第36話 赤き霧の決着
翌朝。
三人は再び、ダンジョンの洞窟前に立っていた。
昨日の敗北が胸に重く残る。だがその瞳には、確かな決意が宿っている。
「今度こそ……」
アルスが剣を握りしめ、静かに息を吐いた。
背後でセレナが小さく頷き、矢筒を整える。ミリアは掌を組み合わせ、震える指先をぎゅっと押さえた。恐怖はまだ消えない。だが、それ以上に――仲間を守りたい気持ちが胸を満たしていた。
*****
三層への階層を下りると、あの広間が口を開けていた。
赤い霧が床を這い、壁を舐め、天井から滴るように渦を巻く。冷ややかな囁き声が、頭の奥を直接叩くように響く。
――カーミラ・ウィスプ。
人の形を模した光の影が、ゆらりと立ち現れる。
「昨日の私たちとは違う……!」
セレナが弓を構え、瞳に鋭い光を宿す。
「……光よ、我らを繋げ」
ミリアは聖句を唱え、三人の気配を淡く結びつける。
仲間の鼓動がわずかに胸に伝わり、心が温かく満たされた。
アルスは剣を抜き放ち、二人に言った。
「声を絶やすな。それが俺を導く」
―――
赤霧が渦を巻き、視界がぐにゃりと揺らぐ。
アルスの前に、偽りのセレナとミリアの幻影が現れる。
刃を振り下ろせば、そこにいるのは仲間の姿。
「……早速か」
――幻影と分かっているアルスは、剣を振らない。
「アルス! 私はここよ!」
セレナの声が響き、矢が霧を切り裂く。
「アルス様、迷わないで!」
ミリアの聖句が光の帯となり、幻影を押し返す。
けれど喉の奥が焼けるように痛い。
(……声を、止めたら……終わる)
息が細くなるたび、霧が耳元へ忍び寄ってくる。
血の匂いと、誰かの悲鳴が混じった“嘘”が、意識の端を噛んだ。
「……っ、光よ――」
セレナが息を殺す。
だが霧が、風を読んで軌道を“ずらす”。
矢は一度、赤い瞳の縁をかすめた。
鈍い火花。血のような霧が散る。
「……まだ」
だが霧が、足元から絡みつく。
足首にまとわりつく冷たい重み。
踏み込めない。足首だけが、床に縫われた。
「……っ、離れなさい!」
セレナは弓を引いたまま、刃のような風で足元の霧を切り払う。
一呼吸置き落ち着きを取り戻したセレナは、番え直し、今度こそ狙いを定めた。
その刹那、セレナの矢が閃き、カーミラの片目を射貫いた。
赤い光がはじけ、悲鳴のような音が広間に響く。
―――
怒りに呼応するように、赤霧が爆ぜた。
無数の黒い触手が生まれ、槍のように突き出される。
床からも天井からも襲い来る影の腕。
「くっ!」
アルスが剣で払い落とすたび、衝撃が腕に響き、刃に金属音が走った。
一撃受け損ねれば、そのまま霧に絡め取られる。
「セレナ、もう一つ!」
「任せて!」
二本目の矢が放たれ、もう片方の目も砕け散った。
――なのに。
広間の赤霧が、笑ったように膨らむ。
視界が白く飛び、足元の感覚が抜けた。
「っ……!」
ミリアの聖句が、一瞬だけ途切れる。
喉が締まり、声が出ない。
その隙を待っていたかのように、黒い触手が床から跳ね上がった。
アルスの足首に絡みつき、骨に食い込むように締め上げる。
鈍い音が、関節の奥で鳴った。
