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ハルカミライ  作者: 神崎 真
1/8

1:パスポート


この物語は、前作『未来は君と共に』の続編です。

単独でもお読みいただけますが、登場人物や固有用語については、前作を読まれていない場合、理解しづらい部分があります。


また、前作とは作風が大きく異なります。これは意図的な演出ですので、ご了承ください。


本作はフィクションです。実在の団体・企業名が登場しますが、事実関係や提携等を示すものではなく、特定の団体・企業の評価や信用を害する意図はありません。




 「それじゃ母さん、行ってくるね」


 「気を付けて行ってらっしゃい」


 短い会話を交わして遥は家を出た。

 家の前に停車している無人タクシーに荷物を積んで、座席に座る。


「ドアが閉まります、ご注意ください。走行中は常時シートベルトの着用が義務付けられていますので、着用をお願いします」


 アナウンスが流れてドアが閉まる。

 そして静かに走り出した。


 タクシーは大通りに出て、都市管制システムの制御下に入ると、目の前のディスプレイに目的地まで12分と表示される。

 私は緊張した面持ちで前方を見ていた。

 これから人生一番の大勝負に向かう。


―ここまでは予定通り。この先も予定通りに進むといいな―


 そんなことを思い、目を瞑った。





 高校卒業して遥は旧国立の総合大学の工学系学科に進んだ。

 六華も無事に医学部に進学。

 彩佳はプロチームのスカウトに声をかけられて最後まで悩んだようだが、大学の体育学部に進んだ。

 スポーツ選手の寿命は長くはない、だからせめてその先を考えてからプロに進んで欲しいという両親の希望が決め手となったようだ。


 遥は入試で好成績だったので、教養課程免除の資格を得た。

 他の誰も持っていない、チートと呼べる参考書を手にしていた遥にとっては、当然のことだった。

 だが、いざ入学してみると、予想していなかった事態に直面した。


 遥は工学群情報工学科、人工知能専攻だったのだが、教授陣の教える内容は遥からすると”古い”ものだった。

 基礎であることは理解できるけど、現実の社会に即しているとは思えないし、最先端からは1/4世紀遅れている。

 最初の一年の授業は比較的退屈だった。

 もう一つ予想外だったのは、教養課程免除とは名ばかりで、定期考査は必要だった。単に授業に出なくてもいいというだけ。

 短答式の筆記試験は問題が無かったが、レポートは苦戦する結果となった。担当教授の嗜好が強く反映されるので、授業を受けていないと圧倒的に不利だ。

 結果として単位は取得したものの、成績優秀とはならなかった。あとで聞いた話だが、教養課程免除あるある、なのだそうだ。

