第33話 深淵の霧
赤い湖が不気味に揺れ、黒い森がざわめいた。
その奥から、濃霧が這い出すように広がり、やがて巨大な影が姿を現す。
その体は赤い霧に包まれ、不定形に揺らめく。赤く光る瞳が二つ、暗闇の中で妖しく輝き、三人を射抜いた。
ただそこにいるだけで、肌を刺すような冷気と圧迫感が空間を満たし、息が苦しくなる。
「……来たわね」
セレナが矢を弦にかけ、アルスの横で構えた。弓を持つ指先が白くなるほど力が込められている。
「ここから先は、もう後戻りできません……」
ミリアは杖を掲げ、額に浮かぶ汗を拭いもせず光の魔法を練り始めた。
アルスは一歩前に出て剣を構える。金属の冷たい感触が手のひらに重くのしかかる。喉が渇き、心臓の鼓動が耳に響いた。
「……行くぞ!」
*****
赤霧の魔物が一気に渦を巻き、触手のように変じて襲いかかる。
空気を切り裂く鋭い音とともに、冷たい湿気が肌を打った。
アルスは剣を振り払い、迫る触手を切り裂く。斬られた部分は確かに散るが、すぐに濃い霧が集まり再生する。
「くっ、切っても霧になるだけか……!」
「アルス、無茶しないで! 私が援護する!」
セレナの矢が放たれ、空気を裂いて触手の中心を射抜く。淡い光の軌跡を残しながら命中するも、矢は突き抜け、霧がゆらめいただけで形を変えてしまう。
ミリアはライトを唱え、強い光球を浮かべた。
光が霧を透かし、赤霧のぼんやりとした本体の輪郭を浮かび上がらせる。
「光で形を映し出せます……! アルス様、狙いを外さないで!」
「ああ!」
剣閃が光に導かれ、狙いを定めた一撃が放たれる。手ごたえがあり、霧の中で火花のような閃きが散った。だが――再び霧が集まり、赤霧の魔物はなお動きを止めない。
その時、霧が一層濃くなった。
空間全体が赤黒い靄に包まれ、視界が歪む。湿気が肺を圧迫し、耳鳴りが響いた。
「……なに?」
セレナが矢を番えたまま眉をひそめた瞬間――アルスの視界に異様な光景が広がった。
ミリアの胸を、闇色の触手が容赦なく貫く。
「……ぁっ……く……ぁ……」
唇の端から赤い雫が零れ、震える息とともに小さな血の音が空気に滲む。
「……けほっ……」
白い頬に血が散り、杖が指の間から滑り落ちた。
胸から鮮血が噴き出し、白青金のローブが赤く染まる。
彼女はアルスの名を呼ぼうと口を開くが、その声は血に溺れて掠れ、指先は震えながらも必死にこちらへ伸ばされる。
――だが、その手は力なく落ち、地に沈んでいった。
次の瞬間、セレナの悲鳴が空気を裂く。
「――っああああああああっ!!! ううっ……!」
透明な刃のような霧が彼女の腕を無惨に断ち切り、血潮が噴水のように散る。
絶望に歪んだ顔で、彼女はなお矢をつがえようとするが、震えた手でうまく矢を掴むことが出来ない。
霧がゆっくりと彼女へ近づいていく。
逃げ場を塞ぐように、絡みつくように――赤黒い靄が、じわじわと距離を詰めた。
セレナは絶望に歪んだ顔のまま、なお矢をつがえようとする。
だが、残された片腕から矢は力なく滑り落ち、乾いた音を立てて床を転がった。
次の瞬間、霧が彼女の体を貪るように包み込んだ。
湿った音。
何かが引き裂かれ、押し潰されるような、耳を塞ぎたくなる不快な響きが霧の奥から漏れ聞こえる。
肉と骨の区別すらつかない、ただ「壊れていく」音だけが、執拗に続いた。
悲鳴は途中で途切れ、やがて微かな呻き声すら霧に吸い込まれていく。
赤く輝いていた瞳の光も、必死に伸ばされた手も――すべてが闇に溶け、跡形もなく消え去った。
アルスの視界は赤黒く染まり、喉の奥から獣のような声が漏れる。
――目の前で、大切な仲間が喪われていく。
「や、やめろぉぉッ!」
アルスの呼吸が一気に乱れる。肺がうまく膨らまない。喉の奥が焼けるように痛く、空気を吸おうとしても吸えない。
脳裏に焼きつく鮮烈な光景に、鼓動は制御を失った。
血が全身を駆け巡る音が耳を圧迫し、他の音をすべて掻き消す。
視界は滲み、色彩が赤と黒に染まり、目の前のすべてがぐにゃりと歪む。
――いや、歪んでいるのは世界じゃない。俺の心だ。
ミリアが霧の触手で貫かれたまま全身が力なく項垂れた姿。
セレナが無残に消えていく光景。
その一つ一つが、刃となって胸の奥を抉り続ける。
膝が勝手に折れ、剣の重みが腕を引き裂くように感じた。
この剣は、何のために握っていた。
守ると誓ったはずの手は、何一つ掴めていない。
吐き気がこみ上げ、胃液の苦い味が喉に広がる。
叫びたい。否定したい。目を逸らしたい。
だが、瞼の裏には二人の姿が焼きついたまま、離れてくれない。
(俺が……守れなかった……?)
