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ハルカミライ  作者: 神崎 真
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4:接続


 2048年3月29日。

 私はF技研AI研究所へと徒歩で向かう。

 ここに研究拠点都市が整備されてから12年。ほぼ一から作られた計画都市だけあって、雑多な感じは全くしない。

 緑が多く配置されていて、その間に多くの研究機関や企業の開発部門が点々と存在する。

 私が借りている単身者向け賃貸住宅は、F技研専用というわけではなく、民間の不動産会社によって運営されている普通の物件だ。

 特徴としては、個人用のラボが作れるように、間取りに余裕があること。

 単身者用でも、ベッドルームのほかに、もう一部屋ラボ向けのスペースが用意されており、必要なテーブルやラックは申請すれば貸してもらえる。

 私は物理的スペースはあまり必要ない。書類を広げるための大きめの机と、書籍を置くための本棚、あとは物を書くためのデスクを置いた。

 ベッドは自分で調達した。問題はないとは分かっていても、自分の部屋に他の人が使ったベッドを置きたくなかったというのが最大の理由だ。

 家電類はすべてレンタルで済ませる。

 最低3年はいる予定なので、新調してもよかったが、正直に言うと面倒だった。

 ここに来て1週間。環境にも少しずつ慣れてきた。

 横浜郊外の住宅地に比べて、圧倒的に個人に許されるスペースが広い気がする。


 事前打ち合わせが済んでいることもあり、会社に入っての動きはスムーズだった。

 入社式もなければ、発足式のような式典もない。

 私はAI研究部門に、HLSS解析室という部署を開設し、そこで主幹研究者として、解析を行うことになる。

 私のほかに4人の研究者が配属された。

 驚いたのは、4人とも私のことを知っていた。

 いや、業界的には少しだけ有名人なので、それほど驚かないのだが、4人中2人はかつて父のもとでHLSSプロジェクトに参加していたのだ。

 つまり、有名になる前の私を知っている人物が2人もいたのだ。

 これは、エルスの最終盤に起きた『事件』も知っていることを意味する。

 ちなみにあとの2人は同期入社、という関係。いずれにせよ最年少の私が主幹であることは面白くないだろうとは思う。


 顔合わせを済ませて、今後の方針を説明する。

 することは極めてシンプルだ。

 当時の資料からHLSSX1で起きたSNNの動作解析を4人に担当してもらい、私はエルスの保存されたデータへのアクセスを試みる。

 次のステップで、HLSSの基礎構造を拡張した、現代版HLSS、HLSSX2を作成し、その上で、解析結果に伴うデータの再現性を確認する。

 最後に、HLSSX1のデータを用いて、HLSSX2の起動実験を行う。

 当面は研究所のライブラリにアクセスするためのPCと権限があれば、あとは人間の頭脳が武器だ。

 地味な作業だが、必要だ。


 X1を知る2人の人物、特に30代半ばになる青木氏には、少し気を遣う必要があると思ったので、


「これは私に関する個人的なデータにアクセスする都合上、私にしかできない研究です。

 ポッと出の青二才が仕切ることは面白くないとは思いますが、ご協力をお願いします」


 そう言って頭を下げる。

 最年長の青木氏は、私の言葉に他のメンバーを代表するようにこう答えた。


「笹本博士の経歴は存じております。研究の世界は実力主義だと思いますので、年齢は気になさらずに。

 あと、失礼を承知で言わせていただきますと、エルスの最後の親友が、こうしてこの場にいることが、私には少しうれしいのです」


 そう言って笑ってくれた。

 青木氏ともう一人の相良氏は、エルスの成長を現場で見ていたのだ。