 だから大学を出て一般企業への就職を考えている学生は、あえて免除を利用しない人も多いと聞いた。

 遥の場合は、成績よりも早く研究につくことを目的としていたので、一般教養は単位が取れればいいと割り切った。


 専門課程2年目に入ると、そこで学ぶ内容はより実践的なものになる。

 最先端とは言わないが、現在普通に利用されているAIに関する学習が中心となる。

 遥はある程度の知識があると自信を持っていたが、実際に学ぶべきことは非常に多かった。

 知識として理解しているつもりでも、その一歩手前、基礎となる考え方やそれを支える前提技術などに関して、十分に知っているとは言えなかったのだ。


「まさに人生の味よね」


 そんな独り言をよく口にした。

 技術の在り様として、使う側は技術そのものを理解する必要はない。難しく考えなくても使えるのが技術の在り様として正しい。

 だが、遥はそれを作る側だ。使う側の知識では当然ながら不足なのだ。

 無事に2年で卒業し、そのまま大学院へと進む。

 大学院の研究室では、多忙を極めることとなった。

 修士課程も短縮できればと思っていたが2年きっちり必要だった。その後博士課程へと進む。

 大学院は専門課程の延長ではなく、研究機関の要素が色濃かった。

 教授の研究テーマをサポートしつつ、学生たちとの議論も熱のこもったものとなった。

 それぞれが研究テーマを抱えているので、同僚という感覚が強い。

 所属した研究室の教授は田崎教授という初老の先生だったのだが、少し変わった人だった。

 理系の研究者というよりも文系寄りの感じがする人で、AIの研究者として、技術的側面よりも倫理や哲学的な側面を重視する傾向があるのも、そう感じる要因かもしれない。

 遥にとってはこれは幸運であった。

 彼女の最大の研究テーマは人間とAIの共存。田崎教授の研究と親和性が高く、教授も遥の研究の方向性に理解を示してくれていた。


「SNN(*1)は人間の脳を超えることができるか」


 2044年の現在でも、少しSF的な響きを持つこの命題が田崎教授の研究テーマだった。

 遥は田崎教授の着目点が、自分とは次元の異なる点にあるのを感じたことがあった。そしてそれが遥の計画を少し変更させることになる。


「笹本君、君の研究テーマは『AIと人間の共存』という、現在のAI研究のフィールドでは若干異質に思えるものだが……なぜそれを考察したいと思ったのか教えてもらっても良いかね?」


「田崎先生、私はAIの能力が人間をすでに超えることができると考えています。ですので、近い将来に起こり得るAIと人間の衝突を回避し、より建設的な未来を作るのに活かす方法論を考えたいと思っています」


「なるほど、倫理や哲学的に踏み込んだ発想だね。AIの研究と言えば確かにそうだが……学界では明らかに異端だと思うよ。もし博士号を取ることを考えているなら、もう少し現実的なテーマに変更した方が良くないか?」


