ラナから花へ 8
逃げるように病院から立ち去り、猛然と駅に向かって歩き始めた私。
歩きながら、自分の心に言い聞かせる。
私はもうラナじゃない。花なんだから、お母様にどう思われようが平気。
そう思うのに、さっき聞いたばかりのお母様の言葉が、頭の中をぐるぐるとまわる。
何度も何度も繰り返されるその言葉が、私をラナに引き戻そうとする。
違う、私はラナじゃない! 私は花なの!
と、心の中で叫ぶ。
なのに、消えるどころか、私を試すように、子どもの頃から言われ続けてきた言葉までもが加わってきた。
常にルリを気にかけなさい。
常にルリを優先しなさい。
常にルリを大事にしなさい。
常にルリを守りなさい。
あなたはルリのためにもらわれてきたの。
あなたの役目は、ルリのために生きることよ。
ラナ、わかった?
お母様の有無を言わせない顔が、頭の中いっぱいにひろがった。
もらわれたばかりの、不安でいっぱいの小さな自分が、「はい」と返事をしそうになる。
その時だ。
スマホが振動しはじめて、はっとした。
森野君から電話だ……。
立ち止まって、電話にでた。
「おはよう、花」
聞こえてきた、森野君の声。
あたたかいその声で名前を呼ばれた瞬間、お母様の顔や声が、頭の中から、さーっと消えていく。
「あ……おはよう、森野君。今……電話をくれて、良かった。ありがとう……」
思わず、ほっとしてお礼を言った。
「花、何かあったのか?」
心配そうに聞いてくる森野君。
私は息を整えてから、答えた。
「さっき、ルリの荷物を届けに病院に行ってたんだけど、お母様がいて……。今度は直接言われたわけじゃないけど、時間が戻る前と同じようなことを言ってたのを聞いてしまったの……。そうしたら、色々、思い出してしまって……。自分は花だと思ってるし、花でいたいのに、ラナが戻ってこようとするのよね……。すっかり、混乱してたら、森野君から電話があって、花って呼んでくれた。だから、花に戻れることができた……。いいタイミングで電話をくれて、ありがとうね」
「花……。誰が何と言おうと、花は花だ。これからもずっと花だから。安心していいぞ。……花」
ことさら、ゆっくりと、私の心にしみわたるように、花とよびかけてくれた森野君。
その優しい呼びかけに、傷ついたラナの心が、あたたかい花の心へと上書きされていく。
「森野君、本当にありがとう……。もう、大丈夫だから」
「花。もし、また、不安になったら、俺に電話してくれ。いつだっていい。何度だって、花が安心するまで、花って呼ぶからな。……それで、花は、今、どこにいるんだ?」
「今ね、病院から駅に向かって歩いてる。そのまま大学に向かうつもり」
「そうか。……今、外は風が強くないか?」
と、森野君が聞いてきた。
「え、風……? あ、そういえば、前に進まないと思ったら、さっきから向かい風がふきつけてくる」
さっきまで、全く外のことに気がむいていなかったから、風が強いことにも気がつかなかった。
「なら、ちょうどよかった。その風が、自分の体をとおりぬけていくのを想像してみたらいい。いらないものが、風と一緒に、すべて流される。というか、あのクソ母親の言ったことも、全部流されるから」
「それって浄化みたいな……?」
「そう、そんな感じ。以前、たまたま、ちらっと本で読んで記憶に残ってたんだ。腹が立ってた時に思い出して、やってみたら、意外とすっきりした。それに、不思議と、向かい風も歩きやすくなった。どうぜ、風の中を歩いているんだったら、イメージして歩くだけだし、やって損はない」
「なんか、森野君が浄化って意外だよね……。絶対、いらなさそうだから」
思わず、笑ってしまった私に、森野君も笑いながら答えた。
「いや、そうでもない。俺は腹黒いし、色々ためこんでるから、浄化すべきものが結構あると思う。今も、花を傷つけたクソ母親に黒いものが、うずまいているしな……。でも、花が笑ってくれて良かった。……あ、そうだ。今日、春さんからまた連絡があって、お昼、一緒に食べながら話そうって。なんか、お気に入りのパン屋さんがあるらしくって、色々おすすめのパンを用意しておくって言ってた。1時に約束してるから、少し遅めのお昼になるけど、花はそれで大丈夫?」
「うん、嬉しい。パン、大好きだから」
「なら、良かった。じゃあ、また、あとで」
電話を切ると、私は早速、森野君に言われたように、自分の体を風がとおりぬけることを想像しながら、歩き始めた。
心にたまった不要なものが流れていくようにイメージしてみる。
さっき、聞いたお母様の言葉も、今までのお母様の言葉も、風と一緒に流れ去っていくように……。
あ、気持ちがいい……。
それに、確かに、向かい風の中でも楽に歩けるように思える。
駅につくころには、すっかり体が軽くなったような気がした。