(俺が……ここに立っている意味は、何だ……?)
答えは返ってこない。
ただ、失われた現実だけが重くのしかかる。
恐怖と悲しみと後悔が絡み合い、心臓を締め付ける。
汗が背中を流れ落ちる感覚すら、もはや遠く、
アルスの意識は深い霧の底へと沈みかけていた。
――遠くで、誰かの声がしたような気がした。
だが、それが誰のものなのか、アルスには分からない。
霧に反響する音の一つに過ぎず、意味を持たない雑音のように聞こえた。
「……アルス……」
かすれた声が、もう一度届く。
微かに、温度を伴った響き。
霧の向こうで、何かが動いた。
赤黒い世界の端で、影とは違う“人の形”が揺れる。
「……アルス……聞こえる……?」
その声に、胸の奥が小さく軋んだ。
だが、現実だと判断するには弱すぎる。
幻覚が、最後に見せる残酷な慰めかもしれない。
次の瞬間、強く腕を掴まれた。
はっきりとした感触。
冷たい霧の中で、確かに“人の体温”があった。
「アルス!」
霧をかき分け、セレナが駆け寄る。
弓を放り捨て、彼の体にしがみついた。
「アルス……っ、お願い……」
声は震え、必死に抑えていた恐怖が滲む。
彼女は呼吸を整える余裕もなく、言葉を繋いだ。
「……目を逸らさないで……」
両手が、そっと彼の頬に触れる。
逃げ場を塞ぐように、しかし壊れ物を扱うように。
「ね……見て……私を……」
視線を合わせるための、最後の一押し。
それは叫びではなく、縋るような願いだった。
震える声は、霧の奥に溶けていきそうだった。
このまま届かなければ、また闇に沈んでしまう――
そう思った瞬間、セレナは決意を込めて力を込める。
両手で彼の顔をしっかりと掴み、大粒の涙が頬を伝っても視線は逸らさず、彼だけを見つめ続ける。
「あなたの前にいるのは、私……セレナよ。
幻じゃない、夢でもない……私はここにいるの」
声はかすれ、必死に押し殺していた思いがほとばしる。
「お願い……お願い……信じて……っ、ずっと支えてきたのも、守りたいのも……アルス、あなたなの……!
だから……どうか、私を、見失わないで……っ!」
震える体で彼にしがみつき、全ての力を込めて抱きしめる。
手も心も必死に彼を掴もうとし、切なる願いが胸から漏れ出す。
「私はここに、いる……!
あなたの隣にいるのは、私だけ……なの……っ……!」
耳元で、声が震えた。
はっきりとした言葉なのに、アルスの中ではまだ遠い。
腕に触れている感触。
胸元に伝わる、微かな鼓動。
それらは確かに“重さ”を持っているのに、頭が追いつかない。
鼻を突く血の臭いが、ゆっくりと薄れていく。
代わりに、冷たい霧の中へ、かすかな体温が滲み込んできた。
――温かい。
それだけの事実が、胸の奥で小さく波紋を広げる。
幻なら、こんな感触はない。
そう理解しようとする思考よりも先に、体が動いた。
震える手が、自分の意思とは無関係に伸びる。
指先が迷い、確かめるように彷徨い、やがて縋るように、セレナの背へと回された。
その瞬間、初めて実感が落ちてくる。
――ここに、いる。
――失っていない。
喉がひくりと鳴り、言葉が掠れた。
「……ああ……ここに……いるな、セレナ」
「うん……いるよ……ここにいる……!」
安堵と喜びが滲んだ声。
震える唇に、かすかな微笑みが浮かぶ。
だがその瞳には、涙と同時に――決して離さないという、静かな覚悟が宿っていた。
(……誰にも渡さない。
幻に壊されるくらいなら、恐怖ごと抱きしめる。
この人の隣に立つのは――私だ)
だが、怪物の攻撃は止まらない。
濃霧から無数の触手が再び伸び、鋭い音を立てて襲いかかる。
「二人とも……今は私が守ります!」
ミリアがセレナに拾った弓を渡しながら杖を高く掲げ、光の障壁を展開した。
ホーリーシールドが霧を弾くたび、硬質な衝撃音が響く。
障壁の表面には波紋のような光が走り、ひびが入っては再生を繰り返す。
だがそのたびにミリアの体は震え、魔力が削られていくのが見て取れた。
「くぅっ……!」
(アルス様……セレナさん……少しでも……時間を……!)