 遥は少しカチンとしながら、彼の意図を理解した。この研究テーマは学術的に評価されない可能性が高いと指摘してくれているのだ。


「ご指摘ありがとうございます。お言葉を返すようですが、現時点では私以外には模索できないことだと思っています」


「ほう、断言するね。その根拠を聞かせてもらえるかな?」


「はい。少々企業の守秘義務に触れる内容かと思いますので、ご配慮をお願いします。

 私の両親は企業でAIの技術開発を行っております。母は第一線を引退していますが。

 私はAIと共に育った現時点で唯一の開発者であると自任しています。

 根拠と言われますと、推測でしかないのですが、私と共に育ったAIの停止直前の挙動が、AIを学べば学ぶほど、常識とは異なっているのです。

 私はある種の感情、もしくはそれに類するものを知覚していたのではないかと考えています」


「面白いね。そうか、なるほど、一つ線が繋がったよ。君は笹本夫妻の娘さんなんだね。HLSS(*2)の研究に被験者として携わっていたのか」


「先生は、両親やエル…HLSSのことをご存じなのですか?」


「おや、君はHLSSに関する公表された資料や論文を見ていないのか?」


 私は言葉に詰まった。正直に白状すると、存在すら知らなかったからだ。


「なるほど、確かに近くで携わっていたのであれば、調べようとは思わないかもしれない。まあそれはいい。君の研究は君の実体験に基づく訳だね」


「はい。おっしゃる通りです。データを示してご説明はできませんが、少なくとも私がAIの研究者になろうとしているのは、HLSSの影響であると言えます」


「AIが意図的に人の人生に関与した、と?」


「その可能性は高いと考えています。現に今の私がこの場にいることが、私にとっての最大の証明でもありますから」


「ほう。非常に興味深いね。君がテーマとして共存を挙げる理由は少し理解できた。

 だが、それでも研究者として進むなら、その研究はやはり博士号を取得した後の方が良いだろう、と思うよ」


「それは、仮に論文を出したとして、評価はされない、ということをおっしゃっているのでしょうか?」


 遥は核心の質問をした。

 田崎教授は自分の顎に手をやって、少し考えたようだったが、答え始めた。


「私の実体験からの忠告だよ。私の研究は表立ってはSNNコンピューティングが人間を超えることが可能か、という内容だが、一般受けはよろしくない。

 私も君と同様に現在の水準のAIでも人間の脳を超えている可能性があると考えているよ。

 だから厳密には、私の研究は『人間の脳を超えたAIを証明する方法』の研究なんだ。

 まあ私の話はともかく、AIの行く末は気になるところだし、社会の在り様や明確なルールは必要だろうと考える。

 そういう観点から君の研究には賛成する。だが、博士号論文としては賛成しかねる。倫理的に正しくても、科学的に正しいことを証明できない」


 遥は田崎教授の言っていることが理解できた。

 教授の研究は『ロマン』ではなく、とても高度に技術的であり、科学的でもある。

 SNN型のAIが従来とは全く異なる理論を考えついたとして、それを証明する方法が存在しない。

 概念が存在しないことをその場で数式化、言語化はできないので、必然的にエラーとして処理されてしまう。なかったことになってしまうのだ。

 教授はそこにSNNの最大の演算結果が含まれている可能性を示唆している。

 それでも教授が自分の研究がメインストリームではないと言い、私の研究は必要で評価はできるが、博士号を取得する論文としては向いていないと、はっきり言っている。これが現在のAIの開発状況の一端を端的に示すものであると遥は感じていた。


「お心遣いありがとうございます。教授がおっしゃっていることは正しいと思います。ですが、少し考える時間をください」


「もちろん、じっくりと考えなさい。繰り返すようだが、私は『共存』を模索するなら、Ph.D(*3)を取得した後の方が良いと思うよ」


 遥は家に戻って母に相談してみようと思っていた。

 この時点でひそかな計画が進んでいたからである。


 研究室から家に帰り、早速母親に今日の出来事を相談した。


「……という訳でさ、博士号論文、「共存」のテーマは使わない方がいいって忠告されちゃった」


「指導担当って、田崎教授でしょ?面識こそないけど、AI界隈では割と有名な方よ?「変わってる」って評価だけど。

 そういう意味では『AIと人間の共存』ってテーマは拾ってくれると思ったんだけど」


 アンジェリカはテーブルのPCを閉じて、意外そうに言った。会社を辞めた後、彼女は自宅でもできる小規模AIの活用についての研究を続けている。

 なによりも遥の善きアドバイザーであった。


「うん、内容的には評価してくれていると思うよ、方向性も間違っていないと思う。だけど、受けが良くないって」


「学内の論文審査か。理工系学部だから、確かにそうかもしれないわね」


「そこで考えたんだけど、それなら『こっち』と一挙両得を狙ったらどうかな、って。ラストオーサー(*4)になってもらって」


「まあ、博士号論文を雑誌掲載ってのは方法論としては昔からあるけど、相手はあの有名誌よ?