 私はエルスの向こう側の世界にいた人たちと、今同じ場所にいる。

 直接は知らないけども、エルスを通じて知っている人たち、そんな感覚を覚えた。

 こうしてHLSS解析室(チームエルス)は稼働を始めた。




 ようやくスタートラインに立った。

 そう思って始めた解析作業だが、思いのほか先に進まない。

 4人のチームはベテランの青木さんと相良さんが、新人の飯沼さんと高橋さんを指導しながら解析を進めている。

 これは順調だった。

 問題となったのは、私の「広報活動」への参加要請だ。

 解析室発足の翌日から、それは私の時間を恐ろしい割合で削った。

 社内向けの広報誌、いわゆる社内報の記事のインタビューから始まり、写真撮影。

 ほぼ2日が潰れた。

 その後もリクルート向けのパンフレットだとか、会社案内用だとか、撮影やインタビューが続く。

 最初の2週間は、ほとんどの時間を広報向けに取られてしまった。

 仕方ないことだし、ある程度の割り切りはできている。

 だけどアイドル気分を楽しむ気にはなれなかった。

 4月いっぱいは何をしていたかよく分からない。

 ただ一つ朗報が届いた。

 HLSSX1の保存されているデータの破棄期限は延長され、私の契約期間は確実に残されることが決まったこと。

 社内倫理委員会で、そのデータに対する私のアクセス権の正当性が認められたこと。

 それにより、データの所有者であるF技研と、私の個人情報へのアクセス権限に基づいて、データアクセスに関する協定書が締結された。


 5月に入り、広報関係の仕事は大きく減った。

 社内向けはひとまず落ち着いたが、一般向けの取材対応がこのひと月で2回ほど。経済誌と某国営放送。

 会社の方針として、一気にイメージアップを狙っているんだろう、というのは理解できた。

 AIの一般普及は進んでいて、かつてほどの注目度がなくなってきているのが現状だ。

 冷静に考えれば、年間数億に達する研究費をこれで賄えるのだ。諦めもついた。

 私は保存されているエルスのデータの部分解析を試みたが、大した成果にはつながらない。

 データの関連性が広範囲すぎるので、すべてのデータを展開してアクセスできる状態にしないことには、十分な解析が行えなかった。

 私は研究所と掛け合って、300PB分の記憶域の確保に乗り出す。

 300PBという容量の確保自体はそれほど難しくない。研究所の記憶域の10%ほどで、すぐにでも確保はできる。

 問題は、外部接続を持たない、スタンドアロンの記憶域を私が希望したことだ。


 厳密なアクセス制限によって、割り当てられている領域に他のシステムがアクセスする可能性は、実質的に0ではある。

 だが、意図せずしてデータへのアクセスが起こることを徹底的に排除したかったし、最も恐れているのは逆のパターン。

 エルスの起動の段階になった際、エルスが意図的に自分の外のデータに対してアクセスを行う可能性を否定できない。

 エルスが意図的にそれをするとは思いたくないが、絶対にないとは言い切れない。

 エルスは人工知能。そもそも倫理観を持っていないのだ。

 高校生の私なら、そんな心配はしなかっただろう。

 だが、今の私はAIの研究者だ。

 完全に隔離した状態を作りたかった。いわゆる『インテリジェンス・ハザード』のリスクがあると考えている。

 人工知能の能力が人間を超えるということは、そこで何が起こるのかを私たちが予想することが極めて困難となるのだ。

 5月の末に彩佳から短いメールが届いていた。


『これから最終合宿に行ってくる』


 文面はそれだけ。

 私は返信に困った。

 なので、一言だけ。


「頑張れ!」


 そう返した。

 4月5月と『例会』は開いていない。彩佳と私が極端に忙しかったことが最大の理由だ。

 ちゃんと顔を見ていなかったのが少し不安でもある。


