⑬出発前夜 ~残された時間~
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「隊長、コーヒーが入りました」
村長の家から隣に二件離れた空き家を借りていたタイサは、リビングのテーブルに置かれた木製のコップに目を向ける。
「ああ、ありがとう。エコー」
タイサはソファーから立ち上がろうと右手を柔らかい背もたれに乗せる。一瞬、動きが不自然に止まるが、タイサはそのまま立ち上がると、エコーの用意したコップの取っ手に左の指を通した。
「ん? いつも飲んでいる豆とは違うか?」
「ええ、デル総長の奥様から分けてもらいました。王都貴族御用達の一品だそうです」
タイサがコップの角度を戻すと、エコーもようやくコーヒーに口をつけてタイサと同じ味を堪能する。
そして先にコップをテーブルに戻す。
「………右手は、大丈夫ですか?」
エコーの視線が、黒革で作られたタイサの右手袋に向けられる。
「動かす事はできる………が、なるべく細かい動きは左手でした方が良さそうだ」
コーヒーがまだ残るコップを静かに置くと、タイサは手袋の隙間から見えていた黒い皮膚を隠すように、手袋の端を伸ばした。
この集落に来た翌日、タイサはエコーにだけ自分の体に起きている異変を打ち明かした。彼女はゲンテの街での会話や仕草から、既に何かしらを察していたらしく、タイサの黒い皮膚を見ても、大きく驚く事はなかった。
そして彼女は自分だけに打ち明けたタイサの気持ちを胸中で受け取めつつ、自分の愛した男の最期が近い事に対して、静かにタイサを抱きしめた。
―――集落での生活から約六日。
タイサの右手は指先から手首までが、完全に黒く変色していた。特に戦いがあった訳でも、黒の剣を使用した訳でもなく、その黒はまるで日の出が沈み、影が街壁を支配していくかのように体を蝕んでいった。
「もう半袖も着れそうもないな」
タイサが鼻で笑う。
「そう思って長袖も用意してあります。この先しばらくは鎧を着るので大丈夫だと思いますが、寝間着には必要になると思います」
エコーは両手を合わせて音を鳴らすと、ソファーの近くにあった荷物の束から長袖を取り出し、わざわざタイサに見えるように広げて見せた。
「さすがは副長だ。用意がいい」
「ありがとうございます。できれば『俺の』を付けてくれると、もれなくお菓子が付きますが?」
エコーが広げた長袖を背中に隠すように手を組むと、笑顔でタイサの顔を覗く。
タイサは口を尖らせたまま視線を左右に動かすと、小さく咳払いしながらコーヒーを再び手に取った。
「欲しくありませんか? お菓子」
まるで水溜りを避けるようにエコーが左右に跳びながらタイサに近付き、意地の悪い笑みの顔をさらに近づけた。
「………まぁ、欲しいな」
タイサの視線がエコーの瞳と合う。
「じゃぁ、言って下さい。はい、3、2、1!」
エコーが指を立てる。
「さ、さすがは………俺の女だ」
タイサは口を小さく開けた。
「ぶぶー。駄目です五点です」
エコーはすぐさま不機嫌になり、頬を膨らませて顔を遠ざけると、腰に手を置く。
「何で俺の『女』になってるんですか?」
「え、あ、いや………そっちの方が副長よりも格上かと思ったんだが」
予想外にダメ出しをされたタイサが目を大きくして首を傾げる。
「時と場合によります。もっと劇的な状況であれば有効ですが、ここでは『俺の副長』の方が特別感が強いですね」
「………違いが分からん」
この集落に来てからというものの、エコーはタイサと二人きりになると、大胆な発言や行動が目立っていた。相変わらず奥手で鈍感なタイサは、常にエコーから責められる側で、しかしまんざらでもない顔立ちで毎日を過ごしていた。
「はい、言い直してください。3、2、1」
「ああ、さすがは俺の副長だ。いつもありがとう」
気押されたタイサの声は、やや棒読みであった。
「………まぁ、仕方ないでしょう」
溜息交じりで首を振るが、エコーの顔は赤くなっていた。
「今日のお菓子はケーキの土台部分ですね」
「………それはただのスポンジと言わないか?」
砂糖と卵、小麦粉を使っているので高級品である事には違いなかったが、期待していた物と異なる報酬に、タイサが困った顔で笑みを送る。
「贅沢言わないでください。クリームを作る暇がなかったので、この集落で取れたヤギのミルクをつけて食べてください」
エコーが皿の上に乗った黄色くて穴の開いたお菓子と共に、やや深みのある別の小皿に波揺れるミルクがテーブルに運ばれる。
「まぁ、ないよりかは………お、うまいな、これ」
タイサの顔が変わった。ミルクの濃厚な甘みと、それを吸い込んだスポンジが口の中で染み出し、やがて溶けていく。
「さすがは俺の副長だ!」
タイサは次々とお菓子をミルクに付けては口の中に入れていく。
「はいはい。あまり多用したら原点ですからね」
子どものようにお菓子を頬張るタイサを見ながら、エコーは満足そうに頷いた。
また忙しくなる。エコーは笑みの奥にこれから直面することに覚悟を決めつつあった。