 前例が無い訳じゃないけど、難易度高くならない?」


「無名の研究者でも、学生でも、可能性は変わらないと思う。むしろ担当教授が連名した方が審査通る可能性高いかな、って思うくらい」


 アンジェリカは少し考えてから遥に言った。


「あとは田崎教授の人柄かしらね。海外でもいるけど、日本って教え子の研究を妬むケースって多いって聞くわよ?」


「そこは……わからないけど、共著者に母さんの名前があるし、大丈夫じゃないかと思うけどな……」


 遥は断言できるほど田崎教授の事を知らない。だが、すぐに思い直して言った。


「こっちはすでにほぼ仕上がってるから、了承をもらえたらすぐに打診をできる状態にして、お願いしてみようと思う。

 ラストオーサーを断られたら、教授の名前抜きで、送っちゃおうと思うけど、どう思う」


「まあ、それもありと言えばアリね。博士号論文に使い回しできなくても、掲載の運びになれば、ポイントは稼げるし。

 それに、相手が相手だからね。一発で行くとも限らない。だったら早い方がいいかもね」


「うん、そうしよう。何事も当たって砕けろだよね」


 結論に至るのは早かった。

 悩む前にやってみよう。考えて、やってみて、失敗したら次を考える。

 遥のポリシーだ。


「諦めが悪いのは、私の美点だから」


 遥はアンジェリカに向かってそう言った。


 遥は大学に入学と同時にAIの協業に関する論文の用意を始めていた。

 アイデア勝負の要素が大きく、正直言えばこの発想が現時点で存在しないことがおかしいくらいだと思う。

 であるならば一刻を争う。

 現状の通信プロトコルの理解から始めて、4年ちょっとで完成までもう一息にたどり着いていた。

 基本は既存の技術の良い所取り。

 だけど、応用の方法としては理に適っているし、今は初案を提示するのが最優先だと思った。

 元の計画では博士号を取得後に、学術誌に寄稿する予定だった。その方が取り上げられる可能性が高いと考えていたからだ。

 しかし、先行して学術誌掲載し、それを博士号論文に転用する。実績付きで、最短で博士号を取得するために計画を変更することにした。

 この方が公表が早いし、別に論文を書かずに済む一石二鳥の最短コース。

 その日から遥は、論文の完成に、全力を注いだ。

 資料は揃っているし、プロトコルの基礎構造も完成している。

 一部専門家でないと、確定はできない要件も存在するが、調べた範囲では問題ないはず。

 論文そのものも8割以上完成しているので、残りはすぐに書けた。


 遥はAIを使用して、論説構造の確認と校正を行って、アンジェリカに渡す。

 アンジェリカは30分ほどで目を通し終わると、OKを出した。


「内容的に完璧。過程を見てなかったら遥が作ったって言っても、信じられないレベルよ」


「ちょっと、母さん、どういう意味よ?」


「論理に破綻が無く実用的だから。ちょっと前まで遥は感情の振れがもっと大きかったように感じたのよ。

 毎日見ているから気がつかないけど、ちゃんと大人になってるのよね。ねえ、そろそろ彼氏の一人もできないの?紹介してくれても良いころだと思うんだけどな」


「さすがにそれは無理。どれだけ忙しくしてたかは、母さんも知ってるでしょ?」


 遥は笑いながら答えた。

 そりゃ彼氏の一人くらい欲しいと思わないわけじゃない。だけど、私は夢があってそれを実現させたい。

 声に出さずそう思った。


「まあ、急ぐこともないか。私もその昔はアニオタで、気がついたら研究者になってたから。人のことは言えないし」


「母さん、アニオタだったんだ……」




 翌日、田崎教授に時間を作ってもらい、論文としての体裁を整えた『AI協業のための基盤プロトコルの提案』に目を通してもらう。


「いい着眼点だね。AIはまだ競争の時代で協業の時代に入っていない。今のタイミングでこの提言を行うのは社会的意義が大きい。技術的にも今のもので実用可能…すぐにでも使える」


「ありがとうございます。これは科学誌掲載を目指して作成したもので、当初は博士号取得後に公表を目指していました。

 先日、先生にご指摘をいただきましたので、これを博士号論文として、最終的に使いたいと思っています。

 その前に、International Journal in the Natural Sciences(*5)に寄稿したいと考えています。

 つきましてはシニア著者として、先生にご協力いただけたらと思い、お願いに上がった次第です」


「IJNS誌か、なるほど。博士取得要件としても申し分ない。この内容だったら掲載の可能性は十分にあり得る。だが……

 私は全くと言っていい程、この論文には関与していない。私が名前を入れることで、君たちの権利が損なわれる可能性があるわけだが」


「その点はお気遣い無用です。私も母も、これは公共に資すると考えていますので、筆頭著者に名前があれば十分と考えています」


「そうか、それならば、私に異論はないよ。IJNS誌のリポジトリ公開は出版後6か月だったか。掲載まで多少時間がかかっても、君の博士号取得の時期としては早いくらいだな」


「ありがとうございます。で、もう一つご相談があるのですが」


「ん、なにかな?」


「はい。IJNS誌に事前打診は済ませていますので、これからすぐに本文を送りたいと思っています。それと同時に、この設計書を足したものをIAIC(*6)に提案書として送ろうと考えています。もちろん、IJNS誌にて査読中とコメントを入れますが」