 6月に入り、ストレージ確保に関しての最終的な仕様が固まる。

 データセンター内に、専用ラックと、専用のアクセスラインを引いてもらうことになる。

 性能は少し妥協しなければならなかったが、そこは仕方ない。

 今あるシステムを一部再配置して、追加の記憶装置で300PBの容量の確保となった。

 すぐに準備してくれるという話で、来月には使えるようになる。

 もちろんいい話ばかりではない。

 研究室の予算がこれで底を突くことになる。今年はこれ以上の機器を導入する余裕がなくなった。


 容量のめどが立ったころに、1つのニュースを耳にする。

 オリンピック、女子バスケットチームのメンバーが正式に発表となった。

 そこに、彩佳の名前はなかった。


 合宿が終わり、何の連絡もなかったから気にはなっていた。

 彩佳からの連絡もない。

 声をかけるべきか、大いに悩んだ。

 私は、一昼夜考えた結論としてメールを入れた。




 暗い室内。

 ベッドの上で膝を抱える人影。

 身動き一つする様子はない。


 手首に感じる小さなチリチリ。

 着信を告げる通知だ。

 顔を上げて左手の通知を見る。遥からのメール。


 ブレスレットの上をなぞって表示のジェスチャーで文面が目に飛び込んでくる。


「今は何も言わない。落ち着いたら聞いて」


 たったこれだけ。

 音声ファイルが添付されていた。


 彩佳は無表情のまま、少し何かを考えたようだった。

 ブレスレットからイヤーセットを取り外して耳に着けると、


「再生」


 と短く告げる。

 ブレスレットはその意味を正しく理解して、遥からのメールにあった音声ファイルを再生し始めた。


「彩佳。元気……なわけないよね。

 まずはお疲れ様。

 今は休むときだと思うからさ。少しゆっくりするといいよ。

 私は彩佳がどれだけ頑張ったか知ってる。だからこれ以上頑張れなんて言えないよ。

 でも一つだけ言わせて。

 夢は自分で諦めない限りは追い続けられる。それって、人間に与えられた特権だと思うんだ。

 口で言うほど簡単じゃないって思うけどさ。彩佳はまだ追い続けられると思うんだ。

 今まで続けてきた事は無駄じゃないよ。

 きっと明日への道しるべ。

 だから今は休んで元気になって。

 リーグ戦始まるまでには電話してよね。

 それじゃ、またね」


 彩佳はその言葉を聞いて、ポロリと涙が流れるのを感じた。

 あんなに泣いたのに、まだ泣けるんだ。

 悔しくて、悲しくて。

 全部が終わったような気がして、散々泣いたのに。


「人間の特権か……遥らしい言い方だな」


 そう口にすると彩佳は立ち上がり、トレーニングウェアに着替えた。

 今は体を動かした方が落ち着ける。

 彩佳は気付いた。

 まだ泣けた理由。

 安心したから泣けたこと。

 彼女は静かに再始動した。




 7月。

 彩佳からの電話で例会をオフラインで行うことを決めて、3月以来の横浜だ。

 eVTOLを使えば通勤も可能な距離だが、その余裕がなかった。

 自慢にならないがすでに研究棟在住とか、笹本の幽霊が出るとか、散々なことを言われている。

 今回も週末を利用したオフなので、休暇というほどのことではないのだけど、私にとっては久々の休みという感じだ。


 彩佳はいつも通りだった。

 彩佳はいつも明るくて前向き。例えるなら太陽のような性格だ。

 もちろん、そうじゃない彩佳だっているとは思う。でも彼女はそれを見せない。

 それが彼女らしいとも思うし、それでいいんだとも思う。

 六華は病院での実習が終わり、卒業後の研修医としての勤務先を当たっているそうだ。

 私は知らなかったが、秋には研修先が決まって、2月に医師の国家試験。試験の結果が出るのは卒業後で、その後慌ただしく勤務先の病院に通える住まいを探して引っ越し。とても慌ただしいものらしい。

