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田舎育ちの俺が王都に出てきたら、守りたい想いが強さになった  作者: 蒼月あおい
第二章

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第33話 深淵の霧

 赤い湖が不気味に揺れ、黒い森がざわめいた。

 その奥から、濃霧が這い出すように広がり、やがて巨大な影が姿を現す。

 その体は赤い霧に包まれ、不定形に揺らめく。赤く光る瞳が二つ、暗闇の中で妖しく輝き、三人を射抜いた。


 ただそこにいるだけで、肌を刺すような冷気と圧迫感が空間を満たし、息が苦しくなる。


「……来たわね」


 セレナが矢を弦にかけ、アルスの横で構えた。弓を持つ指先が白くなるほど力が込められている。


「ここから先は、もう後戻りできません……」


 ミリアは杖を掲げ、額に浮かぶ汗を拭いもせず光の魔法を練り始めた。


 アルスは一歩前に出て剣を構える。金属の冷たい感触が手のひらに重くのしかかる。喉が渇き、心臓の鼓動が耳に響いた。


「……行くぞ!」


*****


 赤霧の魔物が一気に渦を巻き、触手のように変じて襲いかかる。

 空気を切り裂く鋭い音とともに、冷たい湿気が肌を打った。


 アルスは剣を振り払い、迫る触手を切り裂く。斬られた部分は確かに散るが、すぐに濃い霧が集まり再生する。


「くっ、切っても霧になるだけか……!」


「アルス、無茶しないで! 私が援護する!」


 セレナの矢が放たれ、空気を裂いて触手の中心を射抜く。淡い光の軌跡を残しながら命中するも、矢は突き抜け、霧がゆらめいただけで形を変えてしまう。


 ミリアはライトを唱え、強い光球を浮かべた。

 光が霧を透かし、赤霧のぼんやりとした本体の輪郭を浮かび上がらせる。


「光で形を映し出せます……! アルス様、狙いを外さないで!」


「ああ!」


 剣閃が光に導かれ、狙いを定めた一撃が放たれる。手ごたえがあり、霧の中で火花のような閃きが散った。だが――再び霧が集まり、赤霧の魔物はなお動きを止めない。


 その時、霧が一層濃くなった。

 空間全体が赤黒い靄に包まれ、視界が歪む。湿気が肺を圧迫し、耳鳴りが響いた。


「……なに?」


 セレナが矢を番えたまま眉をひそめた瞬間――アルスの視界に異様な光景が広がった。


 ミリアの胸を、闇色の触手が容赦なく貫く。


「……ぁっ……く……ぁ……」


 唇の端から赤い雫が零れ、震える息とともに小さな血の音が空気に滲む。


「……けほっ……」


 白い頬に血が散り、杖が指の間から滑り落ちた。

 胸から鮮血が噴き出し、白青金のローブが赤く染まる。


 彼女はアルスの名を呼ぼうと口を開くが、その声は血に溺れて掠れ、指先は震えながらも必死にこちらへ伸ばされる。

 ――だが、その手は力なく落ち、地に沈んでいった。


 次の瞬間、セレナの悲鳴が空気を裂く。


「――っああああああああっ!!! ううっ……!」


 透明な刃のような霧が彼女の腕を無惨に断ち切り、血潮が噴水のように散る。


 絶望に歪んだ顔で、彼女はなお矢をつがえようとするが、震えた手でうまく矢を掴むことが出来ない。

 霧がゆっくりと彼女へ近づいていく。


 逃げ場を塞ぐように、絡みつくように――赤黒い靄が、じわじわと距離を詰めた。


 セレナは絶望に歪んだ顔のまま、なお矢をつがえようとする。

 だが、残された片腕から矢は力なく滑り落ち、乾いた音を立てて床を転がった。


 次の瞬間、霧が彼女の体を貪るように包み込んだ。


 湿った音。

 何かが引き裂かれ、押し潰されるような、耳を塞ぎたくなる不快な響きが霧の奥から漏れ聞こえる。


 肉と骨の区別すらつかない、ただ「壊れていく」音だけが、執拗に続いた。


 悲鳴は途中で途切れ、やがて微かな呻き声すら霧に吸い込まれていく。


 赤く輝いていた瞳の光も、必死に伸ばされた手も――すべてが闇に溶け、跡形もなく消え去った。


 アルスの視界は赤黒く染まり、喉の奥から獣のような声が漏れる。


 ――目の前で、大切な仲間が喪われていく。


「や、やめろぉぉッ!」


 アルスの呼吸が一気に乱れる。肺がうまく膨らまない。喉の奥が焼けるように痛く、空気を吸おうとしても吸えない。


 脳裏に焼きつく鮮烈な光景に、鼓動は制御を失った。

 血が全身を駆け巡る音が耳を圧迫し、他の音をすべて掻き消す。


 視界は滲み、色彩が赤と黒に染まり、目の前のすべてがぐにゃりと歪む。


 ――いや、歪んでいるのは世界じゃない。俺の心だ。


 ミリアが霧の触手で貫かれたまま全身が力なく項垂れた姿。

 セレナが無残に消えていく光景。


 その一つ一つが、刃となって胸の奥を抉り続ける。


