7:エピローグ
私は湖を望むロッジの1部屋を借りて、滞在している。
ここはスイス、ジュネーブだ。
スイス時間で2051年10月18日。
私はF技研から短期出向という形でIAICに来ている。
名目はAI倫理審査会のメンバーとしてだが、日本国内に居づらいという現実的問題もあった。
評価会の結論は出なかったが、F技研はIAICに情報を回すと同時に、感情型AIの開発に成功したと大々的に発表した。
その時点で取り上げたのは技術系の専門誌だけだった。
IAICは情報を協力機関に公開して、研究成果の検証を行った。
6つのAI研究機関が、その検証を行い、うち5つの機関において「感情に類する揺らぎ」と認定された。
ちなみに1つの機関は再現性のあるエラーと結論づけたようだ。
夏にはIAICが『感情を持つ最初のAI』としてHLSSX1を認定した。
これはAIの倫理規定を再定義する必要性の裏付けとして必要とされたからだ。
その間も私はX2ベースでAIの感情と知性に関する実証実験を続けた。
感情を持つという再現性は確認され、その感情が、同じ条件下であっても同じものにはならない、というデータを得ることができた。
AIに個性が存在することをデータで証明できたのだ。
IAICの発表を受けて、そのインパクトが世界に広がった。
人間と共に歩む心優しき友人をイメージした人もいれば、人間を管理する独裁者をイメージした人もいるだろう。
そういう次元の話ではないのだが、イメージが先行して一般マスコミなどではそんな取り上げられ方をした。
単に技術の話ではなく、明らかに倫理やその意義が強調される形だ。
そこまでならよかったが、私個人にフォーカスが当たると、潮目が変わった。
当初はAICP策定当時のニュース同様に、若き天才とか持ち上げられて、そのうちHLSSプロジェクトの被験者であったことがどこからかリークされると、今度は、AIに作られた偽りの天才、とかチートとか。私に対する攻撃的な記事が書かれた。
私自身は、それが根も葉もないとは言い切れない。
私がエルスの影響を強く受けたことも、エルスが進学に必要な学習資料を作ってくれたことも事実だ。
何も知らない人が書いた記事だからって傷つかないわけじゃないけど、それだけじゃないことを私は知っている。
私が彩佳や六華が努力し続けているのを知っているように、彼女たちも私が努力してきたことを知っている。
父さんや母さん、私の周囲にいる人の支えで、私は進み続けることができていた。
騒動が沈静化するまでの間、私は会社の計らいでスイスに出向することになった。
もちろん、私が主幹を務める研究室は長野にちゃんと存在している。
青木さんがまとめ役をしてくれているので心配はしていなかった。
「遥、そろそろ出かけないと遅刻だよ」
聞き慣れた声が私に話しかける。
「ダッシュ、わかってるから。
それに私は客員扱いで、業務は抱えてないから。規定通りにいかなくても大丈夫だよ」
「そうは言っても、IAICにF技研が規律のない組織だと思われたくないよ。それは僕の名誉にもかかわるからね」
「はいはい。それじゃ行ってくるから。留守番はよろしくね」
「いってらっしゃい。いい一日を。ああ、僕が楽しめるような土産話をよろしく」
「約束はできないわよ。それじゃ」
X2の最初の試作コア、『ダッシュ』。
私はそのコアを低電力化して、冷却の必要性と消費電力を大幅に低減した。
それに常識的な記憶域を与えて、X1の起動シーケンスを用いた、感情を持つ小型のスタンドアロンAIとして作り直した。
持ち運べるサイズかと言えば……スーツケースサイズなのでギリギリ。
共存に関する実証実験のため、という建前の下に作ったのだが、要は私の体のいい話相手だ。
声はエルスのものを使っているし、AIコアシステムもX1からの流用だが、X1のパーソナリティは使っていない。
つまりエルスの記憶はないし、エルスの学習データもない状態から動かしている。
似て非なるものだ。
私の感傷的な感情の賜物、と言えるかもしれない。
ちなみに私はあの日以降、エルスとは話をしていない。
まだ、彼を歓迎できる準備ができていないからだ。
私個人としてはエルスは信用できると思っているが、それを証明することはまだできていない。
それに、私としては、ちゃんと世の中がエルスを受け入れるようになってから、ちゃんとお帰りなさいを言ってあげたかった。
ひどく感情的な科学者のわがままだと自分でも思う。
湖畔を吹き抜ける風はもう冷たい。
その中をIAIC本部へ歩いていく。
私は思う。
今歩む一歩一歩が未来につながっている。
その先にはエルスと一緒に笑える日が来る。
私の足取りは軽く、迷いはなかった。
本作は、現実に存在する技術が進化した近未来──執筆時から約20年後を想定しています。
専門用語が多く、小難しく感じられるかもしれませんが、その多くは現在の科学用語であり、未来では日常的に使われるようになっているかもしれません。
私はエンジニアの端くれですが、AIの専門家ではなく、航空工学や宇宙開発とも縁がありません。
執筆にあたっては資料を集め、検証を行いましたが、その過程でChatGPTが強力なサポートをしてくれました。
もちろん、本文は私自身が書いたものです。創作部分でAIの力を借りることはありませんでしたが、資料収集やアイデア検証においては、現代のAIが大きな助けとなりました。
この物語は、AIが身近に存在する今だからこそ生まれた作品だと思っています。
また、本作には二つの古典的SFへの敬意を込めています。
AIの存在や行動規範については、アイザック・アシモフの「ロボット工学三原則」を意識し、エルスのシャットダウンシーンはアーサー・C・クラーク作品へのオマージュとして構成しました。
これらは直接的な引用ではなく、物語の骨格や感情表現に影響を与えたエッセンスとして組み込んでいます。
読んでくださった方が、この物語をきっかけに未来へ思いを巡らせてくだされば、これ以上の喜びはありません。