5話
禁忌の森での騒動は、一夜にして学園の平穏を塗り替えた。「無色の平民」が、名門貴族の嫡男を魔法ごと粉砕し、あまつさえ王女アイリスを守り抜いた。その噂は尾ひれをつけて広がり、カイルに向ける生徒たちの視線には、明らかな「恐怖」と「困惑」が混じるようになった。
翌朝、カイルに届けられたのは一通の黒い封書。
「学園長が呼んでいる。……一人で、だ」
アイリスは心配そうに彼を送り出したが、カイルはただ「大丈夫だ」とだけ言い残し、学園の最上階、賢者の塔へと向かった。
重厚な扉の先で待っていたのは、無数の古書と不思議な光を放つ魔導具に囲まれた、学園長メルキオールだった。彼は窓の外を眺めたまま、振り返らずに口を開いた。
「昨日の報告書を読んだ。……影狼王を一撃、そしてゼノス・バートランドの三階梯魔法を『素手』で霧散させた。……面白い。実に面白いな、カイル・ヴァン・クロムウェル君」
学園長がゆっくりと振り返る。その慈愛に満ちた老人の瞳の奥に、獲物を鑑定するような鋭い知性が光っていた。
「君の魔力は、この世界の定義では計れない。通常の魔法使いが『大河』から水を汲み上げる者だとすれば、君は『針の穴』に巨大な水圧をかけている。……その特異な技術、独学とは到底思えんが?」
「……自分でも、どうしてこんなことができるのかは、詳しくは分かりません。ただ、生き残るために必死だっただけです」
「嘘ではないな。だが、すべてでもない」
メルキオールはデスクの上に、一本の古ぼけた短剣を置いた。それは、カイルが森で使っていた鉄剣ではない。彼が肌身離さず持っている、折れた剣の「柄」の部分だった。
「その紋章……今は亡き『王国辺境守備隊』のものだ。十年前、北方の魔物暴走により壊滅した伝説の部隊だ」
カイルの胸が、鋭く痛んだ。
十年前。燃え盛る村、逃げ惑う人々。そして、絶望の中に現れた一人の騎士。
その騎士は、カイルと同じように魔力の輝きを持たなかった。しかし、その剣筋は誰よりも速く、誰よりも重かった。
「……あの日、僕は死ぬはずでした。僕を助けてくれた人は、僕の胸に手を当ててこう言ったんです。『お前の魔力は、外には出ない。だが、内側で燃やせ。自分を動かすためだけの炎に変えろ』と」
カイルがその言葉を口にした瞬間、メルキオールの表情から笑みが消えた。
「『内燃循環』……。やはり、あやつが生きていたのか。カイル君、君にその術を教えた男の名は……アッシュ・グレーンではないか?」
「……名乗ってはくれませんでした。ただ、この折れた剣を預かっただけです。いつか、僕が自分自身の力でこの剣を打ち直せるようになった時、返しに来いと」
メルキオールは深く椅子に背を預け、天井を見上げた。
「アッシュ……。かつてこの国で、魔力を持たぬがゆえに『影の英雄』と呼ばれた男だ。だか、彼はある事件を境に、王国を裏切った反逆者として指名手配されている」
カイルの呼吸が止まる。
「反逆……? あの人が?」
「真実は闇の中だ。だが、一つだけ確かなことがある。君が彼の術理を引き継いでいると知れれば、王国議会や教団は君を放っておかない。……昨日のゼノスへの一撃は、少しばかり目立ちすぎた」
学園長は立ち上がり、カイルの肩を叩いた。
「君の力は諸刃の剣だ。最強ではない。……いや、最強になってはいけない。君がその力を完全に制御できなければ、君自身が自らの循環によって内側から弾け飛ぶだろう」
メルキオールは、一枚の古い巻物をカイルに差し出した。
「これは、アッシュが残した『循環の練成法』の断片だ。……これを学び、誰にも悟られぬよう、より精密に力を隠せ。アイリス様を守りたいのなら、なおさらだ」
カイルは無言で巻物を受け取った。
憧れた騎士が反逆者。そして、自分はその影を追っている。
重い事実に眩暈がしたが、同時に、心の一部では納得していた。あの静かな強さが、日向の魔法騎士たちのものとは異質であることを、幼いながらに感じていたからだ。
学園長室を辞したカイルは、廊下で待っていたアイリスと鉢合わせた。
「カイル! 何か叱られたの? それとも……」
「……いや、何でもない。ただ、もっと修行が必要だと言われただけだ」
カイルは精一杯の嘘を吐いた。
アイリスに、この呪われた過去の繋がりを背負わせるわけにはいかない。
だが、アイリスはカイルの瞳をじっと見つめ、その震える指先をそっと包み込んだ。
「嘘をつくときは、私の目を見ないのね。……でも、いいわ。今は聞かない。あなたが話してくれるまで、私はあなたの隣を離れないって決めたんだから」
彼女の温もりが、カイルの凍りかけた心を解かしていく。
アッシュ・グレーンの真実。そして「無色の魔力」に隠された、さらなる深淵。
カイルは誓った。何があろうと、この温もりだけは守り抜くと。