 膝が勝手に折れ、剣の重みが腕を引き裂くように感じた。

 この剣は、何のために握っていた。

 守ると誓ったはずの手は、何一つ掴めていない。


 吐き気がこみ上げ、胃液の苦い味が喉に広がる。


 叫びたい。否定したい。目を逸らしたい。

 だが、瞼の裏には二人の姿が焼きついたまま、離れてくれない。


(俺が……守れなかった……?)

(俺が……ここに立っている意味は、何だ……?)


 答えは返ってこない。

 ただ、失われた現実だけが重くのしかかる。


 恐怖と悲しみと後悔が絡み合い、心臓を締め付ける。

 汗が背中を流れ落ちる感覚すら、もはや遠く、

 アルスの意識は深い霧の底へと沈みかけていた。


 ――遠くで、誰かの声がしたような気がした。

 だが、それが誰のものなのか、アルスには分からない。

 霧に反響する音の一つに過ぎず、意味を持たない雑音のように聞こえた。


「……アルス……」


 かすれた声が、もう一度届く。

 微かに、温度を伴った響き。


 霧の向こうで、何かが動いた。

 赤黒い世界の端で、影とは違う“人の形”が揺れる。


「……アルス……聞こえる……?」


 その声に、胸の奥が小さく軋んだ。

 だが、現実だと判断するには弱すぎる。

 幻覚が、最後に見せる残酷な慰めかもしれない。


 次の瞬間、強く腕を掴まれた。

 はっきりとした感触。

 冷たい霧の中で、確かに“人の体温”があった。


「アルス!」


 霧をかき分け、セレナが駆け寄る。

 弓を放り捨て、彼の体にしがみついた。


「アルス……っ、お願い……」


 声は震え、必死に抑えていた恐怖が滲む。

 彼女は呼吸を整える余裕もなく、言葉を繋いだ。


「……目を逸らさないで……」


 両手が、そっと彼の頬に触れる。

 逃げ場を塞ぐように、しかし壊れ物を扱うように。


「ね……見て……私を……」


 視線を合わせるための、最後の一押し。

 それは叫びではなく、縋るような願いだった。


 震える声は、霧の奥に溶けていきそうだった。

 このまま届かなければ、また闇に沈んでしまう――


 そう思った瞬間、セレナは決意を込めて力を込める。

 両手で彼の顔をしっかりと掴み、大粒の涙が頬を伝っても視線は逸らさず、彼だけを見つめ続ける。


「あなたの前にいるのは、私……セレナよ。

 幻じゃない、夢でもない……私はここにいるの」


 声はかすれ、必死に押し殺していた思いがほとばしる。


「お願い……お願い……信じて……っ、ずっと支えてきたのも、守りたいのも……アルス、あなたなの……!

 だから……どうか、私を、見失わないで……っ!」


 震える体で彼にしがみつき、全ての力を込めて抱きしめる。

 手も心も必死に彼を掴もうとし、切なる願いが胸から漏れ出す。


「私はここに、いる……!

 あなたの隣にいるのは、私だけ……なの……っ……!」


 耳元で、声が震えた。

 はっきりとした言葉なのに、アルスの中ではまだ遠い。


 腕に触れている感触。

 胸元に伝わる、微かな鼓動。


 それらは確かに“重さ”を持っているのに、頭が追いつかない。


 鼻を突く血の臭いが、ゆっくりと薄れていく。

 代わりに、冷たい霧の中へ、かすかな体温が滲み込んできた。


 ――温かい。


 それだけの事実が、胸の奥で小さく波紋を広げる。


 幻なら、こんな感触はない。


 そう理解しようとする思考よりも先に、体が動いた。

 震える手が、自分の意思とは無関係に伸びる。

 指先が迷い、確かめるように彷徨い、やがて縋るように、セレナの背へと回された。


 その瞬間、初めて実感が落ちてくる。


 ――ここに、いる。

 ――失っていない。


 喉がひくりと鳴り、言葉が掠れた。


「……ああ……ここに……いるな、セレナ」


「うん……いるよ……ここにいる……!」


 安堵と喜びが滲んだ声。

 震える唇に、かすかな微笑みが浮かぶ。


 だがその瞳には、涙と同時に――決して離さないという、静かな覚悟が宿っていた。


(……誰にも渡さない。

 幻に壊されるくらいなら、恐怖ごと抱きしめる。

 この人の隣に立つのは――私だ)


 だが、怪物の攻撃は止まらない。

 濃霧から無数の触手が再び伸び、鋭い音を立てて襲いかかる。


「二人とも……今は私が守ります!」


 ミリアがセレナに拾った弓を渡しながら杖を高く掲げ、光の障壁を展開した。


 ホーリーシールドが霧を弾くたび、硬質な衝撃音が響く。

 障壁の表面には波紋のような光が走り、ひびが入っては再生を繰り返す。


 だがそのたびにミリアの体は震え、魔力が削られていくのが見て取れた。


「くぅっ……!」


(アルス様……セレナさん……少しでも……時間を……!)