「論文でも触れられているし、現実的にIAICの関与は必須だろう。正式に策定するとなるとIAICが中心になる。うちの大学も協力機関だし、その方がいいだろう」


 教授はそう言って、遥が差し出したプロトコルの詳細なブループリント(*7)に目を通している。


「必要な要素は網羅されているね。なるほど、既存の通信プロトコルの拡張イメージで、事前にコストまで含めたネゴシエーションを行うのか。

 ただ働きさせないのは、企業の協力を得るうえで重要だし現実味がある、というか、明日からでも使えるレベルだね」


「はい、技術的に目新しいものはありません。負荷が一番大きいのがIAICだと思いますが、これくらいはしてくれると思います。あとは稼働中のAIのフロントエンドに、ネゴを行う部分を追加させるだけですから、実装も容易です。即応性を求めるミッションには応答性を考えると使えませんが、専門家の知見が欲しい場合は、即応性よりも正確性や違う視点を求めるケースが多いでしょう。従来のインフラ上で十分だと考えました」


「いいね。独立したデータ設計だから、通信基盤が何であろうと影響を受けないし、実現すればAI同士の交流が盛んになりそうだ」


「そして、これが拡張用のプロトコル案になります。SNNの解析を行うためのデータフォーマットとそれを交換するための手順です。ただし、容量が大きいので、通信がもう少し高速化したら実用できる感じです」


「驚いたね……SNNで検出された解析不能を他のSNNを使って解析させるのか」


「はい、SNNの場合は量産されたモデルではない限り、個別に変換層がなければ意味を成しません。ですから、そこはそれぞれに任せるとして、既存のデータで渡す方法を考えました。行き着いたのが、人間の解析と同じ手法です。AGI(*8)に渡せる形で、スパイククラスターマップ、スパイクヒートマップ、アクティベーション経路グラフ、動的アトラクタ軌道、スパイク相関マトリクスを用意することを推奨しています(*9)。あとは入力に関する情報。スパイクの起点となった情報が何であるのか。これだけあれば、入力に対する自分の結果と、不明な内容の結果を比較できます。おそらくは解析不能、エラーになるでしょうが、それで良いと思っています。エラーが起きたことがどこかに残っていることが一番大事だと考えていますから」


「まあ、その情報を提示してしまうと、SNNの設計が見えてしまうから競合する企業間では使われないだろう」


「ええ、それで良いと思っています。見方を変えれば研究機関内、企業内で違うSNNを連携させる可能性は十分にあると思いますから」


「確信犯なのか。なるほどな。エラーをエラーで終わらせない仕組みを用意する、と」


「同じパターンを与えて、同じか非常に近い結果が繰り返される。これはエラーではなく既存の概念などでは理解できないことを示唆していると思います。

 AIがおかしいのではなくて、人間が理解できないだけの可能性を含んでいます」


「そうだね。その時にエラーを起こしたログが正確に残っていれば、後に検証のしようもある」


 その後もAIの協業がもたらす可能性を教授と話し合った。

 研究者の議論ではなく、自由な発想による同人の会話のノリだ。


「将来的にはネットワークそのものがSNNのように機能するかもしれませんね」


「それはまだ大分先の話だよ。でも、だからこそ大切な話だとも思う。研究者が夢を語れないようだと、新しい技術は生まれないからね」


 それは遥にとって、とても印象的な言葉だった。




 それから論文の最終確認を教授にお願いし、遥とアンジェリカは最終稿のチェックを行う。

 全員の了解を確認してから、本文の送付、IAICへの提案書の送付を完了させた。

 既に夏の到来を感じる、6月初旬だった。


 それからひと月。

 アンジェリカはその日、午前中に洗濯と掃除を終わらせてから軽めの昼食を取って、執筆中の『SNN型AIの玩具実装のメリットと注意点』という論文に取り掛かろうとしていた。

