失礼じゃねかよ」
デビィはろれつの回らない間延びした声で文句を言う。目が赤く、酒臭い。その上、鼻をぐずぐずさせてタバコとは異質の臭いをぷんぷんさせている。コークか。まったく何をやってるんだ、こいつは。
「デビィ。この部屋で女とセックスするなって俺は何度も言っただろ。そんなにヤリたいんだったらホテルで気が済むまでヤッてくれ。あと、コークはよせ。身体に悪いぞ」
朝になって、レイが帰ってくると綿のシーツがごわごわになっていることは今まで何度もあった。レイはいつも黙ってそれを洗濯していた。壁に染み付いた安タバコの臭いも気に触る。デビィが連れ込むのは決まってタバコを吸うすれっからしの女だ。それも一夜の快楽のためで、真面目に付き合おうなんて気はさらさらないようだ。
「まあまあ、固いこと言うなって。いいじゃねえか! だいたいお前がこんな時間に戻ってくるのが悪いんだしよ。それによ、もう人間じゃねえんだから身体のことなんて知ったこっちゃねえ」
「……とにかく、彼女には帰ってもらってくれ。今日は……」
「あ、そうかあ。俺だけが気持ちいいことしてんから気になっちゃうわけだ。でもよお、散々口説き落として、やっと連れ込んだんだぜ? まだ一発しかヤッてねえしよ。大目に見てくれよお、レイく~ん」
そう言うと、デビィは締まりのない顔でへらへら笑った。
「デビィ。最近のお前はだらしがなさすぎるよ。もう少しきちんとしたらどうなんだ」
「あのな~。お前は俺の恋人じゃねえし、親でもねえんだから、俺にあれはダメだ、これはダメだとか言うなよ。今、一番いいところなんだからさあ、お前は朝まで外で酒でも呑んでてくれよ。な?」
レイはデビィの顔を見てじっと考え込んでいた。このへんが潮時だろうか。俺が何もかもやってやるようでは彼はいつまでたっても自堕落なままなのかもしれない。やがてレイは寂しげな笑みをふっと漏らして呟いた。
「分かったよ、デビィ。荷物を取りに行ったらすぐに出て行くよ」
「おお~物分りがいいじゃねえか。ありがとよ、レ、イ、く~ん♪」
デビィは立ち尽くしたままのレイの肩をぽん、と叩いてキッチンを出てると、女の待つベッドにそそくさと戻っていった。
「いやあ、すまなかったな。気の利かない奴でね」
「早く追い出してよね。でもさ、すっごく綺麗な人じゃない。一瞬、あんたゲイなのかと思っちゃったわ」
「奴はただの同居人だし、俺は男を抱く気なんかねえよ。さあ、続きをやろうぜ」
ビッグサイズの乳房の間に顔を埋めようとした時、ドアの閉まる大きな音が響いた。ちょっと言い過ぎたかな。ま、いいか。デビィは女の乳首の先端で光るピアスを爪で軽く弾いて、乳首を噛んだ。
レイは重いスーツケースを引き摺りながら路地を彷徨った。ここに越してきたのは一ヶ月前。荷物のほとんどは、まだスーツケースに入ったままだった。
デビィの言葉が胸に突き刺さったまま、レイは深い溜息をつく。デビィ。俺はもう一緒にいないほうがいいのだろう。お前は俺がいなくてもどうにかやっていけるさ。でも、ハンターと一人で戦うのはまだちょっと無理かもしれないが。ああ、こんな別れ方になるなんて夢にも思わなかった。
「ホテルでも探すか」
歓楽街のホテルなら安いはずだ。明日はバーに行って辞めることを伝えなければ。この次はどの街へ行こうか。デビィは湖の近くがいいと言っていたな。ああ……そうか、もう一緒じゃないんだ。重い足取りでホテルを探していると、派手なクラブの看板が目に入ってきた。猫の扮装をしたダンサーがにっこりと微笑みかけてくる。なぜかその笑顔に暖かいものを感じて、レイは『ダンシング・キャット』という名のそのクラブに足を踏み入れた。幸い、会員制のクラブではなかった。店の奥にステージを備えたかなり広い店内は、週末のひとときを楽しむ人々で溢れている。案内された隅の席で、レイはトレンチコートを脱いだ。バーテンダーの服装がいやに場違いに感じる。着替えてくればよかった。ウェイターは好奇心丸出しの目付きでレイを眺めている。
「仮装パーティの帰りなんだ。似合ってないか?」
「いいえ、とてもよくお似合いですよ。ご注文は?」
「ドライ・マティーニを」
「かしこまりました」
ウェイターはスーツケースにちらりと目をやって、少し不審そうな顔をした。
ふふ。嘘がばれたかな。
マティーニか。そういえば俺が作るマティーニに、ジンの割合が少ないとかいつも文句をつけていたな、デビィ。もう一度同じ割合で作ってやったら、『うん、これだよ。この方がずっといい』って、ずいぶんいい加減な舌を持ってるな、デビィ。
俺はヴァンパイアだし、デビィはゾンビだけれど、一緒にいるとそういうことは忘れてしまう。奴と軽口を叩くだけで心が満たされていくような気がした。いい友達だったし、家族といってもいい存在だった。でも、もう彼も独立していいころだ。女好きのデビィにとって、俺との暮らしはやっぱり不自然で窮屈に感じていたのかもしれない。これでいいんだ。でも……。
