第17話 森の牙熊
王都のギルドから依頼されたのは、森の奥で目撃されている牙熊の捜索だった。
周辺の農場や街道に被害が及ぶ前に、まずは個体の位置を確認し、発見次第ギルドに報告するのが任務である。
アルスは剣の柄を確かめながら、ひとり森の奥深くへと足を踏み入れた。
木々の間には霧が漂い、湿った空気が肌に張りつく。時折、枝葉の隙間からこぼれる光が剣の刃に反射し、きらりと鈍い光を放つ。
昼だというのに木々の枝葉が太陽を遮り、地面は薄暗く湿っていた。
土の匂いと苔の湿り気、遠くで水音が響く。
小鳥のさえずりも途絶え、森全体が何かを息潜めているような静けさに包まれていた。
「……嫌な気配だ」
腰の剣に手をかけ、慎重に歩を進め、足元の落ち葉を踏む音すら、やけに大きく聞こえる。茂みを抜け、倒木を越えたその瞬間――
ズシンッ。
大地を叩く重い音が響いた。
風がざわめき、木々の間から、黒褐色の巨影が姿を現す。
「――牙熊」
体毛は煤のように黒く、筋肉の盛り上がった肩がわずかに揺れるたび、地面が鳴るような圧を感じる。
動きは見た目に反して驚くほど素早く、枝を踏みしめて跳ぶたびに森の中に鈍い音が響く。逃げる隙などなく、アルスは息を整えながら剣を構えた。
「見つけたか……いや、見つかったな」
低く呟いた瞬間、獣が咆哮を上げ、鼓膜を破らんばかりの怒号が森の空気を震わせた。
土を跳ね上げ、巨体が一直線に襲いかかる。アルスは反射的に横へ跳び、地面を転がって衝撃を逃がす。その背後では爪が地面を裂き、木の根をえぐった。飛び散る泥と葉の中で、アルスは再び立ち上がり、剣先を構え直す。
牙熊がすぐさま突進してくる。
――速い!
牙熊は低く唸りながら、今度は横薙ぎに腕を振るった。風圧だけでも頬を切りそうな一撃。アルスは身を沈めて回避し、地を滑るように間合いを詰める。
だが次の瞬間、獣の巨体が跳ね上がり、影が頭上を覆った。アルスはとっさに剣を掲げて受け止めるが、圧倒的な力に押され、膝が地面に沈む。
「くっ……この速度でこの重さか……!」
牙熊はもう一方の腕を振り、二撃目を繰り出す。
アルスは一撃目の攻撃を剣で受け止めている所に二撃目が迫ってくる。
――その時、木陰からしなやかな影が射抜くように現れた。
白いフードを深く被った人物が、弓を引き絞り、矢を放つ。風を裂いた一閃が牙熊の肩を貫き、同時に足元へと風魔法が叩きつけられた。
獣が体勢を崩す。アルスは好機を逃さず踏み込み、刃を閃かせた。
鉄のような毛皮を裂く手応え。牙熊が怒りに咆哮し、血飛沫が宙に散った。
「下がって」
透き通る声と共にアルスは地を蹴って後方へ跳び、木の幹に背を預ける。呼吸を整えながら、ちらと横目に白いフードの人物を見る。
無駄のない動きで再び弓を構え、冷静に狙いを定めていた。
二人の攻撃は徐々に呼吸を合わせ、牙熊の動きを追い詰めていく。
風が巻き起こり、矢が閃き、アルスの剣が光を放つ。森の中で、金属と咆哮がぶつかり合う音が続いた。
魔獣の腕が大地を叩きつけた瞬間、衝撃が森全体を揺らす。アルスはその余波を受けながらも踏みとどまり、跳躍して懐へ潜り込む。
白いフードの人物が再び風を巻き起こし、矢が牙熊の喉元を撃ち抜いた。
「今だ!」
次の瞬間、アルスの剣閃が走り、光の軌跡が暗がりを裂く。
轟音とともに牙熊は倒れ、地面がどすんと沈んだ。森に静寂が戻り、風に揺れる枝葉だけが音を立てた。
荒い息を吐きながら剣を下ろしたアルスの前に、白いフードの人物が静かに立っていた。
その瞳だけが月光を反射し、冷ややかに光る。
アルスは少し息を整え、照れたように口を開いた。
「その……助かった。ありがとう」
フードの奥で、相手の視線がわずかに逸れる。
「……放っておけなかっただけよ」
その声音は淡々としていながら、どこか優しさを帯びていた。
牙熊の牙と爪、剥ぎ取った皮を携え、二人は森を後にした。
街道に出る頃には、空は群青に染まり、遠くで街の灯が瞬き始めている。
夜風に汗が冷やされ、緊張がようやく解けていく。アルスは隣を歩く白いフードの人物にちらりと目を向けた。
「……一緒にギルドまで来てくれませんか?報告も兼ねて」
小さく頷く仕草が、白いフードの中から確かに見えた。
王都のギルドに到着すると、受付のリナが驚いた顔で駆け寄ってきた。
「アルスくん……どうしたの、その牙と爪は!」
アルスは静かに息を整え、戦利品を差し出す。
「牙熊の捜索で個体を発見し、やむを得ず討伐しました。この方に助けてもらって……」
リナは白いフードの人物に目を向け、目を細める。
どこか見覚えのある気配。しかし、それを口にはしなかった。
「……これは間違いなく牙熊のもの。それに皮まで……あなた、本当に一人で?」
「いいえ」白いフードの人物が静かに遮る。
「彼がいなければ、私も無事ではいられなかった」
アルスは慌てて首を振った。
「いえ、僕の方こそ助けられたんです。あの矢がなければ――」
「お互い様、ということにしておきましょう」
そう言って、彼女の口元がわずかにほころんだ。
リナは二人を見比べ、胸の奥に小さな疑問を抱いたまま素材を受け取る。
「素材は換金しておくわ。……お疲れ様、アルスくん。そしてあなたも」
白いフードの人物は軽く会釈すると、踵を返した。
アルスと白いフードの彼女がギルドの外に出ると、夜風が心地よく頬を撫でた。
街灯が淡く照らす中、白い影がふと立ち止まる。
「アルス」
「はい」
フードの中から透き通った声で呼ばれ思わずアルスは返事をした。
「少し……話があるの」
アルスは一瞬息を呑み、その声に吸い込まれるように静かに頷いた。
夜の街は静かで、風が二人の間をそっと通り抜けていく。
――この出会いが、彼の運命を大きく動かすとは、まだ誰も知らなかった。