 ブレスレット型携帯が重要度【最優先】のメールが着信したことを通知してくる。耳に付けている小型ヘッドセットからアームを伸ばし頬の下で固定した。

 視界に、ぴたりと情報が貼り付く。目だけを動かし、差出人の名前にフォーカスすると、そこから先の文面が自動で展開された。


「Wow. Haruka… You did it!」


 自然とアンジェリカの口から零れ落ちた。

 ふう、と大きく息を吐き、スマホの画面を操作して遥を呼び出した。


 遥は学食で研究室の同僚と話をしていた。

 イヤクリップスタイルのヘッドセットが振動し着信を知らせたので、腕時計を見て文字盤をV字になぞる。


「母さんどうしたの?何か用事?」


「遥、おめでとう。正式受理のメールが来たのよ。IJNSへの掲載が決まったのよ」


「…マジ?」


「マジもマジ!」


「……」


「遥?どうしたの、大丈夫??」


「あ、うん。大丈夫。載せるつもりで頑張ったんだけどさ。なんか、急に気が抜けて」


「ショック症状みたいなものね。少し動かない方がいいわよ?つまずいたり転んだりするから。少しゆっくりして、噛み締めなさい」


 周囲の同僚達が遥に「どうしたの?大丈夫?」と声をかけてくれたが、放心状態の遥には聞こえていなかった。

 しばらくして同僚たちは「先に行くね?」と言いながら食堂を後にしていく。

 一人残された遥は、ゆっくりと立ち上がり、トイレへと向かった。

 個室に入って扉を閉める。


「YES!! I did it!」


 少し大きな声で言ってガッツポーズ。

 そして天井を見上げてから、静かに言った。


「エルス、これで君に一歩近づけそうだよ」


 その頬を涙が伝っていた。




 IJNS誌への掲載は周囲に大きな驚きをもって迎えられた。

 ちょっとしたニュースになって大学も学部も静かに大騒ぎな状態となった。

 大学は大学の成果として大々的に宣伝したかったようで、いくつかの新聞やニュース番組、科学誌などのインタビューが行われた。

 ある程度は予想していたが、目立つことも騒がれることも遥にとっては面倒なことでしかなかった。


「そりゃ、騒ぎになるかもって思わないではなかったけど、なんだかなー」


 遥はAIの研究を行いたい。そう思ったからこの論文を書いた。

 協業プロトコルを考えたのは、社会的インパクトがあって、有名誌でも取り上げられる可能性が高いと思ったからだ。

 現状、AIの開発は、いまだ個々の性能競争の時代を抜けていない。だからこそAIのコミュニケーションはいわば『灯台元暗し』の状態。

 はっきり言って自分が考案したシステムというよりも、ありものをうまく組み合わせて運用ルールを作ったに過ぎない。

 狙いは当たったのだが、周りからもてはやされると、少し他人事のように感じた。


『プレ・シンギュラリティ(*10)時代におけるAIサーバー間協業のための基盤的プロトコルの提案』


 論文のタイトルが少し独り歩きしてる気がする。

 大体、取り上げられ方がそもそも間違っている。


『若干23歳の天才AI研究者』


 誰のことよ。


『両親もAI研究の第一人者、まさにサラブレッド』


 そりゃ母さんには手伝ってもらったけど、父さんは全く関係がないんだから。


 せめて内容に踏み込んでくれればそれなりに救われたのかもしれないが、ゴシップ寄りの記事は遥にとっては鬱陶しいだけだった。

 それ程一般的に知られた訳ではないし、知らない人に声をかけられたりすることもないが、自分に関する記事が世の中に存在すること自体が、遥にとっては不快なものだった。


 遥はベッドに横たわり、天井を眺めていた。

 ふーっと一つ大きく息を吐く。

 ヘッドセットのアームを伸ばし頬に固定してから、空中を操作して電話をかけた。

 2回コールすると、電話がつながる。


 六華の顔が画面に映った。続けて彩佳の顔も画面に映る。


「遥、3分遅刻だぞー」


「ごめん、このところバタバタでさ。想定外で疲れ気味ー」


