4話
森の空気が爆ぜた。
カイルの「第二段階」——体内の全魔力回路を強制並列接続し、神経伝達速度を物理限界まで引き上げる禁忌の術理。
彼の視界では、猛然と振り下ろされる影狼王の巨爪が、まるで止まっているかのように緩慢に見えていた。
(熱い……全身の血液が沸騰しているようだ)
カイルは一歩、踏み出す。
地面がクレーター状に陥没し、次の瞬間には、彼は影狼王の鼻先に到達していた。
鉄剣が鞘から放たれる。抜き放たれた白刃は、摩擦熱で白熱化し、空気を焦がす「無色の閃光」となった。
「——断」
一閃。
影狼王の巨大な首が、抵抗なく宙を舞った。遅れて、凄まじい衝撃波が周囲の木々をなぎ倒す。魔力を持たないはずの平民が、ランクBの魔物を一撃で屠るという異常な光景がそこにあった。
だが、代償は即座に訪れた。
「……っ、が……あ……っ」
カイルは剣を杖代わりに、その場に膝をついた。全身の毛細血管が悲鳴を上げ、皮膚から微量の血が霧のように噴き出す。過剰な循環に肉体が耐えきれず、激しい虚脱感が彼を襲った。
「カイル!」
アイリスが駆け寄ろうとしたその時、上空から複数の火球が降り注いだ。
「あはは! 素晴らしい! まさか影狼王を倒すとはな。だが、動けないならただの案山子だ!」
茂みから姿を現したのは、卑劣な笑みを浮かべたゼノスと、彼に従う数名の生徒たちだった。彼らの手には、既に次の攻撃魔法が練り上げられている。
「ゼノス……貴方、正気なの!? 学友を魔物に襲わせ、その弱った隙を突くなんて……騎士の誇りはどこへ行ったの!」
アイリスがカイルの前に立ち、紅蓮の魔力を盾にして火球を弾き飛ばす。しかし、ゼノスは余裕を崩さない。
「誇り? そんなものは勝者が決めることだ。アイリス様、そいつは『無色』という呪いを持って生まれたバグなんだ。ここで俺が処分してやるのが、王国の、そして貴女のためでもある!」
ゼノスが合図を送ると、取り巻きたちが一斉に魔法を放つ。土の槍、風の刃、そしてゼノスの放つ極大の火炎。多方向からの同時攻撃に、アイリスの表情が険しくなる。彼女一人なら防げるだろうが、背後に動けないカイルがいる以上、回避は許されない。
「くっ……! 私が守る……っ!」
アイリスが魔力を最大限に解放しようとした、その時だった。
彼女の背中を、熱を帯びた、しかしひどく落ち着いた手が押し留めた。
「……もう、大丈夫だ。アイリス」
「カイル!? でも、その体で……」
カイルはふらつきながらも立ち上がっていた。彼の瞳からは先ほどの激痛の残滓が消え、底知れない「透明な静寂」が宿っている。
彼は剣を構えず、ただ空いた左手を前に突き出した。
「ゼノス、言ったはずだ。僕の魔力は、器が壊れていて外に出せないんだと」
「ああ、聞いたさ! だからこそ無能なんだろうが!」
「……違う。器が壊れているからじゃない。器の『出口』が、あまりに小さく絞られているだけだ。だから、外に出る瞬間——それは圧倒的な『圧力』になる」
カイルが掌をゼノスに向ける。
その瞬間、ゼノスたちが放った魔法の嵐が、カイルの数センチ手前で**「消失」**した。
「な……!? 消えた……? 俺の魔法を打ち消したというのか!」
「いいえ……打ち消したんじゃないわ」
アイリスは目撃していた。カイルの掌から放たれた、目に見えないほど細く、そして鋭い「魔力の針」が、ゼノスたちの魔法の核(構成理論)を正確に射抜き、霧散させたのだ。
「魔力貫通……。魔法そのものを破壊する、究極の精密操作……」
カイルは一歩、また一歩とゼノスへ歩み寄る。その足取りは重いが、放たれるプレッシャーは先ほどの影狼王を凌駕していた。
「ひ、ひいっ……! くるな! 来るんじゃない!」
恐怖に駆られたゼノスが、無茶苦茶に火炎を放つ。だが、カイルはそれらを最小限の動きで受け流し、あるいは指先で弾き飛ばしながら、ついにゼノスの喉元まで到達した。
カイルは剣を抜かなかった。ただ、拳をゼノスの腹部に軽く当てた。
「これは、アイリスを危険に晒した分だ」
ドン、と乾いた音がした。
魔力を纏わせた打撃ではない。ただ、体内の循環速度を一瞬だけ一点に集中させた「衝撃」が、ゼノスの防壁魔法ごと彼を吹き飛ばした。
ゼノスは大木を二本なぎ倒し、そのまま白目を剥いて気絶した。
静寂が森に戻る。
カイルはそのまま、力尽きたようにアイリスの肩に寄りかかった。
「……悪い。少し、休みを……」
「ええ……お疲れ様、カイル。あとのことは、私に任せて」
アイリスは、自分の肩に預けられた少年の温もりを感じながら、確信していた。
この少年は、いつかこの国の常識をすべて塗り替えてしまうだろう。そして自分もまた、その隣を歩くために、もっと強くならなければならないと。
夕暮れの森に、二人の重なり合う影が長く伸びていた。