店のステージでは軽快なリズムに合わせてマジシャンが大きな箱を使ったマジックを演じている。剣が何本も差し込まれた箱から美女がするりと出てきてポーズを作る。まばらな拍手の後に、セットが片付けられると、ステージの照明が消えた。
「お待たせしました! 皆さん、お待ちかねのセクシー・キャット、ミス・キャシーの登場です!」
ステージの中央にスポットライトが当てられると、暗闇の中から一人の女性が光の輪の中にすらりとした青いハイヒールの足を踏み入れた。ミス・キャシー。ふわりとした銀の髪に鮮やかな青いメッシュ。大きくて綺麗な青緑色の瞳に形のいい唇。ナイス・バディにぴったりと張り付くような尻尾のついた銀ラメの衣装。大きな拍手と歓声、そして口笛。やがて官能的なラテン・ミュージックに合わせてキャシーは踊り始めた。それはまるでジャングルに住む雌豹のように、しなやかで、セクシーで、獰猛さを秘めたダンスだった。手足の官能的な動きが残像を作り、麻薬のように本能を刺激する。レイは彼女の踊りに魅せられ、目が離せなくなった。あの動き。身のこなし。ひょっとすると彼女は……。
やがて、音楽が止むと、今度は陽気なポップミュージックと共にステージがぱっと明るくなった。キャシーと同じような衣装を着た数人の女性が登場し、陽気なダンスが始まる。キャシーの一人舞台でかけられた呪文が解けたかのように、客席から話し声が聞え始めた。
レイは運ばれてきた三杯目のドライ・マティーニを一気に飲み干すと、ふっと溜息をついた。もう、考えても仕方がないことなのに。どうしてこんなに寂しいのだろう。
「ねえ、ちょっといいかしら」
いつの間にか、レイの横にキャシーが座っていた。ステージ衣装から黒いニットのミニドレスに着替えた彼女の胸には、金の三日月のネックレスが輝いている。
「あなた、ずいぶん悲しそうだから。私がキスすれば、少しはあなたの悲しみが和らぐかしら?」
そう言って、キャシーはにっこりと笑った。屈託のないその笑顔に癒されない人間はいないだろう。
レイは黙ったまま少しだけ微笑んで見せる。
この人、綺麗な目をしてる。透き通るようなペールブルー。ストレートな金髪もキラキラしてて男にしとくのがもったいないくらい。それにしてもバーテンダーの格好でスーツケース持って、なんだかよほど事情がありそうだけど。一人にしといたら、このへんの悪い連中の餌食になりそうだわ。
それにしても……なんて寂しそうなのかしら。
キャシーがそっと顔を近づけてレイの頬にキスをすると、レイの顔がほんのりと赤く染まった。
あら、まあ。ふふっ、この人、ずいぶん純情なのね。
「ありがとう。少しだけ気分がよくなったみたいだ。それじゃ」
レイはキャシーの顎にすっと片手を伸ばすと頬にキスを返す。実にさりげない仕草が品のよさを感じさせる。この人って何者なんだろう?
「ねえ、よかったら事情を話してくれない? 嫌なら無理にとは言えないけど」
レイはオリーブだけ残ったグラスに視線を落とすと、ぽつりと呟いた。
「友人と喧嘩別れしたんだ。一緒に住んでたんだけどね」
レイはキャシーに話して聞かせた。もちろん、自分がヴァンパイアであるということは隠して。
「バーテンダーは俺の仕事なんだ。今日は仕事に行くふりをして、急に戻って脅かしてやろうと思ったんだけど……バカだったよ。そんな小細工をせずに最初から言うべきだったんだ。誕生日おめでとうってね」
「……そうね。でも……ええと」
「ああ、レイって言うんだ。君はキャシーでいいのかな?」
「そうよ、よろしくね、レイ。でも、いきなりベッドを覗いたあなたも悪いし、あなただって本当に別れたいわけじゃないんでしょう?」
レイはじっと考え込んでいた。
「俺達は恋人同士じゃないけれど、いい友達だった。これ以上はないほど。でも、俺がいつまでもいることは、彼の自由や自主性を奪ってしまうことになる。だから、たぶんこれでいいんだよ」
「……どこか行くあてはあるの?」
「いや」
「だったら、今夜はうちに泊まりなさいな。あたしはこれからデートだから朝まで帰らないし。お腹がすいてるんなら、冷蔵庫の中のものを自由に食べていいわ。TVディナーくらいしか入ってないけれどね」
レイは驚いたようにキャシーを見た。
「本当に?」
「ええ、気にしなくっていいわよ。あたしは全然構わないから。待ってて」
キャシーは席を立って、ホールの外に出て行き、すぐに戻ってきた。
暖かそうな白いふわふわのコートを羽織ったキャシーは黒い皮のハンドバッグから鍵を取り出してレイに渡すと、テーブルにあった紙のコースターにボールペンで簡単な地図を書いてみせた。
「ここがこの店でしょ。ここを出てこう行って、大通りに出て、銀行の横の道を曲がったところにあるアパート。三階の右側の部屋よ。このあたりの路地はちょっと柄の悪い連中がうろうろしてるかもしれないから気をつけてね」
「ありがとう。助かったよ」
「それじゃ、またね。彼が待ってるの。ふふ、素敵な人なのよ」
キャシーは軽くウインクしてレイに微笑んだ。