第5話 旅立ちの朝
朝靄が薄く漂い、まだ冷たい空気が村の屋根の上を流れていた。
夜明け前の空は淡く染まり、東の空の端から、金色の光がゆっくりと顔を出す。
アルスは寝台の上で静かに息を吐いた。
胸の奥には、まだ昨夜の温もりが残っている。
父の言葉、母の涙。
それらが心の奥でやさしく溶け合い、彼を包んでいた。
「……行かなくちゃな」
呟きながら立ち上がり、窓の外を見る。
霧に包まれた村の道が、朝の光を受けて少しずつ輪郭を取り戻していく。
その光景が、まるで新しい世界の扉を開くように見えた。
支度を終えると、背負い袋の重みが肩にかかる。
中には乾燥肉と干しパン、薬草、替えの衣服、そして父が昨夜手渡してくれた剣。
鞘には父の手跡が残っており、その感触に胸が熱くなる。
――「これを持って行け。困った時にお前を守ってくれるはずだ」
その言葉が耳に残っていた。
父の声は不器用だけれど、確かな愛情が滲んでいた。
アルスが部屋から出て階段を降りると、すでに父ローランと母エリナが戸口に立っていた。
二人の表情には、寂しさと誇らしさ、そして抑えきれない想いが入り混じっていた。
「よく眠れたの?」
母が微笑んで尋ねる。
声は優しいが、少し震えている。
「うん、すぐに寝ちゃったよ」
アルスは照れくさそうに笑いながら答えた。
父は腕を組み、息子をじっと見つめた。
「道中は気を抜くな。森を抜ければ街道に出る。そこから王都までは馬車を使え。無理に歩き通す必要はない」
「わかってるよ、父さん。そんなに心配しなくても大丈夫だって」
笑って言うアルスに、父は小さく首を振ってため息をつく。
「まったく……そう言うのは昔から変わらんな」
そう呟いたあと、ふと遠くを見るような目をした。
父の胸の奥で、誇らしさと寂しさが入り混じる。
母は近づき、アルスの服の裾を整えた。
指先がわずかに震えている。
「アルス……元気でね。本当に、無理はしないで」
その声には、祈りのような想いが込められていた。
アルスは柔らかく笑い、母の手をそっと包み込む。
「母さん、ありがとう。絶対にまた帰ってくるから」
母の目から、堪えていた涙がこぼれ落ちた。
朝の光を受けて、その雫がきらめく。
父が一歩近づき、無言でアルスの肩を叩いた。
それだけで十分だった。
その一瞬に、言葉以上の想いが通い合った。
やがて、三人は静かに戸口から家の外に出た。
村の広場に向かうと、すでに何人かの村人たちが集まっていた。
皆、旅立つ青年を見送るために早起きしてきたのだ。
ジルの姿もあった。
いつものように腕を組み、無骨な笑みを浮かべている。
「よう、いよいよ出発か。……もう俺に教えることはねぇな。胸を張って行ってこい」
「ジルさん、今までありがとう。俺、絶対に大きくなって帰ってくるよ」
アルスの言葉に、ジルは大きくうなずいた。
「おう。だが、いいか――強くなるってのは、誰かを守れるようになることだ。忘れるな」
その言葉に、アルスの胸が熱くなる。
「うん、約束する」
広場の空気は澄みきっていた。
村人たちは皆、温かな眼差しで見送ってくれる。
その中には、暇があれば一緒に遊んだ子供たちの姿もあった。
「アルス兄ちゃん、がんばって!」
小さな声が風に乗って響く。
アルスは笑いながら手を振った。
「ありがとう! ちゃんと帰ってくるから!」
村の道を抜けると、見慣れた木々の間から光が差し込む。
鳥たちのさえずりが朝を告げ、遠くの空は少しずつ青さを増していく。
家も、畑も、村人の声も、少しずつ背後に遠ざかっていった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
けれど同時に、胸の奥から熱い鼓動が湧き上がる。
(ここからが、俺の始まりだ)
森を抜ける風が、頬を撫でた。
その風がまるで背中を押すように感じられる。
「さあ、行こう。俺の旅は――ここから始まるんだ」
アルスはそう心に呟き、
朝日に照らされた街道へと、静かに一歩を踏み出した。
その足音はまだ頼りなくも確かで、
新しい世界への鼓動のように、大地に響いていった。