「一躍有名人になっちゃったもんね。二人ともすごいよね」


 彩佳の笑顔が心を軽くしてくれ、六華の声が心にしみてくるのを遥は感じていた。


「ゴメン、学術的分野って私には全く分からないから。ノーベル賞程じゃないんだろ?」


「うん、さすがに比較の対象外だよ」


「でもさ、将来のノーベル賞候補、なんて記事も見たよ?」


 六華の言葉が少し痛い。


「うーん、なんだかねぇ。なーんの実績もないのにね。そんな事言われてもなーって感じだよ」


「あー遥だいぶ参ってんだろ?それわかるわ。私も大学の時さ、日本代表候補の合宿に呼ばれただけで『期待の新星現る』とか雑誌に載ってさ。

 正直参ったもん」


「そっか、遥ゴメン、あたしデリカシー足りなかった」


「ああ、六華気にしないで。まあ、参っているというか、なんだかねーって感じなの。記事を目にすると、誰これ?って思うもん」


「なんか、有名人同士の会話だ。私みたいな一般人は場違いな気がするよ」


「六華、断言するけど、生涯の社会貢献度は、六華が一番だから」


「うんうん、言えてるね。私は無事に普通の研究者になって、お祭り騒ぎはなくなるしね。六華は直接人を助ける仕事だからね」


「なんか、自分で言ってて少し寂しくなってきた。引退したら私何するんだろう?」


「引退を考えるの早すぎ!おばあちゃんになってもバスケしてればいいじゃん!それにどこかでコーチって言うのも悪くないと思うし。

 あ、でも正直言って彩佳が『先生』してるとこ、想像できない」


「六華それ酷くない?今日は私を貶める会なの??」


 笑顔で彩佳がそう言うと、遥も六華も自然に笑った。


「ま、インパクトがあるのは事実だろうから、仕方ないよ。でも、本当にIJNSに論文出しちゃったんだね。有言実行ってすごいなって思う。

 正直に言うと、絶対に無理って私思ってたから」


「私も論文がどうのって言われても分からないけど、遥が腹黒いってのはわかる」


「腹黒いってなに?今度は私をネタにするつもり?そうはいかないんだから!」


 そんな感じで何でもない話を1時間くらい続けた。

 久しぶりに大笑いした気がする。


「ねえ、彩佳オリンピック目指すんでしょ?どんな感じなの?」


「当落線上かなぁ。バスケ好きなのは誰にも負けないつもりだし、努力も負けないけど…みんなそう思ってやってんだよね。

 だから自分よりも才能あるなって思う人見ると、正直嫉妬はするよ。

 でもさ、それでもやっぱバスケ好きだからさ。できるだけのことはやってみるよ」


「うん、彩佳らしいと思う。頑張れ!」


「うんうん、応援してるぞ、永遠のバスケ少女!」


「よっしゃ!ちょっと元気出てきた。これから走ってくる!」


「え、今から?」


「さすがにそんなわけないじゃん」


 高校卒業してから毎月一度こうして3人で「例会」と称して話をしてきた。

 何でもない日常の話を、ただおしゃべりする。

 遥はそれが何より心の栄養になっていると思っていた。

 何を気兼ねすることもなく、自然に笑顔になる時間。

 遥は自分が自分に戻る気がしていた。



 その二日後。

 IAICからの招待状が届いたのだった。



 大学では再びちょっとした騒ぎとなる。

 遥もまたちょっとした騒ぎになった。


「田崎先生、今回のIAICへの呼び出しの旅費って、経費で何とかなりませんか?」


 遥は大学進学してから、アルバイトをする余裕は一切なかった。

 最悪は両親に頼んで旅費を捻出することも考えてはいたが、順序としてはやはり研究室か大学を頼るべきと考えていた。


「名誉なことだからね、研究室から出してあげたいところだが、予算に余裕がない。私が大学と掛け合うよ。

 なに、一人分の旅費ぐらいなら、大学の広告費と思えば出してくれるだろう」


 こうして遥は単身スイスへ向かうことになった。





 強い減速を感じて目を開くと、タクシーは一番近いエアターミナルに到着した。

 車を降りて建物に入ると、スマホに案内が送られてくる。