 額から滴る汗が頬を伝い、呼吸は荒く短くなる。

 それでも彼女は障壁を維持し、必死に耐えた。


 アルスは剣を握り直すが、その手は微かに震えていた。

 視線は戻ってきたものの、まだ幻覚の残像がちらついているようで、焦点は完全には合っていない。

 呼吸も荒く、胸の奥でまだ戦闘の恐怖がざわめいていた。


 セレナは一瞬息を呑むが、すぐにそっと微笑む。


「……よかった」


 その声に、アルスは小さくうなずく。

 まだ言葉は弱く、ぎこちないが、確かに現実に戻ってきたことを示していた。


 アルスは視線をセレナに合わせ、かすかに震える声で呟く。


「……撤退だ。今の俺たちじゃ、勝てない」


 声が低く、喉から絞り出される。

 胸の奥が締め付けられ、悔しさと焦燥が一気に押し寄せる。


 セレナはそっとアルスの腕に手を回し、肩を貸す。


「ええ……でも次は、必ず……!」


 震える声だが、その瞳の奥には恐怖よりも揺るがぬ決意が燃えていた。


 ミリアも隣で杖を片手に光の障壁を維持しながら、アルスのもう一方の腕を支える。


 濃霧に絡まれた足元を確かめながら、アルスは二人の存在を確かめる。

 彼の足はまだおぼつかず、重心を安定させるためにセレナの肩に頼る。


 三人は背を合わせ、霧の襲撃を警戒しつつ、互いに支え合いながらゆっくりと後退する。


 濃霧が足元を這い、まるで無数の触手のように絡みつく。

 肌に刺す冷気に思わず肩が震え、呼吸を整えようとしても肺は重く、息を吸うたびに心臓がひりつく。


 硬質な衝撃が障壁を叩くたびに波紋のようなひびが広がり、ミリアの体に魔力の消耗が響く。

 肩と手首が痛む。


 しかし、アルスとセレナを守るため、障壁を絶やすわけにはいかない――。


「ま、まだ……大丈夫……私の魔力が続く限り……っ!」


 ミリアの消耗が激しいのは一目瞭然だったが、アルスは声を掛ける余裕もなかった。


 三人は視線で互いの意思を確認し、霧の襲撃をかいくぐりながら足早に後退する。


 濃霧が絡みつき、肌を刺す冷気が体を包む。

 呼吸を整えようとしても、肺は重く、息を吸うたびに心臓が痛む。


 そのとき、アルスの視界に二層へ続く階段が目に入る――長く急な石段が奥に伸びている。


「……階段だ……行くしかない」


 アルスはセレナにそっと肩を借りながら、足を一歩ずつ踏み出す。

 体はまだ震え、足取りは重い。

 霧の圧迫に胸が詰まり、息を吸うたびに痛みが走る。


 セレナは弓を肩にかけ、アルスの歩調に合わせてそっと支え続ける。

 小さな体の重みがアルスの腕に伝わるたび、心の奥が少しだけ落ち着く。


 ミリアもその隣で杖を構え、光の障壁を維持しながら後を追う。


 石段は濡れて滑りやすく、膝が笑い、体は疲労で重い。

 だが、振り返る暇はない。

 霧の圧迫と恐怖を振り切り、前だけを見て、ただ必死に駆け抜ける。


*****


 二層へと戻ると、ようやく三人は息をついた。


 アルスは剣を突き立て、その場に座り込むと肩で荒い息を繰り返す。


 アルスの視線は、最初まだ揺れていたが、次第に一点に定まり――セレナだけを捉えた。


「……悔しい。

 あんな奴に、何もできなかった……」


「大丈夫よ、アルス。

 あなたは一人じゃない。

 次は……一緒に勝ちましょう」


 セレナはアルスの手を強く握り、潤んだ瞳で微笑む。


 その微笑みに、アルスはやっと深く息をつく。

 体の震えは完全には消えないが、胸の奥でようやく心が落ち着き、失われた現実を取り戻す感覚が広がった。


 ミリアもふらつきながらアルスに近づき、杖に体を預けつつも、その場で座り込み無理して笑顔を作る。


「ええ……次こそ、三人で……」


 敗北の悔しさは胸を締め付けた。

 だが同時に、心の奥に刻まれたのは確かな絆。


 深淵の霧に潜む影は、彼らにとって試練の象徴となった。

 再び挑むその日まで――決して忘れることはない。

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