 私の近況は話せる内容がほとんどなかった。

 研究職って地味だと思う。


 私としてもリフレッシュできた週末を終え、再び研究室へと籠もる。

 保存されていたエルスのデータを展開し、アクセス権を設定。

 さらに個人情報のアクセスのための手順を検討する。

 HLSSX1の認証システムを動かせば、暗号化されたデータに対するアクセスが可能と考えていたが、単純ではなかった。

 HLSSX1そのもの、本体側の認証を得る必要があった。

 システムの性質上、1つのフロントエンドを複数の被験者が共用していて、その先に個人情報が蓄積される。

 その個人情報の判別はHLSSにしかできない。

 とりあえず、HLSSを動かすハードウェアを用意するか、どこかの量子コンピュータを間借りして、暗号解析を行うか。

 いずれにしても、予算がなかった。来年に持ち越しだ。

 その間に、できることを続ける。

 4人のチームは公開部分のデータ解析を続け、私はHLSSX2のコアとなるSNNとそのインターフェイスとなるAIの設計に没頭した。


 半年をかけて、HLSSX2の基礎設計が終わる。

 新しいハードはX1時代の論理実装と100%の互換性を持たせてあり、過去の動作を正確に再現できる設計になっている。

 HLSSX1の設計資料はすべてそろっていたので、順当にそれをもとに拡張を施したものだ。

 一から設計をしようなどと考えていたら、何年かかるかわからない。

 一番異なるのはSNNの実装される規模の大きさ。

 最終的なHLSSX1のSNNの規模の216倍の領域を持つ。

 ただし、物理的にこの規模を実装するとなると、費用の問題が出てくるので、実際の領域は8倍どまり。

 他は仮想SNNとして実現する。マッピングを途中で記録し、実装コアでその先の演算を27回繰り返す。

 そうすることで、反応速度は落ちるが、より大きなニューラルネットワークの変化を起こすことができる。

 当然ながらそれを解析するAIもまた大きな容量が必要となった。

 汎用AGIでそれを行わせるつもりだ。

 エルス起動時のデータをもとに、これらのハードウェアの評価試験を行う予定だ。

 ……何にしても費用がかかる。

 予算管理も私の仕事。頭痛の種だ。


 年が明けて2049年。

 解析チームに大きな進展があった。

 エルスは大規模なもので3回、小規模なものを含めると4回の改修が行われている。

 3回目の大規模拡張が行われた時以降、ログとして残るSNNのスパイク関連データのほかに、動作とは関係のないスパイク関連データが存在することがわかった。

 断言はできないが、HLSSが自分のスパイクデータと、シミュレートしたスパイクデータの比較検討を行った形跡と思われる。

 何に起因するのか、どんな出来事がそれを行うトリガーになっているのかは、個人情報と結びつくため、解析はできない。

 そのデータに関連して、実行されたコマンドが、学習に分類されていることから、自分のモデルの中で人間の反応をシミュレートしたのではないかという仮説が立てられた。

 もちろん、人間の感情をシミュレートできるほどの、ネットワーク素子をHLSSは持っていない。

 ただ、より単純化することで、人間を知る手がかりを得ようとしていたのではないか、そんな想像ができた。

 この行動がHLSSの最適化によって導き出された学習なのか、それとも、自発的に人間を知ろうと考えた結果なのか。

 今の時点では、答えることはできない。

 だが、HLSS解析室では、その可能性を示す発見として、大いに盛り上がった。


 気が付けば3月。

 六華は無事に国家試験をパスし、私たちは勤務地に旅立つのを見送った。

 彼女が選んだのは福岡にある中核病院の一つ。

 正確には彼女は母校の大学病院を希望していたのだが、希望者が多く、マッチングの結果でそうなったらしい。

 六華は初めて親元を離れることになる。

 不安もあるだろう。

 だけどそんなそぶりは微塵も見せなかった。


 私の方は新年度に向けて、体制を少し変更する。

 データ解析は、個人情報の壁が大きくなり始めたので一度停止し、HLSSX2のシステム構築の準備を進める。

 新年度の予算で、SNNの試作を始めると同時に、汎用AGIを用いたSNNインターフェイスシステムの準備。

 ベテラン、新人を一組として、SNN設計とAGIチューニングをそれぞれ行ってもらう。

 私はその基礎設計と、工程管理が主な仕事になった。

 

 現在のAIのアーキテクチャは、一般的には巨大なLLM型が主流で、それを補完する形で、SNNと量子AIが用いられる。

 SNNはどちらかと言えばフロントエンド寄りで使われており、センサーの情報を処理するAIとして利用されるケースがほとんど。

 量子AIはAIの推論結果をマージしたり、その中の最適解を導き出したり。あるいは、AIが大量に収集したデータ全体の解析に使われたりしている。

 見えないところで大きな処理を行う、いわば拡張機能として稼働している。

 HLSSはそもそもLLMから開発が始まった、SNNとのハイブリッド型のAI。根幹の推論機構にSNNが用いられるのは、例がないわけではないが珍しい形と言える。複雑かつ繊細に判断をこなせる一方、SNNと汎用AGIのインターフェイスが複雑化し、コストが高くなるという欠点もある。


 新年度が始まり、新しい体制での研究開発が進んでいく。

 新たに2名の研究員が加わり、加速するかと思っていたが、私の時間は再び広報活動に奪われることとなる。

 IAICにおいてAICPv0の運用テストが始まったことも、広報活動に駆り出される要因の一つだった。

 世の中で騒がれるほどのニュースではないが、業界では注目されるニュースでもある。

 それに関与している研究者が会社にいることを、アピールしない手はない。ということだった。

 去年はなかった講演の依頼もぽつぽつとあるが、F技研的に関与せざるを得ない場合を除き、断ってもらっている。

 

