円徳寺 ラナ 20
「え? 来週、出発!?」
森野君の言葉に、驚いて声をあげた私。
「ああ。イギリスに、うちの会社が取引している会社があるんだ。そこの社長と俺の父が親友で、せっかくこっちにくるんなら仕事を見にきたらどうだって言われて……。早めに行って、その会社で仕事を学ばせてもらうことになった」
「すごい! 良かったね!」
そう言ったものの、急激に心細くなった。
森野君がいなくなったら、私の話を聞いてもらえる人が一人もいなくなる。
私は、心に芽生えた不安を笑顔で隠して言った。
「いい経験になるね!」
森野君は私の笑顔の真意を探るように見ながら、うなずいた。
「まあ、そうだけど……。でも、円徳寺……。本当に、このまま、あの家にいて大丈夫か?」
「うん。さっきも言ったけど、本当にルリは変わったから。ルリが変わって、みんなも変わったし。もう、大丈夫」
私の言葉に、森野君が一瞬ためらったものの、意を決したように口を開いた。
「もし、妹の記憶が戻って、妹が前の妹に戻ったらどうする?」
正直、考えないようにしているけれど、それが一番不安……。
記憶がないのは一時的なものだろうって、主治医の先生も言っていたし。
記憶をとりもどした時、完全に前のルリに戻ってしまうことは、おおいにあると思う。
そして、もし、そうなったら、私がどうすればいいかなんて何もわからない。
今のルリが消えて、前のルリが戻ってくるのは、正直、嫌だ。
でも、森野君に、今、そんなことを言って、余計な心配をかけられない。
これから、旅立つ森野君に、私なんかのことで、余計な心配をさせたくない。
私は、おおげさに微笑むと、できるだけ明るい声をだした。
「大丈夫だよ。仮に記憶が戻っても、今みたいな善良なルリもいるってことがわかったんだし。前みたいなルリには戻らないと思う。心配しないで」
森野君はため息をついた。
「円徳寺……。何年、友達してると思ってるんだ。そんな無理して笑うな。俺に気をつかうな。たとえ、俺がイギリスに行っても、遠慮せずに連絡をくれ。離れていても、困ったことがあれば、絶対に助けるから。一人で抱え込むなよ」
そう言うと、リュックの中から、なにやら封筒をだして、私のほうに、さしだしてきた。
「これ、なに?」
「円徳寺に渡しておく。あけてみて」
私は、促されるままに、厚みのない封筒を手に取り、中身をとりだした。
え、名刺……?
封筒の中には、うす緑色のカードに名前と携帯番号だけが書いてある、シンプルな名刺が一枚入っていた。
「森野……春……さん? ええと、名刺だよね? なんで、私に?」
とまどう私に、森野君が真剣な顔で言った。
「森野春は俺の叔母なんだ。職業は作家で、祖父から引き継いだ家で、一人暮らしをしているんだけど、敷地内に離れがあって、そこに数人、下宿させてるんだ。そこが、一部屋空いたらしい。叔母はおもしろい人で、下宿させる人は何かを目指して頑張っている人限定。そのかわり、下宿代は格安。もしお金がないのなら、庭仕事や家事などの労働でも可。それで、勝手に申し訳ないが、円徳寺のことを叔母に話した。そうしたら、いつでも受け入れるそうだ。だから、もし、円徳寺があの家をでたくなったら、そこの番号に電話して」
「え……? でも、もしそうなっても、私は何かを目指してがんばってるわけじゃない。下宿できないんじゃないの?」
私の言葉に、森野君が少し恥ずかしそうな顔をした。
「いや、円徳寺の場合は喜んで受け入れるって言ってた。いつも淡々とした俺がそこまで必死に心配する円徳寺に興味をひかれたみたいだ。小説のネタになりそうって、目を輝かせてた……。あ、でも、心配するな! 円徳寺を小説のネタにはさせない! 叔母も人が嫌がることを絶対にしない人だし。それに、いつもは、ひょうひょうとした叔母だけど、胆力のある人だから、頼りになる」
「なんか、すごい叔母様なんだね……」
「ああ。もし、円徳寺の母や妹が連れ戻そうとしても、絶対に追い返してくれる。本当は、今すぐにでも、移り住んでほしいくらいだが、無理なんだろう? だったら、これはお守りだ。もし、何かあったときに、すぐに逃げられる場所があれば、少しは安心かなと思って」
「うん、心強いよ! 私のために、ここまでしてくれて、本当にありがとう、森野君!」
「いや、これくらいしかできなくて……。だけど、円徳寺。何かあったときは、絶対に迷わず、遠慮なんかせず、すぐに連絡しろ。わかったか?」
必死に言い聞かせるように私に言う森野君。
その気持ちがうれしくて、じわっとしたものがこみあげた。
同時に、この名刺を使うことがありませんように。
そう心から祈った。