「ぐっ……!」
足の感覚が一瞬、消える。
力が抜け、膝が床に叩きつけられる。
霧が裂け目から入り込み、肺を冷やす。
呼吸が浅く、速くなる。
「アルス!」
セレナの声が鋭く刺さる。
――戻れ。声だ。声を掴め。
だがカーミラは怯まない。
霧が竜巻のように渦を巻き、刃と牙を帯びて三人を切り裂こうとする。
皮膚を裂くような冷気が走り、アルスの頬に細い血筋が浮かんだ。
その瞬間、アルスの周囲に柔らかな風が舞った。
――《ウィンドガーディアン》。
セレナが結んだ風精霊の加護が、彼の心を澄ませる。
「アルス!」
「行ってください、アルス様!」
二人の声が重なり、赤霧の中の道筋を照らした。
「おおおおおっ!」
アルスは雄叫びを上げ、霧を切り裂いて突き進む。
そこに――赤黒く脈動する核があった。
だが、カーミラの抵抗はさらに激しさを増す。
核を守るように黒影が壁を作り、無数の偽の核が周囲に浮かび上がった。
偽核は脈動の速さまで同じだった。
どれも本物の鼓動を真似ている。
アルスが一歩踏み込むたび、核が位置を入れ替える。
床の霧が足首を舐め、視界が揺れる。
「……っ、どれだ……!」
耳元ではセレナとミリアの悲鳴が繰り返され、心を砕こうとする。
「アルス……やめて……!」
「お願い、アルス様……」
幻惑はあまりに真に迫り、アルスの足が止まる。
胸の奥を氷で締め付けられるような、凍りつく恐怖。
だが、仲間の声が届いた。
「真ん中よ!」
「アルス様、信じて!」
幻惑を打ち破る、確かな声。
それだけが、揺らぐ心を支える。
偽核が一斉に脈打ち、鼓動が重なった。
心臓の音と核の音が重なり――一瞬だけ、世界が静止した。
「――任せろ!」
アルスの剣が閃き、幻惑と共に核心を真っ二つに断ち割った。
赤い霧が絶叫のような音とともに弾け飛ぶ。
触手も影も一斉に崩れ、黒い煙となって消えていく。
衝撃波が駆け抜け、森の木々を揺らし、床を裂く。
その中心から、光の結晶がふわりと浮かび上がった。
小さな水晶のような結晶は湖面の光を受け、赤く煌めく。
――討伐の証、《カーミラ・ウィスプの霊核》。
アルスは手を差し伸べ、そっと結晶を受け取る。掌に伝わる暖かさと重みが、戦いの終わりと勝利の実感を彼に伝えた。
セレナもミリアも目を輝かせ、思わず手を伸ばしてその輝きを確かめる。
アルスは膝をつきそうになりながらも必死に立ち続け、セレナとミリアも杖と弓で支え合った。
やがて、霧は細かい塵となり、静かに消え去った。
周囲を覆っていた圧迫感は消え、ただ静寂が残る。
響くのは、三人の荒い息遣いだけだった。
「……終わった、のか?」
剣を下ろしたアルスが、息を整えながらつぶやく。
「ええ……勝ったのよ」
セレナは弓を下ろし、深く息を吐いた。頬は赤らみ、胸の奥に熱が広がっていた。
「よ、よかったぁぁぁ!」
ミリアはその場にへたり込み、杖を抱きしめて大げさに涙をぬぐった。
(きゃーーーっ! 決戦シーン! 声で繋がる絆イベント! しかもセレナさんの「守りたい」からの支援スキル発動! これ正ヒロインルート一直線じゃん! 尊死……!)
