第11話 畑を荒らす影
翌朝。
王都の冒険者ギルドの掲示板の前で、アルスは依頼書をじっと見つめていた。昨日の初めての依頼を終えた高揚がまだ胸に残っている。けれど、その反面、「次は自分に何ができるだろうか」という少しの不安も拭えない。
通りを行き交う冒険者たちの足音や、掲示板に貼られた新しい依頼書の紙が風でかすかに揺れる音に耳を澄ませながら、アルスは深呼吸した。
「次の依頼を探してるの?」
声をかけてきたのは受付嬢のリナだった。昨日よりも少し柔らかい笑顔で、掲示板を覗き込む。
「うん。これとか……どうかな」
アルスが指差したのは、郊外の農村からの依頼書だった。
『畑を荒らす野生の獣を退治してほしい。夜になると畑を荒らされ、収穫が危うい。どうか力を貸してほしい』
リナは依頼書を手に取り、アルスを見た。
「危険度はそれほど高くないけど、油断すると怪我をする可能性もあるわ。……昨日の依頼をこなせたあなたなら、きっと大丈夫」
「本当に?」
「ええ。ただし無理はしないこと。必ず覚えておいてね」
真剣な眼差しに、アルスは小さくうなずいた。
「分かりました。やってみます」
「報酬は8ゴルド。宿の滞在費なら二日分くらいにはなるわね」
アルスはにっこりと笑みを漏らす。昨日は宿1泊分の依頼だった。少しずつ生活の余裕ができることに、わずかな安心感を覚えた。
王都から半日の距離にある農村に到着すると、依頼主の農夫が出迎えてくれた。
「おお、ギルドから来てくれたのか! 本当に助かるよ」
日に焼けた顔をほころばせ、農夫は深々と頭を下げる。
畑に案内されると、踏み荒らされた畝や食い散らかされた作物が無惨に広がっていた。
「昨夜もな、畑に黒い影が忍び込んでな……見に行ったら大人の腰ほどもあるイノシシみたいなやつだ。牙も鋭くて、人がかかれば危険だろう」
農夫は眉をひそめ、続けた。
「あれは、多分……ブロアボアって魔獣だ。牙で地面を掘り返して、畑を荒らす厄介な奴でな……。普段は森の奥にいるんだが、最近食い物が少ねぇのか、村の近くまで出てくるようになってよ」
アルスは息を飲む。薬草採りとは違い、今回は「相手が牙を持つ生き物」だ。剣を握る手に自然と汗が滲む。
日が傾き始めるころ、農夫はアルスを自宅へ案内した。木造りの簡素な家だが、どこか温かみがある。窓から入り込む夕焼けが、室内を淡い橙に染めていた。
「夜まではここでゆっくりしていくといい。腹も減ってるだろう?」
そう言って農夫の妻が、温かいスープと焼きたての黒パンを出してくれた。畑で採れた野菜を使った素朴な味だが、身体の芯からほっとする温かさだった。
「ありがとうございます。とても美味しいです」
アルスが頭を下げると、夫婦は顔を見合わせて笑った。
「若ぇのに礼儀正しいな。……でも無理はするなよ。あの魔獣は本当に危ねえ」
食事を終え、時間がゆっくり流れていく。
外では、村の子どもたちが夕暮れの中で遊ぶ声が聞こえ、家の奥では薪のはぜる小さな音が響いていた。
アルスは食卓に置かれたランプの明かりを見つめながら、ひとり深呼吸した。
(怖くないと言えば嘘になる。でも……俺がやらなきゃ)
覚悟を固めると、農夫がそっと声をかけてきた。
「夜になったら畑まで案内する。無理だけはしないでくれよ、アルス殿」
「はい。任せてください」
そして――空が藍色に沈みきるころ。
月明かりの下、アルスは畑の脇に身を潜め、気配を探った。風に混じって獣の匂いが漂う。
ガサリ、と茂みが揺れた。
姿を現したのは農夫の言った通り、大きなイノシシに似た魔獣だった。光る目、地面を掘り返す牙。
「……やるしかない!」
アルスは飛び出し、剣を構えて獣に挑む。
その瞬間、獣の赤い目がギラリと光り、怒りの咆哮とともに突進してきた。
「ッ──!」
想像を遥かに上回る速さ。避けきれず、肩をかすめた牙が布を裂いた。生温かい痛みが走り、アルスは思わず後退る。
(くそ……速い! 力も重い……!)
獣は地面を抉る勢いで方向転換し、再び突っ込んでくる。
アルスは息を飲み、必死に横へ跳ぶ。足が地面に着いた瞬間、突風のような突進が脇を抜けた。
(正面から受けたら、絶対に吹き飛ばされる……!)
アルスは胸の奥で脈打つ恐怖を押し込め、剣を握り直した。
「ここで負けたら……村の人たちが困るんだ!!」
獣が唸り声を上げ、今度は低く身を伏せて狙いを定めてくる。
瞬間、月明かりに照らされたその筋肉が弾けるように動いた。
「来い……!」
恐怖で足が震える――それでも逃げなかった。
突進が迫る。
牙が目前に迫る直前、アルスはギリギリまで引きつけてから身を沈めた。
「っ……今だ!!」
すれ違いざま、剣を振り抜く。
しかし深くは斬り込めない。獣が狂ったように振り返り、後ろ足で地面を蹴る。
(もう……決めるしかない!)
アルスは息を吸い、全身に力を込めた。
獣が飛びかかる。
月明かりが剣先に宿る。
「うおおおおおっ!!」
叫びとともに、真正面から踏み込み、渾身の一撃を振り下ろした。
刃が獣の首筋の硬い毛皮を割り、筋肉の奥まで届く。
咆哮が夜に響き、巨体が揺らぎ、そのまま崩れ落ちた。
アルスも膝をつき、荒い息を吐く。
「……倒した……っ」
月明かりだけが静かに、その勝利を照らしていた。
魔獣の体にはまだ温もりが残る。アルスは腰のナイフを取り出し、慎重に皮を剥ぎ、牙と爪を切り取った。
残りの肉や皮は農夫に渡し、村での食料や道具、畑の防護策に使ってもらうことにした。農夫は感謝の笑顔を見せ、深く頭を下げる。
「本当にありがとう。これで作物を守れるよ」
依頼を終えて王都に戻るころには、すっかり朝になっていた。
アルスは昨夜討伐したブロアボアの牙と爪を抱え、冒険者ギルドへ向かう。
リナが笑顔で迎える。
「おはよう、アルスくん。昨夜の依頼は無事だったのね」
「はい、村の人たちのために……なんとか」
アルスは牙と爪を差し出す。
リナはそれを手に取り、優しく説明する。
「ブロアボアの牙と爪ね……ギルドで換金もできるし、素材として他の冒険者や職人に渡すこともできるわ。あなたの希望で管理していいのよ」
「じゃあ、換金して生活費に回そうかな」
数分後、小さな袋が手渡される。
「はい、これ換金分ね。報酬の8ゴルドと合わせて、今日だけで合計12ゴルドになったわ」
「これでしばらく安心して生活できるな」
「ふふ、冒険者としての一歩を着実に踏み出してるわね。焦らず、自分のペースで成長していきましょう」
窓の外、王都の空は朝の光に染まっていく。
アルスは胸の奥に熱を宿しながら、新たな一日の始まりに静かに覚悟を固めた。