額から滴る汗が頬を伝い、呼吸は荒く短くなる。
それでも彼女は障壁を維持し、必死に耐えた。
アルスは剣を握り直すが、その手は微かに震えていた。
視線は戻ってきたものの、まだ幻覚の残像がちらついているようで、焦点は完全には合っていない。
呼吸も荒く、胸の奥でまだ戦闘の恐怖がざわめいていた。
セレナは一瞬息を呑むが、すぐにそっと微笑む。
「……よかった」
その声に、アルスは小さくうなずく。
まだ言葉は弱く、ぎこちないが、確かに現実に戻ってきたことを示していた。
アルスは視線をセレナに合わせ、かすかに震える声で呟く。
「……撤退だ。今の俺たちじゃ、勝てない」
声が低く、喉から絞り出される。
胸の奥が締め付けられ、悔しさと焦燥が一気に押し寄せる。
セレナはそっとアルスの腕に手を回し、肩を貸す。
「ええ……でも次は、必ず……!」
震える声だが、その瞳の奥には恐怖よりも揺るがぬ決意が燃えていた。
ミリアも隣で杖を片手に光の障壁を維持しながら、アルスのもう一方の腕を支える。
濃霧に絡まれた足元を確かめながら、アルスは二人の存在を確かめる。
彼の足はまだおぼつかず、重心を安定させるためにセレナの肩に頼る。
三人は背を合わせ、霧の襲撃を警戒しつつ、互いに支え合いながらゆっくりと後退する。
濃霧が足元を這い、まるで無数の触手のように絡みつく。
肌に刺す冷気に思わず肩が震え、呼吸を整えようとしても肺は重く、息を吸うたびに心臓がひりつく。
硬質な衝撃が障壁を叩くたびに波紋のようなひびが広がり、ミリアの体に魔力の消耗が響く。
肩と手首が痛む。
しかし、アルスとセレナを守るため、障壁を絶やすわけにはいかない――。
「ま、まだ……大丈夫……私の魔力が続く限り……っ!」
ミリアの消耗が激しいのは一目瞭然だったが、アルスは声を掛ける余裕もなかった。
三人は視線で互いの意思を確認し、霧の襲撃をかいくぐりながら足早に後退する。
濃霧が絡みつき、肌を刺す冷気が体を包む。
呼吸を整えようとしても、肺は重く、息を吸うたびに心臓が痛む。
そのとき、アルスの視界に二層へ続く階段が目に入る――長く急な石段が奥に伸びている。
「……階段だ……行くしかない」
アルスはセレナにそっと肩を借りながら、足を一歩ずつ踏み出す。
体はまだ震え、足取りは重い。
霧の圧迫に胸が詰まり、息を吸うたびに痛みが走る。
セレナは弓を肩にかけ、アルスの歩調に合わせてそっと支え続ける。
小さな体の重みがアルスの腕に伝わるたび、心の奥が少しだけ落ち着く。
ミリアもその隣で杖を構え、光の障壁を維持しながら後を追う。
石段は濡れて滑りやすく、膝が笑い、体は疲労で重い。
だが、振り返る暇はない。
霧の圧迫と恐怖を振り切り、前だけを見て、ただ必死に駆け抜ける。
*****
二層へと戻ると、ようやく三人は息をついた。
アルスは剣を突き立て、その場に座り込むと肩で荒い息を繰り返す。
アルスの視線は、最初まだ揺れていたが、次第に一点に定まり――セレナだけを捉えた。
「……悔しい。
あんな奴に、何もできなかった……」
「大丈夫よ、アルス。
あなたは一人じゃない。
次は……一緒に勝ちましょう」
セレナはアルスの手を強く握り、潤んだ瞳で微笑む。
その微笑みに、アルスはやっと深く息をつく。
体の震えは完全には消えないが、胸の奥でようやく心が落ち着き、失われた現実を取り戻す感覚が広がった。
ミリアもふらつきながらアルスに近づき、杖に体を預けつつも、その場で座り込み無理して笑顔を作る。
「ええ……次こそ、三人で……」
敗北の悔しさは胸を締め付けた。
だが同時に、心の奥に刻まれたのは確かな絆。
深淵の霧に潜む影は、彼らにとって試練の象徴となった。
再び挑むその日まで――決して忘れることはない。