―発着準備完了済み、出発まで15分。3FのDゲートにお越しください―


 私は足早に3階に向かい8人乗りのeVTOL(*11)に乗り込んだ。


「当機は羽田空港行きです。まもなく出発します。席にお座りの上、シートベルトの着用をお願いします」


 一定間隔で案内が流れている。無人運航の機体には遥の他に二人ほど乗客がいた。

 予約状況に合わせて自動的に運航する機体を変えるはずなので、あと二人は乗り込むのが予想できた。

 遥は最後尾にスーツケースを置いてから座席につく。

 するとビジネスマン風の三人組が乗り込んできた。

 彼らも出張だろう。スーツケースを後ろに置いている。


 程なく、ドアが閉じて、機体が乗ったプラットフォームが移動を始め、離陸位置まで移動する。


「当機は間もなく離陸します。多少揺れることがございますので、ご注意ください」


 ポーンポーンとチャイムが鳴り、eVTOLは離陸した。


「管制システム下にて正常飛行中。羽田到着予定は11時02分です」


 昔は地上を走る電車を使って1時間ちょっとかかったらしいが、今は直通で15分ほど。

 交通管制システムも、この機体の飛行制御にもAIの技術が使われている。

 世界にはすでにAIが浸透しているのだ。





(*1)SNN

Spiking Neural Network (スパイキング・ニューラル・ネットワーク)。ニューロモルフィック・コンピュータの基本技術。脳の神経細胞 (ニューロン)の発火パターンを模倣して情報処理を行う。


(*2)HLSS

正式名称:Human Life Support System X1。日本のF技研で開発された実験的特殊学習型AI。遥の両親が研究に関わっており、遥は幼少期からHLSSと共に過ごしている。


(*3)Ph.D

Doctor of Philosophy の略。博士号の敬称、あるいは博士号そのものを指す。


(*4)ラストオーサー

Last Author。論文の最後に名前が記載される責任著者(通常は研究室の責任者)。


(*5)IJNS誌

International Journal in the Natural Sciences。本作中に登場する架空の国際的自然科学系学術誌。現実世界の権威あるN誌をモデルにしている。

(*6)IAIC

International Artificial Intelligence Consortium(国際人工知能コンソーシアム)。旧SC42(ISO)とGPAIが統合する形で2029年に設立。スイス・ジュネーブに拠点を持つAI審査機関。AIの標準化、信頼性、倫理的安全性を客観的に評価する。EU、日本をはじめ各国政府、国連、独立研究機関や大学が協力して運営。


(*7)ブループリント

青写真。設計図や計画書の意味。本作では通信プロトコルやシステム設計の詳細仕様書を指す。


(*8)AGI

Artificial General Intelligence(汎用人工知能)。特定分野に限らず人間と同等以上の汎用的知能を持つAI。現在のLLMは汎用型ではないが、その方向に拡張されている。


(*9)スパイククラスターマップ、スパイクヒートマップ、アクティベーション経路グラフ、動的アトラクタ軌道、スパイク相関マトリクス、など。

いずれもSNNの動作状況を比較検討するための資料。詳細は専門書を参照。


(*10)シンギュラリティ

技術的特異点。特にAIが自己改善を加速させ、人間の理解を超える知能に達する時点を指す。プレ・シンギュラリティは、その直前段階でAIが人間の知能に近づきつつある状態。


(*11)eVTOL

electric Vertical Take-Off and Landing aircraft(電動垂直離着陸機)。複数ローターを備えた短距離移動用機体。本作では水素タービンの小型発電機を搭載し、航続距離を延長。都市間や地域間の短距離航空路線に使用される。


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