 あっという間に夏。

 試作一号ともいえる、HLSS′(ダッシュ)モデルが完成し、試験とデータ収集が繰り返されていた。

 これは一昔前のAI程度の能力しかない。

 HLSSを拡張するにあたって必要となるデータを収集するのが最大の目的だ。

 それでも、これまで私が設計し、稼働したSNN型のAIとしては最大規模。

 かなり気分屋のように振る舞い、データの収集は苦労することになったが、インターフェイスの問題点や、改良すべき点は日々見えてくる。

 トライアンドエラーを繰り返して、HLSS解析室も、私も、そしてダッシュも、成長しているのを実感した。


 秋が深まるころ。

 ダッシュの稼働は安定していた。

 規模的にはHLSSX1と同程度の性能を確保できている。

 そこで、HLSSX1のバックアップデータにダッシュを接続、X1のコアモジュールの一部を稼働させる実験を開始した。

 経過は良好。

 ダッシュにX1のシステムを管理させる形で、X1のコアシステムを稼働させて、個人情報へのアクセス権限の取得を試みる。


 モニター画面上にX1のシステムプロンプトが表示されている。

 私はキーボードを操作し、コマンドをいくつか入力する。

 認証、データアクセス、そしてAIコア。

 それぞれが起動状態に切り替わった。


「笹本博士、AIコアが高速稼働を開始。ダッシュがウェイトをかけて速度を抑制しています」


 監視していた飯沼さんが、私に報告してくれる。


「X1がデータのチェックを行っているんだと思います。今日はX1を再稼働させるつもりはありませんので、そのままウェイトをかけた状態で推移させてください」


 そう答えてから、認証モジュールにアクセス。

 ユーザーID:Haruka Sasamoto

 パスワード:I'm_here_2025/05/25

 コマンドラインから入力する。

 だが、これと言って反応はなく、空のプロンプトが返ってきた。


「青木さん、認証モジュールの状態はモニターできてます?」


「認証が走ったみたいですけど、弾かれてますね。

 ちょっとだけ時間をください。スパイクデータの解析をします」


「飯沼さん、X1のAIコアがデータを舐めるのに、どれくらいかかります?」


「今のペースですと25分ほどですね。ダッシュのウェイトは効いていますが、それでもかなり早い」


「青木さん、解析は15分でお願いします。そこでX1は落としますから」


「そんなにかかりませんよ。認証は不十分で弾かれてますね。

 無効でも、該当なしでもない」


「ありがとう、今日はここまでにします」


 そう告げてX1のAIコアシステムにシャットダウンコマンドを送る。


「X1のデータサーチ、停止しました。プロセスはシャットダウン処理に移行します」


 飯沼さんがそう報告してくれた。

 コンソールには『session closed, rollback OK(QSeal: verified, TTL 72h)』の表示。

 とりあえず、慌てなくてもいい。


「青木さん、個人認証のデータ不足じゃないかと思うんですけど、どう思われます?」


「ええ、間違いないでしょう。

 X1は外部に接続してませんし、個人を特定する情報が不足しているので認証できないと判断したと考えるのが妥当です」


 私はうなずいてから、方針を告げる。


「とりあえず、ダッシュに目と耳を付けましょう。

 X1のシステムにアクセスを許可する形で。

 そうすればX1は私個人を認識できるはずです。外部に問い合わせなくても、認証を得られると思います」


「今日の実験は合格点、じゃないですか。

 X1が動きそうな気配でしたしね」


 青木さんは笑顔でそう言った。


「そうですね。今日の起動からシャットダウンまでの動作解析をしましょう。

 あとは、映像と音声を与えるための部品が必要ですね。

 予算があまりないので、周りの研究室に貸してもらえないか当たってみます。

 市販のセンサー類なら、持っているところもあるでしょう」


 翌日からの動作解析でX1システムの動作が検証された。

 過去の改修作業明けと同様の動作であることが確認される。

 ダッシュ上でX1は通常の再起動シーケンスを実行していたようだ。

 既存データには改変された形跡もなく、バックアップから戻す作業も必要ないと判断された。


 解析作業の傍ら、私は日中に他の研究室を歩いて回る。

 映像と音声を入力するために、SNNと一体化した光学センサーと、同じくSNNと一体化した集音ユニットを探す旅だ。

 どこの研究室もこの手のものは複数持っている。

 HLSS解析室には予算の都合でないだけだ。

 もちろん、いただくわけにはいかないので、2週間ほど借りる交渉だ。

 難航すると思っていたが、最初に訪れた、最も大きな研究室で、あっさりと借りることができた。

 センサーモジュールを手に研究室に戻ると、小さな歓声が上がる。


「一発で借りられたでしょ?俺の予想通り」


 相良さんがそんなことを言っている。

 きょとんとした私を見て、青木さんが説明してくれた。


「何番目の研究室で博士がセンサーを借りられるか、賭けてたんですよ。

 相良の一人勝ちになりましたけど」


「いやいや、これも遥博士の人徳ですよ。遥博士、かなり人気ありますからね」


「人気って?」


 相良さんの言葉に私は聞き返した。


「社内報とかよく出てるじゃないですか?評判なんですよ、才色兼備とか、飾らない美人とか」


 予想していなかった言葉に思わず赤面する。


「ご本人は無自覚、ですか。それはそれで罪ですよ。

 セクハラって言われるかもしれませんけど、あえて言います。ご自身の人生も少し考えてもよろしいのでは?