内心で爆発している彼女をよそに、アルスは剣を収め、仲間を見渡した。
「ありがとう。二人がいたから、勝てた」
三人の視線が重なり、静かに笑みがこぼれる。
敗北を乗り越え、絆を深めた瞬間だった。
戦いを終えた黒い森の中、三人は赤く染まった湖のほとりに腰を下ろした。
濃密な霧はすでに消え、赤い水面が穏やかに波打っている。森の木々はまだ戦いの余韻を抱えるようにざわめき、冷たい風が肌を撫でていた。
アルスは背を倒木に預け、剣を膝の上に置く。握り締めていた手が、ようやく力を抜くことを許されたかのように微かに震えた。
「……はぁ。さすがに堪えたな」
目の前に広がる赤い湖に、先ほどまでの戦いの光景がちらつく。息を整えても、胸の奥に残る緊張感はなかなか消えない。
ミリアは杖を膝に抱き、肩で息をつく。汗と血の匂いが混ざる湖畔の空気の中で、やっと心を落ち着けることができた。
「……勝てて、よかった……」
声は小さくても、戦いの達成感が全身に広がる。
セレナは弓筒を脇に置き、水筒を差し出した。
「喉、渇いてるでしょう?」
「助かる」
アルスは水を飲み、冷たさが喉を通るのを感じる。命を取り戻した実感が、体の隅々まで染み渡った。
湖面に映る赤い光が揺れる。ふと隣のセレナを見やると、戦いの中で見せなかった柔らかな表情がそこにあった。
「……無茶しすぎなんだから」
「そうか?」
「そうよ」
短いやり取りの中に、互いの疲労と安心感が混じり、思わず笑みがこぼれる。
ミリアは杖を抱え、湖面を見つめてつぶやいた。
「……ご飯、食べたい。甘いものをいっぱい……」
アルスとセレナも微笑み、自然と肩の力が抜ける。
赤い湖の光に反射する三人の影が、戦いの緊張を少しずつ溶かしていった。
湖畔の石に腰を下ろしたまま、アルスは剣の柄に触れながら思いを巡らせる。
「……今回の戦い、ただ勝っただけじゃない。互いの声があったから、俺は迷わずに進めた」
セレナは肩越しに微笑む。
「私も……あなたと、ミリアが一緒だから戦えた」
ミリアは杖を抱きしめ、はにかみながら小さくうなずいた。
(ああっ……アルス様……かっこよすぎる……! 剣の一振り、足さばき、視線の鋭さ……全部完璧……っ! あの瞬間の決意の瞳、心まで貫かれる……っ!)
胸の奥が熱くなり、思わず小さく「きゃーーーっ!」と声を上げそうになる。息を整え、杖をぎゅっと握り直す。湖面に映る赤霧も、黒い森の影も霞むほど、内心はアルス一色。
(ああ……アルス様……私、ずっと、ずっと……見守りたい……支えたい……っ!)
――そのとき、ふと気づく。
(……え? い、今……セレナさん、なんて言った……?)
さっきの言葉を頭の中でリピートする。
(……あ、あれ? ま、まって……! セレナさん……今……“ミリアが一緒だから戦えた”って……!? 嘘……! そ、そんなこと言われたら……うれしすぎて……っ!)
頭の中で爆発音が鳴った。
(セレナさんに認められて、アルス様にも褒められて……ああああっ!! これもう……聖なる三位一体……っ! セレナさんと私、両側からアルス様を支える未来が見える……見えちゃう……っ!!)
涙腺が決壊寸前。でも次の瞬間、妄想エンジンが一気に回転する。
(はぁぁぁぁ……もうダメ……尊い……セレナさんのその言葉、心臓に刺さる……! ああああ、私、今なら何百回でも倒れて起き上がれる……!)
更にミリアの妄想がエスカレート。
(そして……想像して……アルス様の右にセレナさん、左に私……! セレナさんと一緒にアルス様と腕を組んで……! アルス様の右腕にセレナさんのお胸、左腕に私のお胸が当たって……ああっ! 完璧パーティの図が出来上がってるぅぅぅ!! これよ! これが私の理想の隊列ッ!!)
「……っ!」
思わず頬を押さえ、心臓が爆発しそうな勢いで跳ねる。
そのとき、アルスがこちらをちらりと見て首をかしげた。
「ミリアの顔が真っ赤だな……疲れが出たのか?」
「ひゃっ!? い、いえっ!? だ、大丈夫ですっ! だ、だいじょうぶですからっ!!」
(ち、違うのアルス様っ、あなたが尊すぎて顔が限界突破してるだけなの……!)
森の静寂と、湖面に映る光。三人は無言のまま、それぞれの胸に満ちる安堵を感じていた。荒れた呼吸が落ち着き、冷えた体を温めるように、そっと肩を寄せ合う。――戦いの疲労も、恐怖も、すべて共有された今。三人の絆は、確かに深まっていた。
ミリアの心だけは静寂ではなく鐘が鳴り響く。




