9話
その男がそこに立っているだけで、大気から熱が奪われていくようだった。
銀髪を夜風に揺らし、左目の十字傷を刻んだ男――アッシュ・グレーン。
かつてカイルの命を救い、「内燃循環」の基礎を授けたその人は、今や「虚無の教団」の冷酷な執行官として、かつての教え子の前に立ちはだかっていた。
「……どうして」
カイルの声は、自分でも驚くほど震えていた。
心のどこかで、ずっと信じていた。あの時背中を守ってくれた騎士は、今もどこかで正義のために戦っているのだと。しかし、アッシュが纏う「無色」の魔力は、カイルのそれよりも遥かに深く、慈悲のない「拒絶」の色に染まっていた。
「どうして、教団なんかに……! 貴方は、魔力がなくても人は守れると言ったじゃないか!」
「守れる? ……ああ、守ったさ。だが、守った先にあったのは、裏切りと忘却だ。この国の王族も貴族も、魔力の濃淡ですべてを測る。色を持たぬ者がどれほど血を流そうと、彼らの目には何も映りはしない」
アッシュが静かに歩を進める。一歩ごとに、床の石畳が白く凍りついていく。
魔法ではない。あまりに高密度の魔力が、周囲の分子運動を強制的に停止させているのだ。
「カイルと言ったか。お前の未熟な循環を見れば、まだ『あの男』の言葉を信じているようだな。ならば、教えてやろう。真の無色が、何を成すのかを」
アッシュの姿が掻き消えた。
カイルの『魔流感知』が警報を鳴らす。だが、捉えきれない。速すぎる。
「カイル、危ない!」
アイリスが叫び、咄嗟に防御魔法を放とうとした。しかし、アッシュはアイリスには目もくれず、カイルの懐に音もなく滑り込んだ。
「――循環停止」
アッシュの指先が、カイルの胸の中央、魔力の基点となる「核」を叩いた。
カイルの体内で激しく回転していた透明な魔力が、一瞬にして凍りつく。血管を駆け巡っていた熱気が消え、代わりに氷のような寒気が全身を支配した。
「……あ、……っ」
カイルの膝から崩れ落ちる。
力が、入らない。自分の意志で動かしていたはずの魔力循環が、外側からの「上位の循環」によって完全に上書きされ、封殺されたのだ。
「この術理は、完成すれば神をも殺す。だが、お前のように『守るもの』などという不純物を抱えたままでは、ただの自傷行為に過ぎん」
アッシュが腰の漆黒の剣を抜き放つ。
その矛先は、動けないカイルではなく、彼を庇おうと立ちはだかるアイリスに向けられた。
「待て……! アイリスには、手を出さないでくれ……!」
「王家の血筋……この歪んだ世界の象徴だ。まずは、お前の目の前でその『守るべきもの』を断ち切ってやろう。それが、お前への最後の授業だ」
黒剣が、無慈悲な速度でアイリスの細い首筋を狙って振り下ろされる。
アイリスは恐怖に目を見開きながらも、決してカイルの前をどこうとはしなかった。
「……絶対に、させない……!」
カイルの喉から、血を吐くような叫びが漏れた。
循環が止まっている。体は動かない。だが、カイルの脳裏には、あの日見た「名もなき騎士」の背中ではなく、この数日間、自分の隣で笑ってくれた少女の横顔が浮かんでいた。
(最強にならなくていい。……最速でなくていい。ただ、彼女に届く『力』を!)
その瞬間、カイルの凍結したはずの心臓が、一度だけ、力強く脈動した。
アッシュが流し込んだ「停止の魔力」を、カイルは排除しようとはしなかった。逆に、その冷たいエネルギーを自身の核に取り込み、摩擦(摩擦熱)として利用したのだ。
――循環特異点。
「おおおおおおおっ!」
カイルの全身から、凄まじい「白」の光が溢れ出した。
アッシュの黒剣が届く直前。カイルはアイリスを抱き寄せ、地面を蹴った。
それは、アッシュですら予想だにしなかった「逆転の循環」による爆発的な機動力だった。
数メートル後方へ着地したカイルの全身からは、真っ白な蒸気が立ち昇っている。
その瞳は、もはや透明ではない。限界を超えて励起した魔力が、真昼の太陽のような輝きを放っていた。
「……ほう。私の干渉を、自身の加速の糧にしたか」
アッシュの口角が、わずかに吊り上がった。それは、かつて彼が見せた「師」としての冷徹な喜びのようでもあった。
「いいだろう。だが、その出力……今の貴様の体では十秒も持つまい。その十秒で、私を殺すか? それとも――」
アッシュが空を指差す。
そこには、教団が呼び寄せた巨大な魔導兵器が、学園の時計塔を狙ってエネルギーを充填している姿があった。
「あっちを止めるか。……選べ、カイル」




