第1話 田舎の朝
朝の光が、山の斜面を柔らかく照らしていた。
鶯のさえずりが静かな村に響き渡り、木々を揺らすそよ風が心地よい。
藁ぶき屋根の小さな家の戸口で、アルスは深く息を吸い込む。
澄んだ空気が肺を満たし、胸の奥にかすかな高鳴りが宿る。
今日も平凡な一日が始まる――そう自分に言い聞かせる。
「……今日も、いい天気だな」
思わずこぼれた独り言に、頬を撫でる風が答えるように通り抜けていく。
「アルス、もう起きてるのね?」
母エリナが台所から顔を出す。
琥珀色の瞳が朝日にきらめき、エプロンの端を手で軽く整える。
「おはよう、母さん」
「おはよう。もうすぐ朝ごはんができるわ。お父さんは畑に行ってるから、呼んできてくれるかしら?」
「わかった」
戸口から一歩外に出ると、村の空気が体を包み込む。
小川のせせらぎが遠くで流れ、麦畑の穂先が風に揺れていた。
朝露に濡れた草の上を踏みしめながら歩くと、畑の向こうに鍬を振るう父ローランの姿が見える。
陽光を受けてたくましい腕が光り、背中からは寡黙な力強さがにじんでいた。
「父さん!」
声をかけると、ローランは手を止め、ゆっくりと振り返る。
「おう、アルスか。もう起きたか」
「母さんが、朝ごはんできるって」
「そうか。じゃあ、そろそろ戻るとするか」
汗をぬぐいながら、ローランはまっすぐに立ち上がった。
その仕草には、農夫というより、かつての冒険者の名残がどこか感じられる。
肩にかけた鍬の動かし方さえ、まるで剣のように無駄がない。
家へ戻る途中、アルスはふと尋ねた。
「父さん、昔って本当に冒険者だったの?」
ローランは一瞬だけ目を細め、静かに笑った。
「……昔話さ。今は畑を守る方が性に合ってる」
そう言って歩を進める。
その背中に、何か語りきれない影があるような気がした。
朝食の匂いが家の中に広がる。
焼きたての黒パンと、エリナが煮込んだ野菜のスープ。
湯気の向こうで、母の微笑みがやわらかく揺れている。
「さあ、二人とも。冷めないうちにどうぞ」
テーブルについたローランは静かに祈りを捧げ、スープを口に運んだ。
その隣で、アルスも黙って手を合わせる。
穏やかで、どこか温かい時間。
だがアルスの胸の奥には、まだ満たされぬ何かが、静かに揺れていた。
父のように強くなりたい。
母のように優しくなりたい。
けれど――それだけでは足りない。
窓の外に広がる森。
その先の、見たことのない空の向こうに、自分の知らない世界がある。
「いつか俺も……この村を出て、もっと広い世界を見たい」
思わず口からこぼれた言葉を、エリナが耳にして、穏やかに笑った。
「アルス。あなた、そう言うと思ってたわ」
「えっ……?」
「小さいころから、森の向こうを見つめてたもの。
“あの山の向こうには何があるんだろう”って、よく聞かれたのを覚えてるわ」
エリナは懐かしむように目を細め、アルスの髪を撫でた。
その笑顔の奥に、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。
ローランは黙ってスープを飲み干し、椅子を鳴らして立ち上がった。
「世界を知ることは悪くない。だが、“帰る場所”を忘れるな」
その言葉は静かだったが、確かな重みがあった。
アルスは小さく頷き、胸の奥に刻む。
朝食を終え、家の外へ出ると、陽はすでに高く昇っていた。
家の横には、父が昨日修理した弓と矢筒が立てかけられている。
アルスはそれを手に取り、背に背負った。
「今日は森に行くの?」
エリナの声が背中に届く。
「うん。鹿でも見つけられたらいいな」
「気をつけてね。森の北の方は、このところ獣の影が多いらしいから」
「わかった、気をつけるよ」
アルスは軽く手を振り、ゆっくりと森の方へ歩き出した。
足元の草が柔らかくしなり、鳥たちが枝を渡る音がする。
振り返れば、家の前に立つ二人の姿。
父の逞しい腕、母のやさしい笑顔。
その光景を胸に焼きつけるように見つめ、アルスはもう一度前を向いた。
──この村は、自分の始まりの場所。
そしていつか、帰る場所。
風が頬を撫で、朝の光が道を照らす。
アルスは小さく息を吸い、弓を背にかけ直した。
「さあ、行こう。今日も、いい日になるといいな」
その声は、静かな森の中に溶け、鳥の鳴き声と共に消えていった。
だが確かに、その瞬間から――
アルスの心の奥で、新しい旅の鼓動が、ゆっくりと動き始めていた。