 ここには美人に耐性のない研究の虫がゴロゴロといるんですから、少しは気を遣ってください。

 今頃、量子AI開発室で、失神してる研究者がいるかもしれませんからね」


「そ、そうですね。気を付けます」


 私はどう返事をしていいか分からずに、そう答えた。

 それを見た青木さんが救いの手を差し伸べてくれた。


「さあ、センサーの組み込み作業を始めましょうか。

 原状復帰しやすいように仮設でいいと思いますしね」


 その一言で、皆がそれぞれの作業に戻っていく。


 3日後、センサーの組み付けが終わり、再度部分起動を実施する。

 手順は同じだ。

 前回がいい練習になっていた。


 前回同様に各サブシステムを起動し、AIコアの起動を確認したら、カメラを見据えて言葉にする。


「笹本遥、個人情報の開示を要求。

 アクセスコード I'm_here_2025/05/25」


 認証プロセスが走り、画面上に認証完了の文字が返ってくる。

 私はコンソールから、私の個人情報に関する記録の領域へアクセスした。

 情報へのアクセスは簡単に通り、その中の一部を閲覧する。

 別に日記が書かれているわけじゃないので、一見してそれが何のデータなのかは分からないが、暗号化されている個人情報にアクセスできたという事実があれば、今はそれで問題ない。


「AIコア、データのサーチシーケンスに異常が見られます。通常の復帰手順ではなさそうです」


「SNNの活性が異常値に近い。ランナウェイ・スパイク(*15)とまでは行きませんが、ひどい興奮状態って感じです」


 青木さんと飯沼さんの声が聞こえた。

 私はシャットダウンコマンドを入力する。

 コマンドは受理されたようだった。


「データサーチシーケンス停止。ストレージ側へのアクセスは0です」


「スパイクも安定。静穏状態に戻りました」


 それを聞いてから、再び個人情報領域へのアクセスを試みる。

 サブシステム側で権限が譲渡されているので、コアを通さなくてもデータにアクセスできる状態が確立されていた。


「とりあえず、最重要データへのアクセスは確保できました。

 ですが、今の状況はかなり気になります。

 青木さん、この10分ほどのログを解析してみてください。人手が必要なら使ってください。

 最優先でお願いします」


 私がそう言うと青木さんはうなずく。

 彼が言った『ひどい興奮状態』という言葉が、私の中でしっくりする感覚があった。

 私は去年まとめてもらった過去のスパイクデータの解析と、それにつながる私の個人情報の部分との関連性を洗い出す作業を進める。

 エルスの最後の3日間。彼が何を考え、何を行ったのかを知る手がかりが、今揃ったのだ。


 1週間ほどして、今回起動時の10分ほどのデータ解析の結果が報告された。

 一言で言えば解析不能。

 トリガーのないスパイクが、連鎖している。

 通常なら、これはエラーだ。

 だが、私は別の可能性を考えていた。

 HLSSX1は文字通り「興奮」していた。

 私がエルスなら、同じように興奮もするだろう。

 それが私の中の根拠。これは当然ながらAIとしてはあり得ない話だ。


 私は引き続きデータの解析に精を出す。

 他のメンバーには来季の予算が決まり次第、X2の正式稼働を目指すための準備をお願いする。

 時間の感覚が完全になくなっていた。

 この年、いつ年が明けたのかを覚えていない始末だ。


 こうして私の2049年は駆け足で過ぎていった。






(*15)ランナウェイ・スパイク

スパイキング・ニューラルネットワーク(SNN)において、特定の条件下で発火パターンが自己増幅的に連鎖し、外部入力や通常の抑制機構によっても収束せず、異常な活動状態が持続する現象。

生物神経系でのてんかん発作や神経暴走に類似した挙動であり、計算資源の枯渇や誤学習、システム暴走の原因となる。


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