第3話 旅立ち前の一日
朝の光が山々を淡く照らし、村の屋根を金色に染めていく。
小鳥たちのさえずりが響き、家々の煙突からはゆっくりと朝の煙が立ち上っていた。
アルスは窓から差し込む光を浴びながら、静かに目を開けた。
柔らかな陽光に包まれた天井を見上げ、深呼吸をひとつ。
「……今日も、いい天気だ」
いつもと変わらない朝。
だが、胸の奥には小さな炎のような決意が灯っていた。
今日という日が、自分にとって特別な一日になる――そんな予感がしていた。
午前中は、いつも通り家の手伝いだ。
庭の草を刈り、鶏小屋を掃き、薪を積み上げる。
額に滲む汗をぬぐいながら、アルスはどこか名残惜しそうに手を動かしていた。
この作業を、明日はもう父の隣でしていないかもしれない――そう思うと、手の動きひとつひとつが愛おしく感じられた。
家の前で畑を見回っていた母が、アルスに声をかける。
「アルス、少し休んでもいいのよ? 朝から動きっぱなしでしょ」
「うん、大丈夫。……なんだか、今日は全部しっかりやっておきたくて」
母は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、アルスの胸は少し締めつけられた。
――明日、きっとこの笑顔に別れを告げることになる。
昼前、アルスは森の小道を歩く。
木々の間を抜ける風は涼しく、葉擦れの音がささやくように耳に届く。
かつてジルと共に歩いた小径。獣の足跡を探したり、剣の型を確かめながら進んだり――そんな日々の記憶が、次々と浮かんでくる。
森の奥に差し込む光が、まるで道しるべのように揺れていた。
午後、村の広場に出ると、子どもたちが木の枝を振り回して遊んでいた。
「アルス兄ちゃんだ!」
無邪気な声に迎えられ、アルスは手を振る。
「おう、元気にしてるか?」
「うん! 俺たちも、いつか兄ちゃんみたいに剣振るうんだ!」
その言葉に思わず笑みがこぼれた。
「そっか。じゃあ、明日からはちゃんと鍛錬するんだぞ。
剣はな、強くなるためだけじゃなく、誰かを守るためのものなんだ」
子どもたちは真剣にうなずき、アルスの言葉を胸に刻むように見つめていた。
少し歩くと、鍛冶屋のハルドが炉の火を見つめながら鉄を叩いていた。
「おう、アルスじゃねぇか。今日も稽古帰りか?」
「いいえ、今日は……挨拶に」
「挨拶?」
ハルドは金槌を止め、汗を拭いながらアルスを見た。
「……王都へ行くことにしたんです」
しばしの沈黙のあと、ハルドはゆっくりと笑った。
「そうか。やっぱり行くんだな。お前さんの目を見りゃ、いつか出ていくとは思ってたよ」
「はい。でも……ここで教わったことは、絶対に忘れません」
「ふん、忘れるなよ。お前の剣には、この村の風が吹いてる。……胸を張って行け」
鍛冶場の火が、力強く赤く燃え上がった。
その足で村に一つだけの雑貨店――農具から生活品まで売っている“なんでも屋”に立ち寄る。
顔馴染みの店主が声を掛けてきた。
「アルス、今日も元気そうだな!」
「はい、元気です。今日は皆さんに挨拶をして回ってるんです」
「挨拶? まさか……」
「ええ、王都へ行くことにしました」
少し驚いたように目を丸くした後、店主は笑顔を浮かべた。
「そっか……お前ならどこに行ってもやっていけるさ。
旅の途中でも、腹が減ったらこの村の味を思い出せよ!」
干し果物をひと袋渡され、アルスは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。……絶対に、また戻ってきます」
夕暮れが村を包み、畑の土が橙色に染まっていく。
アルスは一人、村の通りをゆっくり歩いた。
大工のグレンが軒先で手を振り、パン屋の娘が笑顔で声をかけてくれる。
そのたびにアルスは小さく手を上げ、心の中で「ありがとう」と呟いた。
丘の上に登ると、村全体が夕日に包まれていた。
小さな家々、畑、森、川――すべてが黄金色に染まり、まるで一枚の絵のように美しい。
アルスは剣を腰に差し、静かに立ち尽くした。
「この村……この景色を、絶対に忘れない」
村の灯りがぽつり、ぽつりと灯り始める。
それはまるで、彼の心の中にある“帰る場所”の象徴のようだった。
――今夜、話そう。
両親に、自分の決意を。
そう心に誓いながら、アルスは静かに家路へと歩き出した。
遠くで鳥の声が響き、空には一番星が瞬き始めていた。




