第4話 旅立ちの告白
夜の帳が村を包み、窓の外では虫の声が静かに響いていた。
台所からは、わずかに夕食の片付けの音が残る。
アルスは食卓に座り、両親の顔を見つめながら、胸の奥に押し込めていた決意を何度も確かめた。
「……父さん、母さん、俺、明日、王都へ行こうと思う」
アルスの声は少し震えていたが、真っ直ぐに両親を見据えていた。
母・エリナはその言葉に手を止め、驚きで目を見開く。
「えっ……明日……?」
声がかすれ、手に持っていた布巾がぽとりと膝の上に落ちた。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
──そんな気がして、思わず息を呑んだ。
薄々わかっていた。
息子がいつかこの村を出ていくことは。
あの子の目は、いつも遠くを見ていた。
村の外の森の向こう、知らない世界の光を、幼い頃から追いかけていた。
静かに息を吐き、唇を噛む。
取り乱すほどではないが、感情が揺れ動く。
「……急に……どうして、そんなに急に決めたの……?」
涙をこらえるように、声が震えた。
父・ローランはしばらく黙ったまま、腕を組んでいた。
平静を装っているが、その拳はわずかに震えていた。
心の中で、息子の言葉が何度も反響する。
“明日”。
それは、あまりにも早い別れの合図だった。
「……危ないぞ、アルス。本気で行くのか?」
低く落ち着いた声だったが、その奥には心配と動揺が滲んでいた。
アルスは真っ直ぐに父を見つめ、うなずいた。
「うん。ここでじっとしてるだけじゃダメだと思ったんだ。
ジルさんも俺のことを認めてくれたし……俺、もっと外の世界を見たい。
自分の目で、確かめたいんだ」
母はその言葉に、小さく肩を震わせた。
胸の奥に、幼い日のアルスの姿が浮かぶ。
――まだアルスが五つの頃。
川に小舟を浮かべて、「ぼく、海まで行ってくる!」と船を漕ぎだした日。
結局、舟はひっくり返り、びしょ濡れになって帰ってきた。
そのときも、泣きながら笑っていた。
「だって、遠くの世界を見てみたかったんだ」
あの言葉が今も耳に残っている。
「……アルス……」
母は堪えきれず、涙が一筋こぼれた。
その頬をぬぐおうともしないまま、両手でアルスの手を握る。
「あなた、ずっとそうだったわね……。
何かを見たい、知りたいって言って、いつも走っていった。
でも……今度は本当に、遠くへ行っちゃうのね」
アルスは少し照れくさそうに笑った。
「うん。でも、帰ってくるよ。ちゃんと、笑って帰ってくる」
その言葉に、父が小さく笑みを漏らした。
「そうか……あの時も、似たようなことを言ってたな」
懐かしげに目を細め、ローランもアルスの幼い日を思い出す。
――まだアルスが十歳の頃。
木登りで高い枝に登って降りられなくなり、泣きながらも「平気だ!」と強がっていた姿。
そのあとローランが抱き下ろすと、真っ赤な顔で「今度は絶対一人で降りる!」と息巻いていた。
その生意気な笑顔が、今も脳裏に焼き付いている。
(……あの頃の小さな手が、もう俺と同じ高さにあるのか)
そう思うと、胸がじんわりと熱くなった。
「……わかった。そこまで言うなら、止めはしない。
だがな、アルス。どんなに遠くへ行っても――お前の帰る場所は、いつでもここだ」
父の静かな言葉が、夜の空気に溶けた。
母はアルスの髪を撫でながら、微笑もうとするが、涙が頬を伝って止まらない。
「気をつけてね。どんなに立派になっても、身体を大事にして。
そして……ちゃんと、笑って帰ってきてね」
アルスは頷き、両親の手を強く握った。
「うん、約束する。だから、心配しすぎないで」
三人の手の温もりが、ランプの光の中で溶け合う。
その一瞬、言葉よりも深く、確かな絆が結ばれた。
しばしの静寂。
窓の外に虫の声が柔らかく響く。
母は目を閉じ、胸の奥で静かに祈るように言った。
「どうか、無事で……そして、たくさんの経験をして、強くなって帰ってきて」
父は無言で息子を見つめ、胸の奥で静かに覚悟を確認する。
「この子はきっと、世界で自分の力を試すんだ……俺たちは見守るしかない」
夜が更け、アルスは布団に潜り込み、天井を見上げた。
窓から差し込む月光が静かに部屋を照らす。
胸の奥には、両親の温もりと村の景色、そして自分の決意が重なり、確かな希望となって広がっていた。
「明日から、いよいよだな……」
微かな震えと共に、未来への期待が胸を満たす。
静かに虫の声と木々のざわめきが夜を満たす。
その穏やかな音が、アルスの旅立ちを祝福しているかのようだった。
村の平凡な日常で育まれた日々が、これから始まる未知の冒険の礎となる――
アルスはそう胸に刻みながら、深い眠りへと落ちていった。




