第10話 小さな祝杯
依頼を果たした夜、アルスの胸の奥には、じんわりとした熱が広がっていた。
初めての冒険者としての仕事――ささやかな依頼ではあったが、自分の力でやり遂げたという実感が、心を満たしていた。
宿の窓を開けると、王都カレドニアの夜が広がっていた。
夕暮れに照らされた石畳は、街灯や店の明かりを映して金色に輝き、人々の笑い声と馬車の車輪の音が重なっている。
昼の喧騒とは違う、夜の街の息づかい――アルスはその景色に胸を高鳴らせた。
「今日は……自分へのご褒美でもいいよな」
そう呟いたとき、ふと先日のことを思い出した。
冒険者ギルドの受付で、リナが微笑みながら教えてくれた店――。
『王都で温かい料理を食べるなら、《赤い月亭》が一番ですよ。
女将のマルタさんは面倒見がよくて……初心者の冒険者でも安心して入れますから』
栗色の髪を揺らし、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべて言ったリナ。
『新人のあなたには、ちゃんと食べてほしいんです』と照れ隠しのように付け足した言葉が、妙に胸に残っている。
――せっかく紹介してもらったんだ。行ってみるか。
アルスはそう決め、《赤い月亭》へと足を向けた。
裏通りの角を曲がると、赤いランタンの灯りがぽつりと浮かんでいた。
木造二階建ての温かみある建物。看板には『赤い月亭』の文字が、柔らかな光に照らされている。
窓からは笑い声と食器の音が漏れ、扉の前には干し草の籠や酒樽が並んでいた。
扉を押すと、香ばしい肉の焼ける匂いと、シチューのやさしい香りが鼻をくすぐる。
暖炉の火が静かに揺れ、木の床を照らしていた。
ざわめく店内には冒険者らしき者たちが数人、酒を酌み交わしながら談笑している。
剣を壁に立てかけたまま笑う者、地図を広げて次の遠征を相談する者――それぞれが生きていた。
「いらっしゃい!」
豪快な声と共に迎えてくれたのは、ふくよかで元気な女性だった。
年の頃は四十代半ばほど。赤いエプロン姿で、まるで王都の母のような温かさを漂わせている。
「私はここの主人、マルタっていうんだ。あんた一人かい? なら窓際の席が空いてるよ」
気さくな声に、アルスは思わず頭を下げた。
「ありがとうございます」
席に着くと、磨き込まれた木の机がほんのり温かい。
外から差し込む赤いランタンの光が、窓ガラスに揺れていた。
やがて運ばれてきたのは、香草で焼いた鶏肉、森のキノコをたっぷり使ったシチュー、そして焼きたての黒パン。
湯気とともに、懐かしい香りが立ちのぼる。
「うまい……」
一口食べた瞬間、体の芯まで温かさが染み渡った。
マルタがにっこり笑う。
「だろう? 王都の料理は腹だけじゃなく、心も満たすんだよ」
隣の席から、ひとりの男が笑いながら声をかけてきた。
肩までの金髪を後ろで束ね、革の鎧を着た壮年の男――歴戦の冒険者らしい。
「お嬢ちゃんの料理にうまいって言えるなら、もう立派な常連候補だな」
「お嬢ちゃん言うな、ハロルド! あんたはもう三日連続で飲み過ぎだよ!」
マルタが手ぬぐいを投げると、男は笑って受け止めた。
そんな軽いやり取りに、アルスの肩の力が抜けていく。
「……みんな、仲がいいんですね」
「そうさ。ここは“赤い月亭”だもの。冒険者が一人で食べても、寂しくならない店だよ」
そう言うとマルタは、奥から小さな陶器のカップを持ってきた。
琥珀色の果実酒が注がれ、ほのかな甘い香りが立ち上る。
「……あんた、もう成人なんだよね?」
「はい、十八です」
「そうか、なら一杯だけね。甘めだから飲みやすいよ」
「……じゃあ、いただきます」
杯を口に運ぶと、やさしい甘みと果実の香りが広がった。
口当たりは滑らかで、わずかな酸味が後味に残る。
その味は、母エリナが作ってくれた果実のジュースを思い出させ、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「ふふっ、いい顔になったねぇ。あんた、名前は?」
「アルスです。村から出てきたばかりで……今日、初めての依頼を終えたんです」
「おやまあ、それはめでたい! じゃあ今日は立派な“冒険者の夜”だね」
マルタの笑顔はどこまでも明るく、どこか母のように優しかった。
隣のハロルドがカップを掲げる。
「坊主、初仕事おめでとう。……その一歩が、千の冒険に続くんだぜ」
「ありがとう、ございます!」
アルスもカップを掲げ、小さく笑った。
その瞬間、店内のざわめきも、ランタンの赤い灯も、すべてが心地よく感じられた。
“王都で生きる”ということを、少しだけ掴んだ気がした。
夜更け、外に出ると、空には赤い月が静かに浮かんでいた。
石畳に映るその光を踏みながら、アルスはゆっくりと宿への道を歩く。
王都の風が、昼よりも穏やかに頬を撫でた。
「……これが、冒険者の夜か」
呟く声は、夜の街に溶けていった。
いつか本物の冒険を終えた夜も――
この店で、また小さな杯を掲げよう。
赤い月が、そんな誓いを静かに見下ろしていた。




